僕は狂師でありたいのだ
一月以上前に、前の学校の教え子が(彼はアメリカで語学を学んで「空」を飛ぼうとしている!)、昔、授業で聞いた山崎正和の「水の東西」を読みたくなったという。僕が教えた教材ではないが、それを今日、送った。
その感謝のメールをもらって、僕は何より「教師」であったことを嬉しく思う。社会的教師であることなど、糞食らえ!
誰かに教え、そうして、逆に教えられる関係が「狂師」→教師であろう。
僕は教師であるより→「狂師」でありたい。
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その彼の返事を引用する。
『せっかくの代休だというのに、お手数掛けてすいません。ありがとうございました!まだ読んでいませんがすべて確認できました。
体育祭のやぶちゃんの写真も添付されてると少し期待しちゃった^^アハッ^^
アメリカで剛腕を剛脚を身につけて同じペア、同じ場所で再戦を望む。』
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最後の言葉は分からないか? 彼は右腕を折った僕が復活した、あの瞬間にいた忘れられぬカヌー競漕の「彼」なのだ――