入定の執念 やぶちゃん訳
「入定の執念 「老媼茶話」より」を僕なりに現代語訳してみた。試験問題化した際に、解説で2/3を現代語訳しているが、今回、全文を訳し直した。こういう現代語訳は本当に心底、楽しい。
入定の執念 やぶちゃん訳(copyright 2008 Yabtyan)
大和の国、郡山の高市(たかいち)郡にあった妙通山清閑寺観音堂の堂守りの僧で、恵達(えたつ)という出家が、「観音菩薩様の夢のお告げがあった。」と言って、承応元年三月壬辰(みずのえたつ)三月二十一日、阿弥陀ヶ原という所で穴を掘って入り、空気の通ずる穴のみを残し、生きながらに埋まって、即身成仏の行に入った。恵達、時に六十一歳。
しかしその後、入定の年より宝永三年に至るまで、実にその年五十五年を経ても、その入定塚の中にあって鉦鼓(しょうご)を鳴らし、念仏を唱える恵達の声が聞こえ続けた。
故に人々はそこを阿弥陀ヶ原の念仏塚と名付け、数年の後、土を盛って祭壇を築き、そこに印の松を植えた。しかしその松も、更に年経て大木となり、当初は年々になされていた供養の卒塔婆もはや苔蒸して、露繁く、草茫々たる凄絶な気配の地となったのである。――
宝永三年の秋、八月のこと、大風が吹いて、念仏塚の松を根こそぎ吹き倒してしまった。村人どもが集まってきて何やかやと言い合っているうち、その中の一人の小賢しい百姓が、
「人には七つの魂があって、そのうちの六つの魂は体を離れるが、ただ一つの魂だけは残って死者の遺骸を守るとは聞く。じゃが、それは弘法大師様の御入定にのみ語られてきた即身成仏の末代までの不思議じゃ。大師様以外の凡僧の及ぶような境地では、ない。これ幸いじゃ、この塚を崩して中を見るに若(し)くはない。」
と言う。人々も
「もっともなことじゃ。」
ということで、手に手に鋤・鍬を持って、石を除け、土を退かして、石棺の蓋を取る――
すると、棺の内に、座った恵達が、いる――
髪も髭も銀の針のように真っ白になって、炭の木っ端の如くに痩せ衰え、それでもなお首にかけた鉦鼓を鳴らしながら、念仏を唱えている――
……と、恵達は人々の声に目を開く――
庄屋の源右衛門という者が恐る恐る恵達に近づき、次のように語りかける。
「そなたは決定(けつじょう)往生即身成仏の願を立て、承応の初めに入定した。にも拘わらず、何故に今まで、このように浮世から離れられぬ執念を残して、往生せずにおるのじゃ?」
恵達は答えて言う。
「我はもと、備前の国、児島の生まれ。……七歳の折に同国大徳寺で剃髪し、十九の春より諸国行脚の旅に出、……あの山この峯と、尊い多くの社寺仏閣を拝み廻り、……高野へ七度、熊野へ七度、吉野の御嶽金峰山へ七度詣でて、……そうして浅間の山では、噴き出だすおぞましき現在地獄の有様を目の当たりに見るやいなや、いよいよこの世は誠に仮の宿りであることを悟って厭うこと頻り、早う極楽浄土の弥陀の御国に参りたいと心せくようになったのじゃ……さても、そうして、観音のお告げを受け、いざ入定せんとする、その砌(みぎり)、……我の即身成仏の噂を聞き及んだ人々が、我の入定祈念の回向のためと称して貴賤を問わず大勢集まって参り……我は十念称名(じゅうねんしょうみょう)をそれらの人々に授け……実に数万の者が押し合いへし合い、我が前に称名を受けようと進み寄ってくる……と、その時……その中に……十八、九の美しい娘が一人、群衆の中を押し分けてやって来る……私の前へやって来ると……私の衣の裾にすがり……ほろりと涙して……十念をお授け下さいまし、と願うた……
――我は、この時、この娘に、心、奪われた……
……定めて、その執心が、未だに成仏の妨げと、なっておるのであろう……」
と。
庄屋は、ちょうどその時、来合わせていた五十五年の昔から未だに生き残っていた老人にその頃のことを尋ねてみたところ、老人は、
「その頃、この近郷で美人と噂され、加えて信心深かった者と申せば、米倉村の庄八郎の娘『るり』と申す者にございましょう。今も、幸いして、存命でござりまする。ここに連れ参らせましょうぞ。」
と言う。庄屋が
「うむ、その女を、ここへ連れてくるがよい。」
と言ったところ、やがて連れ来ることを頼まれた者が、一人の老婆を連れてやって来る――
老婆は真っ白になった髪をぼさぼさに乱して、目は爛れ窪み、歯に至っては一枚もなく抜け落ちて、腰は二重に曲がって、やっとのことで人に助けられ、杖にすがって、恵達の前によろぼいつつ寄って来る――
庄屋が、恵達に言う、
「この老婆こそ、そなたが入定の砌、執念を留めたと申す、米倉村庄八郎の娘『るり』、といった『美女』であるぞ。その頃は十九、今は七十三。この姿を見ても、そなたには『るり』への愛着の心があると申すか!? 妄念たる愛の執着を離れ、速やかに成仏するがよいぞ!」
と老婆を指さしたところ――恵達は、この醜く老いさらばえた老婆をつくづくと眺めていたが、朝日に霜の消えるが如く、皮も肉もたちまちのうちに消え失せて、ひと揃いの白骨ばかりが残ったのであった……まこと、人の執念ほど、恐ろしきものはない。
注:
・鉦鼓=勤行の際に叩く円形の青銅製のかね。
・決定往生=疑いなく極楽に往生すること。
・現在地獄=浅間山の硫黄を含んだ水蒸気を噴き出している場所。
・回向=仏事を営んで死者の成仏を祈ること。ここでは恵達の即身成仏を祈念すること。
・十念=十念称名。南無阿弥陀仏の名号を十回唱えること。ここでは恵達の即身成仏を祈念する衆生にそれを授けることで、祈念する人の往生を逆に確かなものとすることを言う。