老婆 イワン・ツルゲーネフ
老婆
私はただひとり曠い野原を歩いてゐた。
すると、ふと私のうしろに輕やかな、愼ましやかな、跫音(あしおと)が聞えるのであつた……誰かが私のあとを跟(つ)いて來たのだ。
ふりかへつて見ると、灰色の襤褸を着た、小さな、腰のまがつた老婆であつた。襤褸の中から老婆の顏ばかりが見えてゐた。
黄いろな、皴だらけの、鼻の尖つた、齒のない顏。
私はそばへ近づいた……老婆は立ちどまつた。
「お前さんは誰だね? 何が欲しいの? お前さん、乞食? 施與(ほどこし)を待つてるの?」
老婆は答へなかつた。私は老婆の方に身をかがめて見て、眼が兩方とも半透明の白ちやけた薄皮か、或る種の鳥に見られるやうな膜に蔽はれてゐるのに氣がついた。鳥はさうした膜によつて極めて明るい光から眼を庇護(まも)つてゐるのである。けれど、この老婆にあつては、この膜は動かずに、瞳を蔽つてゐるばかりであつた……、そこで、私は彼女が要するに盲目(めくら)なのだと考へた。施與(ほどこし)が欲しいのかね?」と私はもう一度訊いて見た、「お前さん、どうしてあとを跟(つ)いて來るの?」老婆はやはり返事をしなかつた。ただわづかに身を縮めるばかりであつた。
私は身を返して、さつさと歩き出した。
するとまた例の輕やかな、規則正しい、忍び足ともいふべき跫音(あしおと)が聞える。
「またこの死女郎(しめらう)が!」と私は考へた、「何だつて、おれにつきまとひやがるんだ!」しかし、そこでまた私は心の中にすぐに附け加へた、「たぶん眼が見えないので、道に迷ひ、一しよに人里へ出ようと思つて、私の跫音をたよりに、かうして歩いているんだらう、さうだ、てつきりさうだ。」
けれど妙に不安な氣持が私の心をだんだんと捉へてしまふのであつた。この老婆は、私に跟いて來るばかりでなく、私を指圖し、右に左におしやつて、私は知らず識らずのうちに彼女に従つてゐるのだと考へ出した。
それでもなほ私は歩きつづける……。しかも、見よ、私の行く手には、何かが黑くひろがつてゐる……穴のやうなものが……。「墓!」といふ言葉が私の頭にひらめいた、「たしかにおれをあそこへ追ひやらうといふのだな!」
私はさつと振りかへつた。老婆はまたも私とむき合つた。しかも今は眼が見えるのである! 老婆は、大きな、殘忍な、忌まはしい眼で、……鷙鳥(とり)の眼で、私を見てゐる……。私は彼女の顏を、彼女の眼をきつと見た……。するとまた例の曇つた膜、例の盲目(めくら)の、魯鈍な顏つき……。「ああ」と私は考へる、「この老婆は……おれの運命だ。人間には遁れられない運命なんだ!」
「遁れられない! 遁れられない! 何といふ狂氣の沙汰だ……。それにしても、試してみなければならぬ!」そこで私は、わきの、違つた方へ進んで行つた。
大いそぎに私は歩いて行く……。けれど私のあとに、近く、近く、またあの輕い跫音がかさかさと聞える……。前にはまた穴が黑く。
私はまた方向(むき)を變へる……。後にはまた、あの跫音がかさかさと。前には同じ怖ろしい點(ほし)が。追ひつめられてゐる兎のやうに、どんなにもがいても……、やはり同じことだ! 同じことだ。
「待てよ」と私は考へる、「ひとつ誑(だまか)してやらう! どこへも行くまい!」私はすぐ地べたに坐つてしまふ。
老婆は私から二歩ほどうしろに立つてゐる。……もうけ跫音は聞えないが、そこに老婆のゐることを感ずる。
ふと見ると遠くの方に黑く見えてゐた點(ほし)が漂ひながら、私の方へ這つてくる。
ああ! 私はふりかへる、老婆はじつと私を見てゐる……。齒のない口は、微笑に歪んでゐる。
「遁れられないんだ!」
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・老婆[やぶちゃん注:題名に注記号。]:親友であったピッチは、ツルゲーネフが絶えずこのやうな夢に惱まされたこと、この「老婆」の内容を或る年の夏ベルリンで語つてくれた由を傳へてゐる。[やぶちゃん補注:人物といい、恐怖対象といい、精神医学の教科書に出てくるような典型的な追跡妄想のパターンである。]
□やぶちゃん注
◎黄いろな、皴だらけの、鼻の尖つた、齒のない顏。:この行、冒頭の一字空けがないが、明らかに改行しているので、補った。
◎死女郎:正しくは「しにめろう」と読むようである。女を罵って言う差別語である。
◎「たしかにおれをあそこへ追ひやらうといふのだな!」:底本は「あすこ」。本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版で補正した。
◎鷙鳥:音読みは「しちょう」で、ワシタカ類等の肉食性の猛禽類や性質の荒い鳥を指す語。
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