私は高い山々の間を行くのであつた イワン・ツルゲーネフ
私は高い山々の間を行くのであつた
私は高い山々の間を、清らかな河のほとりを
谷から谷へと行くのであつた……
瞳に映るありとあらゆるものは、
ただひとつのことを私に語る。
自分は愛されてゐた、愛されてゐた、この私は!
私はほかのことを忘れはててゐた!
空は高く光り、
葉はそよぎ、鳥は歌ふ……
雲は嬉々としていづくともなしに
つぎつぎに飛びわたり……
あたりのものは何もかもめぐみにあふれ、
しかも心はめぐみに不自由はしなかつたのだ。
波ははこぶ、私をはこぶ、
海の波のやうに寄せてくる波!
こころにはただ靜寂があつた、
喜びや悲しみを越えて……
やうやくにして心に思ふ、
この世はみな私のものであつた! と。
かかる時に私はどうして死ななかつたのか、
さうしてふたり何ゆゑに生きて來たのか、
歳月(としつき)は遠くうつる、……うつろふ月日(つきひ)
さうしてあの愚かしくめぐまれた日にもまして、
何ひとつとして甘美(うるは)しく明るい日を
與へてはくれなかつたのだ!
一八七八年十一月