星野之宣 宗像教授異考録 第七集・第八集
小学館刊の星野之宣氏の「宗像教授異考録」第七集(2008年3月)及び第八集(2008年9月)を読む。兼ねてより、SFをテーゼとする星野氏の系列の中では、読んで「してやったり!」という気分が起こりにくい(「ヤマタイカ」や「2001夜物語」、『幼女伝説シリーズ』に僕が感じるようには)、熊楠の面影を湛える伝奇(ただくす)教授にも「鉄」の民俗学にも大いに惹かれながら、どこかでやや食い足りない、と感じてきたこのシリーズなのであるが、第八巻の、「鉄」シリーズからは傍流と言える一篇「廃線」を、通勤の電車の中で読み乍ら、「プルートゥ」の「ノース2号の巻」以来、久しぶりに涙腺が緩んでしまって、思わず落涙した。一読、手塚治虫先生の「カノン」を想起したが、あれにはある種の悲惨なネガティヴな生臭さが読後に付きまとうのに対し、この「廃線」は読み終えて後、いかにも爽やかだった。北の冷えた、しかもツンとしながら懐かしい青臭い叢の匂いが漂ってくる。古河市等に残るよく知られた近代民話としての「ニセ汽車」が、なんと美しく登場することだろう! キタキツネ・廃線・汽車という伏線に気づかなかった迂闊な自分がそこにいた。いや、気づかなかったからこそ「ニセ汽車か!」と思わず東海道線の中でつぶやいて、「やられた!」と心地よく思うことがも出来たのであった。
如何にも確信犯的な「アッシャー家の崩壊」の、文字通りの「ブラック」・パロディの「九呂古志家の崩壊」も最後まで飽きさせない美事な展開である。エンディングでお定まりの教授による薀蓄の謎解きがなされているうちに火の手が九呂古志家に回ってしまい、去来(さき)と月岡を救い出すことが出来なくなるというのは、いささか往年のご都合主義のテレビ・ドラマを見るようでもあるが、「アッシャー家の崩壊」を構造的にパロッていることを公然と表明しており、またこの去来(さき)と月岡、当然の如く九呂古志家と共に命運を共にせねばならぬのであってみれば、瑕疵とは言えない。ただ、この壮大にして百足のように海の鼻(半島)に伸びた偏奇な館の崩壊はもう少し書き込んで欲しかったというのが、欲である(ちなみにここにはネタバレしないように、しかし、ある種のヒントが僕の文章には隠してある)。
「第七集」の方では赤ずきんをモチーフとした「赤の記憶」もタブーのスイッチが入ることによって集団そのものが狂気へと走る恐怖を描いて、また最終コマの皮肉な警告が効いている(今気づいたが「青頭巾」もカニバリズムだわい)。
また、思わずニンマリしたのが、第七集最終話の「吉備津の釜」の最後の方に語られる即身仏の執着の話である(これは同話の題にある上田秋成の「吉備津の釜」とは別話である。が、それを二十螺旋構造のように纏め上げるのが星野氏の驚くべき職人技なのである)。僕は3年前にこの原話を「老媼茶話」で読み(星野のこの作品の初出は2007年の『ビッグコミック』の8・9月号とある)、その面白さから、当時の高校二年生の実力テストにこの話の全文を用いてオリジナル問題を作って出題したのだった。テストでありながら何人かの生徒が、「先生、あの骨がばらばらっていっちゃう問題文、面白い話でしたね!」と言ってくれたのが何より嬉しかった――