滿足してゐる人 イワン・ツルゲーネフ
滿足してゐる人
一人のまだうら若い男が都の街を跳ねるやうに疾(はし)つてゆく。彼の動作は喜びに充ち、いきいきして、眼は輝き、脣は微笑み、昂奮した顏はここちよく紅らんでゐる……。彼は渾身これ滿足と喜悦に充ちあふれてゐるのだ。
彼の身の上に何が起つたのか。遺産が手に入つたのか。陞進したのか。あひびきに急いでゐるのか。それともただ――うまい朝飯を食べて――健康の感じ、滿腹の感じが、からだ中に、たのしく沸き返つてゐたのか。彼の頸に、早くも御身の美しい八稜十字章でもかけられてゐたのか、ポーランドの王、スタニスラフよ。
否、彼は知合に對して讒言を捏造し、それを一所懸命にひろめ歩き、その同じ讒言を他の知合から聽いて……今度は彼自身もそれを信じてしまつたのである。
ああ、この愛すべき前途多望の青年は、この瞬間において、いかばかり滿足し、いかばかり善良ですらもあつたらう!
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・ポーランドの王、スタニスラフよ:その頃の最も低い文官勳章であつたスタニスラフ勳章と、ポーランドの王スタニスラフとをかけた洒落。
[やぶちゃん注:傍点「ゝ」は下線に代えた。]