黑鶫 また イワン・ツルゲーネフ
黑鶫 また
私はまた床に臥つてゐる……、私はまた眠れない。夏の晨朝(あさ)は今も私を四方からおしつつんでゐる、私の窓の下には今も黑鶫が歌つてゐる、こころのなかには相も變らぬ傷手(いたで)が燃えあがつてゐる。
けれど私のこころは黑鶫の歌にやはらぎもしない、それに私はいま私の傷手(いたで)を思ひもしない。
ほかの數へきれないほどの生々しい傷手(いたで)が私を惱ますのである。傷からは眞紅の滴をなして、いとしい、惜しい血が、あの高い屋根から街の埃や芥のうへに落ちる雨水のやうに、たえ間もなく、味氣なく流れる。
今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞(しろ)の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく、幾千の同胞(はらから)たちは、無能な司令官たちのために、張りひろげられた死の罠に、はかない犠牲(いけにへ)として投げこまれる。
彼らは呟きもせずに亡びる。彼らは惜しげもなく亡ぼされる、彼らは自分自身を悲しみもしない、またその無能な司令官たちとても彼らを悲しみはしない。
そこには正しいものも、罪を犯したものもない。打禾機(うちて)は穗束(ほたば)をたたく、空穗であるか、粒がついてゐるかは、時が經てばわかるであらう。それにしても私の傷手は何なのか。私の苦惱は何を意味するのか。私は敢へて泣かうとはしない。しかも頭は熱し、氣は失ふ。また私は、罪びとのやうに厭はしい枕邊に頭をかくす。
熱い、重々しい滴が私の頰にあつまり、流れる、……脣のうへにも滑り落ちる、……これは何なのか、涙か、……それとも血か?
一八七八年八月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく:一八七八年七月下旬、ツルゲーネフはペエテルブルグにおもむき、翌八月にはモスクワを經て故郷スパッスコエに歸り月末にそこを發つてゐる。この散文詩は故郷で書いたものと想像される。このときの歸國は十六年間絶交してゐたトルストイと和解し、彼の家を訪問したことによつて記憶される。時は露土戰爭の終つたばかりで二人は戰爭について長い議論をしたと傳へられる。殊にブルガリヤのプレヴナ等に於て露軍が作戰を誤り、甚大なる損害を蒙つたことなどが話題の中心をなしたものと推察され、それが直ちにこの詩の内容を形づくつたものと考へられる。
□やぶちゃん注
◎黑鶫:(実はクロツグミではなくクロウタドリ)は昨日の詩「黒鶫」の私の注を参照のこと。
◎墻壁:「墻」は「牆」と同字で、「牆壁」は垣根・築地(ついじ)・土塀の意。ここではプレヴェン要塞の城壁を言う。
◎中山氏が言及する「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした私の電子テクストであるガルシンの「四日間」に詳しいので、是非、お読み頂きたい。
◎中山氏が言う「ブルガリヤのプレヴナ」は、バルカン半島のプレヴェンПлевен(ブルガリア語:アルファベット変換するとPleven)で、現在のブルガリアのプレヴェン州の州都である。1877年から1878年にかけての露土戦争の際には、ここのプレヴェン要塞が最大にして最後の激戦地となった。包囲したロシア軍に対して要塞を死守せんとするオスマン軍のオスマン・パシャの抵抗は凡そ5箇月に及び、ロシア軍は多くの戦死者を出した。