入定の執念 「老媼茶話」より
先日のブログ「星野之宣 宗像教授異考録 第七集・第八集」の最後で語った話を、贈ろう――三坂春編(みさかはるよし)(1704?~65)が記録した会津地方を中心とする寛保二(1742)年の序を持つ奇談集「老媼茶話」(ろうおうさわ)から。
僕の現代語訳はこちら。
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老媼茶話七
入定の執念
大和国(やまとのくに)郡山(こうりやま)高市(たけち)の郡(こおり)、妙通山清閑寺観音堂の守(も)り坊主に恵達(えたつ)といふ出家、「観音夢相(むそう)の告有り。」と云ひて、承応元年壬辰三月廿一日、阿弥陀ヶ原といふ処にて深く穴を掘り、生(いき)きながら埋まる。恵達、年(とし)六拾壱なり。しかるに恵達、入定(にゅうじょう)の年より宝永三年迄、年数五拾五年に及ぶ迄、塚の内にて鉦鼓(しょうご)をならし、念仏申す声きこゆ。是れに依りて阿弥陀ヶ原の念仏塚と名付け、壇を築(つ)き、印(しるし)に松を植ゑたり。其の松、年経(ふ)りて大木と成り、卒塔婆(そとば)苔むして、露深々(しんしん)草茫々たる気色なり。
宝永三年秋八月、大風吹きて念仏塚の松を根こぎに吹き倒しける。村人共(ども)打ち寄り、その内にこざかしき百姓申けるは、「人に七魂(しちこん)有りて、六魂(ろっこん)からだをはなれ、一魂死骨(しこつ)を守るといへり。弘法の入定、末代(まつだい)の不思議なり。其の外の凡僧(ぼんそう)の及ぶべき事にあらず。幸ひ、此の塚を崩(くず)し内を見るべし。」といふ。「尤も也。」とてん、手に鋤(すき)・鍬(くわ)を持ちて、石をのけ、土を引き、石郭(せきかく)の蓋(ふた)をとれば、棺の内に、恵達、髪髭(かみひげ)、銀針(ぎんしん)のごとく、炭の折れの様にやせつかれ、首にかけたる鉦鼓をならし、念仏申し居(い)たりけるが、人声を聞きて目をひらく。庄屋源右衛門といふもの、恵達に近付き申す様、「汝、決定(けつじよう)往生、即身成仏(そくしんじょうぶつ)の願ひを立て、承応の始め入定す。いままで何ゆへに此の世に執念をとどめて往生せざる。」。恵達申すやう、「我、元(もと)備前児嶋のもの。七歳より同国大徳寺にて剃髪(ていはつ)して、十九才の春より諸国修行して山々嶽々の尊き霊仏霊社を拝み廻り、高野へ七度、熊野へ七度、吉野の御嶽(みたけ)へ七度詣でて、浅間のたけにて現在地獄をまのあたり見てより、尚々(なおなお)此世の仮(かり)なる事を厭(いと)い、はやく極楽浄土弥陀の御国へ参らん事をいそぎ、入定せしむる砌(みぎり)、此の事、聞き及び、回向(えこう)の貴賤、近郷よりつどひ集り、十念(じゅうねん)授(さず)くる。数万人押し合ひ、もみ合い、我が前に進みよる。其の内、十八、九の美女、群集(ぐんじゅ)の人を押し分け、我が前へ来(きた)り、衣の袖にすがり、ほろりと泣きて十念を望む。我、此の折り、此の女に念をとどむる心有り。定めて此の故に成仏をとぐる障(さわ)りと成りしものなるべし。」といふ。
庄屋、其の折り、生き残りし老人に尋ぬるに、老人申すは、「その折、近郷の美人と沙汰いたし、そのうへ後生願(ごしょうねが)ひにて候ふは、米倉村庄八郎娘に『るり』と申せしにて候ふべし。今、幸ひ、存命仕つる。つれよせ給へ。」といふ。庄屋、「その女、爰元(ここもと)へつれ来(きた)るべし。」といふに、やや有りて壱人の古姥(ふるうば)をつれきたる。髪は雪をいただき、荊(おどろ)を乱し、目はただれくぼみ入り、歯は壱枚もなく、腰は二重に曲がり、漸(ようよう)人に助けられ、杖にすがり、坊主が前によろぼひ来(きた)る。庄屋、恵達に申すは、「此の姥(うば)こそ、汝、入定の砌(みぎり)に執念をとどめし米倉村庄八が娘『るり』といひし美女なり。其の節は十九、今、七十三歳なり。是れを見て愛着(あいじゃく)の心あらんや。妄念・愛執をはなれ、はやく仏果(ぶつか)に至るべし。」と示しければ、恵達、此の姥をつくづくと詠(なが)めけるが、朝日に向ふ霜のごとく、皮肉(ひにく)、忽(たちま)ち消え失せて、一具の白骨斗(ばか)り残りたり。誠に人の執心程おそろしきものはなし。
[やぶちゃん注:底本は1992年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫26 近世奇談集成[一]」を用いたが、高校生にも読めるように、送り仮名や読み及び漢字表記を僕の勝手自在に改めた。その際、読みも底本に準じて(底本自体がルビに現代仮名遣を用いている)僕のポリシーを無視し、現代仮名遣に徹した。これを読んで円谷プロの1973年放映開始の「恐怖劇場アンバランス」の、あのぶっとんだ第一作「木乃伊(ミイラ)の恋」 (原作・円地文子『二世の縁拾遺』 脚本・田中陽造 監督・鈴木清順)を思い出された方は→2008年10月19日附の僕のブログ『「入定の執念」と「木乃伊(ミイラ)の恋」』など、御笑覧あれ。 ]