夜半に眼ざめて イワン・ツルゲーネフ
夜半に眼ざめて
夜半に私は寢床から起き上つた……、誰かが私を呼んだやうな氣がしたのである……、暗い窓のむかうの方で……。
私は窓硝子に顏をおしあてて、耳をすまし、眼を瞠つて――待つてゐた。
けれど窓のむかうには樹々が單調に、しかも雜然と――ざわめいてゐるばかりであつた。濃い、煙のやうな雲は絶えず動き、うつろひながらもいつまでも同じであつた――天(そら)には星かげもなく、地には火影(ほかげ)もない。外はさみしく、もの憂い、……丁度わたしの心の中のやうに。
しかもふと、どこか遠くの方から、悲しげな聲が聞こえて來て、いよいよ高まり、近づいて來て、人間の聲となつた。やがてまた低くなり靜かに消えて行つた。
「さよなら! さよなら!」
聲の消えてゆく時に、わたしはこんな言葉を耳にした。
ああ! わたしの過去のすべては、わたしのあらゆる幸福は、わたしが愛し、いつくしんだありとあらゆるものは、永劫にわたしを去つて、再びここに歸つては來ないのだ!
わたしは飛び去つて行く私の生涯にぬかづき、寢床のうへに横たはつた……、まるで墓にでも入つたやうに……。
ああ、これがまことの墓ならば!
一八七九年六月