NESSUN MAGGIOR DOLORE イワン・ツルゲーネフ 補注追加
◎NESSUN MAGGIOR DOLORE:この題名は実際には“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”と続き、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。シチュエーションは次の注を参照されたいが、昭和62(1987)年集英社刊寿岳文章訳「神曲」の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患(くげん)は、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇に在(あ)って、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は以下の注を附している。『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』
◎中山氏の註にある「神曲」中の「フランチェスカ・ダ・リミエ」(「エ」はママ。)について、寿岳文章訳「神曲」の脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。
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