初秋 尾形亀之助
昼が少し労れたような
黄ばんだ午後
わづかばかり見える
隣の屋根の上を
斜めに電線が通つてゐる
ぐつたり垂れしぼんだ
ほうせんくわの横から
むりに入りこんだような陽が
手水鉢を半分に破つてゐる
(一九二二、九、三)
*
(玄土第三巻第十号 大正11(1922)年10月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。二箇所の「ような」はママ。]
*
とこう前のブログに書きたるうちにアクセス数141006となりにけり。謝々!
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昼が少し労れたような
黄ばんだ午後
わづかばかり見える
隣の屋根の上を
斜めに電線が通つてゐる
ぐつたり垂れしぼんだ
ほうせんくわの横から
むりに入りこんだような陽が
手水鉢を半分に破つてゐる
(一九二二、九、三)
*
(玄土第三巻第十号 大正11(1922)年10月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。二箇所の「ような」はママ。]
*
とこう前のブログに書きたるうちにアクセス数141006となりにけり。謝々!
ゲノムに書き込まれた「その託卵」の命令はどんな歴史をドライヴし、そうしてどんなものなのだろう? 自分より大きな自分とは似ても似つかない「子」に餌をやり続けるアオジの映像をさっき見て、ふと、思った――
数年前に自分たちが騙されていることに気づいたウグイスが卵殻の色と色彩を変えつつあるのではないかという鳥類学者の見解を思い出したが、騙されていること/騙していることとは、そもそも何だろうと再び、ふと思った――
我々という生物体個体はDNAのヴィークルだという説は日に日に定説化してゆく勢いだが、種の保存という伝家の宝刀で、果たしてこの託卵は説明できるのだろうかと、またしても、ふと、思ったのだ――
自分の子であり、自分の分身であり、そうした愛情対象・代償行為対象であり、ところがそれに殺される親も子もあり、そうした「社会的」とでも「病的」とでも言う生物を生物学は説明出来るのだろうかと、ふと、最後に蛇足ながら思うのであった――
*
現在【11月30日10:42】アクセス数、140944。一週間たたないうちの1000アクセスを越える勢い。130000アクセス以来、有意の増加、皆さんの御関心に感謝します。これからも、自身のオリジアリティを更にシェイプ・アップする所存にて、御期待を裏切らぬこと、お約束します。
冬になつて
私達は白い空にまるい小さい太陽のあるのを見た
(太陽はシヨーウヰンドウの中に飾られた)
*
(太平洋詩人第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)
[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されている。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。]
子供の眠つてゐる静かな昼だ
天気がいゝので
ガラス戸がすつかり大きくなつてゐる
*
(京都詩人第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)
[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されている。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。]
窓をあけたので
部屋の中に風が吹き初めた
私は窓に花と鳥を飾らう
そして
やはらかい寝椅子を買つて来てパインアツプルの鑵を切らうよ
きらきらする陽も窓から入れて
私は青い空を見て一人で午後を部屋の中にゐる
[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されており、底本クレジットもない。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。次に記されている「昼の花」と同じであれば詩誌『京都詩人』(第二巻第一号・昭和2(1927)年1月発行)に所収するものとなるが、解説もなく不明。]
或る一日
なまぬるい颶風が吹いて来た
とぼけたやうきだ
がたがた
吹き込んだ風が
ずいぶんたくさんあるすき間から
部屋の中へ流れ込む
がたがた
朝から吹きどほしだ
夕暮
夕暮
今
遠くの細い煙突の所に
馬鹿のやうな太陽が沈もうとしている
*
(詩人四月号 大正12(1923)年4月発行)
[やぶちゃん注:「颶風」は音読みすると「グフウ」で、大きなつむじ風以外に台風、更に気象用語として最大級の暴風の旧称でもあった。ここで尾形がどう読んでいるかは確定が難しいが、「ぐふう」は如何にも生硬である。「たいふう」では時機はずれである。「つむじかぜ」だと第一連の「なまぬるい颶風」や次行の「とぼけた」陽気だという表現と微妙に齟齬を感じる。第一、音律がとぼけてしまう気がする。「つむじ風」は別に「はやて」とも言う。私は「颶風(はやて)」と読んでみたいが、如何であろう? 傍点「ヽ」は下線に代えた。「している」はママ。底本には標題の下に『〔「五月」異稿〕』とある。これは大正14(1925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「五月」を指す。そこでは
五月
或る夕暮
なまぬるい風が吹いて来た
そして
部屋の中へまでなまぬるい風が流れこんできた
太陽が ―― 馬鹿のような太陽が流れこんできた
遠くの煙突の所に沈みかけてゐた
とある。説明的な総天然色の異稿に対して、定稿は高速度撮影によるモノクロのシャープなイマージュとなっている。]
白い路
お前は
両側を短いほこりだらけの雑草狹さまれ
むくむくと
白い頭を寂しそうにもち上げてゐる
お前は
だらだらとただせばまつてゆくばかりだ
そして
雑草の原つぱの中に
潜つてゆくようになくなつてしもふ
今
お前のものとしてあるのは
よほど永く病んだ女が
遠くの方で
窓から首を出してゐる。
*
(玄土第三巻第十号 大正11(1922)年10月発行)
[やぶちゃん注:「狹さまれ」は「挟さまれ」の誤字である(以下「白い路」参照)。「寂しそうに」「潜つてゆくように」「しもふ」はママ。底本には標題の下に『〔「白い路」異稿〕』とある。これは大正14(1925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「白い路」を指す。そこでは
白い路
(或る久しく病める女のために私はうつむきに歩いてゐる)
両側を埃だらけの雑草に挟さまれて
むくむくと白い頭をさびしさうにあげて
原つぱに潜ぐるやうになくなつてゐる路
今 お前のものとして残つてゐるのは
よほど永く病んだ女が
遠くの方で窓から首を出してゐる
とある。前篇以上に、内在律とシークエンス数が極限にまで切り詰められている印象が強烈である。白い路と女の異様に白く細い首が美事にクロース・アップしてくるのである。]
雨
ちんたいした
ひるの部屋
天井が低い
おれは
ねころんで
蠅を捕まいた
*
(玄土第三巻第九号 大正11(1922)年9月発行)
[やぶちゃん注:「捕まいた」は「捕(つら)まいた」と読むのであろう。底本には標題の下に『〔「昼」異稿〕』とある。これは大正14(1925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「昼」を指す。そこでは
昼
昼の雨
ちんたいした部屋
天井が低い
おれは
ねころんで蠅をつかまへた
とある。内在律とシークエンス数が無駄なく切り詰められている。]
空
電柱と
尖つた屋根
灰色の家
路
新しいむぎわら帽子と
石の上に座るこじき
たそがれ時の
赤い火事
大きい眼で
私はそこから詩をぬすんだ
*
(玄土第三巻第八号 大正11(1922)年8月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。底本には標題の下に『〔「小石川の風景詩」異稿〕』とある。これは大正14(1925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「小石川風景詩」を指す。そこでは
小石川の風景詩
空
電柱と
尖つた屋根と
灰色の家
路
新しいむぎわら帽子と
石の上に座る乞食
たそがれどきの
赤い火事
となり、表記以外に最終連が完全に削除されるという大胆な変更が加えられている。]
一、洗ひはげた紺がすり
洗ひはげた紺がすりのすそは、何か彼が「さうでござりすとも」などと言ひながら歩いてゐて、ふと二三軒先の煙草屋へかけこむときは勿論いそがしく彼のすねにひらひらする。酒などを飲んでゐて、一升近くにもなつて、彼が大きく唇をなめ初めてゐても、誰か第三者が来席すれば、彼はときには三尺も後へ退つて、いそがしくきちようめんな妙な手つきで襟をただし、横坐りの膝の辺りをなでるやうにしてすその乱れを直して、片手はそのまま膝の上に止り、も一つは後頭部から首の辺へ行つて、ちよつと見ないふりをするやうな遠慮で障子の外を見てゐたりしてゐる。
一、小春日
だいぶよごれの目立つのを火のしでもかけたやうにたゝんだ跡をはつきりさせて、あたらしい足袋などをはいて、それになんとなくはな緒のゆるんだ足駄をはいて傘を持つた彼は、私ともう一人とで街を歩いてゐる。小春日といつた感じの日和の午後なのだが、それは朝から晴れてゐるのであつた。
一、いましめ
詩に対する彼の愛着はひどくガンコであつた。ときにはそのために馬鹿げた駄作(失敗)をして平気でしてゐる。魚をとつてゐるのにいたつてとれない。空に群れる渡り鳥を見あげて、それを投網で取つたらなんぼかいゝんだらう――といふ意味の詩の類のものなどを私はさう思つてゐる。殊にこの種のものは、自然でちよつとの無理もあつてはならない。彼ばかりではなく、ときとしての反都会人としての感情での作品は常によくない。
一、にぎやかし
何の会であつたか、例によつてといふので、彼はゑびコとかんじかコの踊りをやつた。私はいやな感じがしたので、帰途彼に「今度からあんな風に踊を所望されたら会費を返してもらふんだね」と言つたら、彼は「はあ――」と言つたきりで黙つてしまつた。彼が席をひきたてるとか座をにぎやはすとかをするときのその半分、遠慮なく言へば七分まで彼のすることがいやみとなるか例の例によつての類になつてしまつてゐた。つまり彼はあまりさうしたことをした回数が多過ぎたのだと思ふ。なぜか――となると、彼が何か言ひ残したことを言はふとして、そこらに来てゐるやうな気がして、背筋がさむくいくぶん泣きたいやうな気持になつてくる。彼がなぜあんな風に酒に親しんだか。
一、化けもの
よい人であつた、おしい人をなくした、親切な人であつた、すぐれた詩人であつた、と言ふ。私も同感してゐる。だが、凡そ意味ないことだ。私達は彼の死によつて彼そのものをなくしてしまつてゐるのだ。何時の間にか地上に生れ出て、私達の眼の前で死んで行つた彼とはいつたいなんだらう。まさしく化けものであると思ふほかない。
*
(鴉射亭随筆 昭和8(1933)年7月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。「大きく唇をなめ初めて」「馬鹿げた駄作(失敗)をして平気でしてゐる」「ときとしての反都会人としての感情での作品」「座をにぎやはす」「言ひ残したことを言はふとして」はママ。石川善助は尾形亀之助の一つ歳下の同郷の詩友。仙台市生。足が不自由であったが、漁船員・雑誌記者等、職業を点々とした後、昭和3(1928)年に上京、草野心平に出会い、その頃心平がやっていた屋台の焼鳥屋の手伝い等をしつつ、『日本詩人』『詩神』などに詩を発表していたが、昭和7(1932)年6月の深夜、乱酔して大森八幡坂近くの線路沿い側溝に落下、死去した。享年33歳であった。死後、詩集『亜寒帯』が出版されている。本篇末の底本表記にある「鴉射亭随筆」は石川善助の追悼文集。鴉射亭は石川の号。遺稿及び「友人感想」として宮澤賢治・尾形亀之助ら知人の追悼文を掲載する。尾形亀之助の拾遺詩には「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」(私のブログ掲載分)がある。尾形亀之助の追悼文は悲憤慷慨や慟哭悲泣と無縁である。しかし私はまさにそこに、無声(サイレント)の痛みの真心が聞こえる気がするのである。【2023年5月17日追記】「ゑびコとかんじかコ」について、Facebookの知人で尾形亀之助にお詳しいYumiko Suzukiさんから、先ほど『佐々木喜善と同様、宮沢賢治と深く繋がる石川善助についてですが、尾形亀之助が鴉射亭随筆に書いた「ゑびコとかんじかコ」の踊りは、「庄内おばこ」と判明✩.*˚ 海老と蛙が相撲をとって、投げ飛ばされた海老の腰が曲がったという民謡でした。亀之助は、脚の不自由な善助が踊っている姿を痛々しく思ったのですね。』という御情報を頂戴したので、ここに挙げておく。心から御礼申し上げるものである。]
去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた。つくづく考へてみるにこの二つの人間がやがては乞食と称ばれることになるかそれとも大臣大将となるのであるかどうかはわからぬが、兎に角にこの人達がもとになつて再び幾人かの人間を世の中へつくり出すのだと思ふと俺は面白いことをしたものだと感心し幾人でも生んでみる気にもなる。
俺は自分一人でさへ食つてはゆけぬといふ心配をせぬのだ。食ふことの心配とは自分が子供などを養育してゐるとか女房に着物を買つてやるとか月給が昇つたとかといふときのいひわけに過ぎぬのだ。そして、口ぐせにパンがどうのこうのと、子供にきれいな着物を着せたいなどといふやうな常識をもち、先月十円の貯金が今月は八円しか出来ぬといふことから来月は魚屋一円青物屋から一円と買物を減らして埋め合せをつけやうといふ数理を真理の如くに信じてゐるのである。どうすれば一枚の煎餅が二枚の煎餅になるか、鶏卵はそのまゝ食つてしまはずに雛にかへし鶏にそだてゝ卵を生まして食ふといふ方法はどんなことなのであるか、俺には食ふことの心配をするから食つてゆけるといふ理屈が皆目たゝぬ。だが、そんなことはどうでもいゝのだ。俺は今日朝も昼も飯を食ひたゞの空気を吸つてゐたのだ。明日一日飯が食へなくともそれは今の自分には何の関係もないのだから、どうして食へたかと食つてしまつた飯を考へる必要はないのだ。まこと今日あつての明日のあることは、昨日飯を食つたからといつて今の空腹のたしになつてはくれぬのである。しかも困つたことに自分に体がつきまとつてゐることは、自分と自分の体を二つの異つたものに取扱ふにはこの二つのものはあまりに混沌としてゐるのである。他人は俺が何かものを言へば俺の体が言つてゐるのだと思ひ、顔に生やしている髯を見ては俺に生えてゐるのだと思つたりしてゐるのだ。
きうりをならべて一時間近くもおとなしく遊んでゐる子供のそばに寝ころんでゐると、雨の降る空へ大きく花火があがつた。子供はたれてゐた顔を上げて俺を見たので、俺は首をふつてうなづいて答へた。子供は何か言ふのだ。「うゝゝゝゝ、うゝゝゝゝ」と窓の外を指して俺をまねて首をうなづかせ、両手をあげて俺にだかれてしまつた。俺は子供を膝にのせて、二発三発とつゞいてうちあがる花火を聞いてゐると如何にも親子らしい情景になるのであつた。ふと、「親父は俺に何も残して呉れなかつた。親父からもらつたものは俺のもつてゐるセンチメンタルだけだが、それもだんだん崩壊してしまった」と語つた男を思ひ出した。そして、ぶ然として子供をだいてゐて俺はおならをした。昼にごばうを食つたこともわびしいことではあるが、もしふところから今しがたまであがつてゐたやうな花火を取り出し、だいてゐる子供に窓からでも空へ打ちあげて見せれたならどんなにか屈託のない気持になれるだらうと思つた。この雨は誰が降らしてゐるのか、屁をかゞされてうすぎたなくなつてしまつた憐れな子供をだきつゞけてゐるのがいやになつた。俺は荒々しく立ちあがりそれでも気の毒な子供のためにはかけ声をかけて二階の段々を降りた。
*
(詩人時代第三巻第十二号 昭和8(1933)年12月発行)
[やぶちゃん注:「去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた」前者は昭和7(1932)年4月30日生まれの次男茜彦(あかひこ)、後者は昭和8(1933)年8月20日生まれの次男黄(こう)を指す。どちらも言い方が不正確であるが、再三、詩の中で尾形がぼやくように、彼にとって誕生日という時間の区切りが如何にも厭な、無意味なものであったということが如実に分かる。]
私の詩は短い。しかし短いのが自慢なのではない。自分としてはもう少し長い詩が書きたい。そして、もう少し私は詩の中に余裕をもちたい。「笑ひ」といふやうなものをゆつくり詩に書いてみたい。私の今の詩は詩集として一つに纒めて読んでもらうのが一番よいのだが、さう思ふやうに詩集は出せない。
私は又、思想にも詩作にも未だ固つたものを持つてゐない。このことはどんな風に今の私を言ひ著せばいゝのか私にはわからない。「私のやうな詩はどうかしら」と識者に見てもらつてゐる――と言つてよいと思ふ。唯、私はよい詩を作るやうになりたい。ぼんやりでいゝから一つの心境をつかみたい。(暗がりを手さぐりで歩いてゐることを思ふとさみしい)
私は詩作の生活に入つて七年になる。その六年間余の間には絵を描いてゐた頃もあつたが、詩は十編と発表してはゐないと思ふ。その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。
そして去年の五月頃から、詩の数から言へば秋になつてから今年の一月までに八十余編の詩作をして六十編余の詩を発表した。識者はこの私の詩を見てゐて呉れるものと自分は思つてゐる。だが、私はこれらの評言を待つてゐるよりも、もつとよい詩を書かなければならないと思つてゐる。一生懸命になつてゐなければ、ますます淋しくなるばかりだ。
×
「色ガラスの街」以後の詩を集めて、この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐたが、去年の暮れに男の子が生れたので、この希望は中止しなければならなくなつた。機会を得て、この冬か来春に私のこの希望をとげたいと思つてゐる。
*
(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)
[やぶちゃん注:「詩集として一つに纒めて読んでもらう」はママ。「その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。」とあるが、「色ガラスの街」は大正14(1925)11月1日発行で、この時期までの思潮社版全集の拾遺されている公開した詩は18篇、しかもその内には「色ガラスの街」の異稿である「無題」(「小石川の風景詩」異稿)・「昼」(「昼」異稿)・「さびしい路」(「白い路」異稿)・「颶風邪の日」(「五月」異稿)が含まれているので、差し引き14篇しか残存しない。逆にそれ以降から本篇のクレジット昭和2(1927)年3月迄の中期の拾遺詩を数えると、実に44篇も存在する。この前期拾遺詩の少なさは通常の詩人はもとより、寡作の尾形亀之助にしても異様と言わざるを得ない。「色ガラスの街」は序詩二篇を含め98篇、まさにその倍の凡そ200篇の詩があったのを、尾形自身が100篇近く、惜しげもなく捨て去っていたわけである「この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐた」とあり、別に昭和4(1929)年1月発行の詩誌『詩神』に掲載された「跡」の中でも『五月頃には間違ひなく出せる筈であつた詩集も机の中にそのままになつてしまつた』とあるのであるが、『この』昭和2(1927)年(と判断する)4月以降には吉行あぐりに対する一歩的な恋慕及び失恋、妻との不和、芥川龍之介の自死、映画への耽溺から映画雑誌の発行を企図し頓挫とそれどころではなく、翌昭和3(1928)年には一月の全詩人聯合結成、3月の妻タケとの別居と5月の協議離婚成立(3月15日には共産党大検挙があった)、12月には17歳の吉本優との同棲開始と落ち着く暇なく、『電燈装飾』なる第二詩集は、昭和4(1929)年5月20日の如何にもものさびた『雨になる朝』となって出版される。しかし、昭和4(1929)年6月発行の『詩と詩論』に所収する「さびしい人生興奮」では冒頭『詩集「雨になる朝」は去年の今頃出版する筈であつたのが一年ほど遅れた。これらの作品は一昨年のもので』とあり、この波乱万丈の一年にそのすべての詩が書かれていた、いや、先の「跡」の記載を信じるならば、その5月にはほぼ決定稿が完成していたというのも驚天動地と言わずばなるまい。ちなみに、この「電燈装飾」なる詩集名はむしろ、第三詩集の『障子のある家』にインスパイアされている感じがする。「去年の暮れに男の子が生れた」は大正15(1926)年12月22日の長男猟の誕生を言う(この三日後25日に昭和に改元)。]
何人もの方から、昨日のブログ記載の心理状態を危ぶむメールを頂いた。この老小人に有難く心を懸けて戴き、誠に恐縮する次第である。一部、語れぬ具体を省略しながら、御礼申し上げる。
『ご心配戴き有難う御座います。基本的にこれは尾形亀之助の詩を打ち込むうちに、自身がその世界にかぶってゆくことによる感情転移と思し召し下さい。ご安心の程を。』『ただ最近、ある種の』『現実に怒りを覚え、』『自律的にある種の決断を致しまして、その影響で』『感情的には少しばかり人嫌いになっている部分はあるやもしれません。しかし、何時も、お気遣い、本当に有難く思っております。』
冬になつて私は太陽を見る寂しいくせがついた
そして ガラスのやうな花粉をあびて眼を細くした
雪どけのする街は
一ところに売り出しの旗を立ててきたならしい花を咲かしてゐる
*
(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)
僕は51年間、確かに、僕自身が、忌まわしく、反吐が出るほどに
大嫌いだったのだ――
冬無題
雀が鳴いてゐる
雀が一月の白らけた空に古代模様の壁紙を貼つてゐる
昼
静かに窓を見てゐる
頭の中にゴムの匂ひがする
*
(文藝第五巻第四号 昭和2(1927)年4月発行)
僕はおまえに
(右を指差して)おまえに
(左を指差して)おまえに
(後ろを指差して)おまえに
(上を指差して)おまえに
(自分を指差して)おまえに
いや、そうだ、僕自身に――「さえ」等という修辞技巧を使用する以前に――
飽き飽きしているんだ――
Ⅰ
風が吹いて寒い夜である
夕飯に塩煎餅のやうな肉を喰べた
床の中で牛乳を飲んだ
電燈に煙草けむりがからまる
柴戸に風が鳴つて
眠れずに子供が泣いてゐる
Ⅱ
風の中のポンプのモーターの軋りが私の人生であるのなら
私は頭まで蒲団にもぐつて寝やう
電燈をま暗に消さう
天井の鼠と床を列らべて
私も蕪青を一口齧つて眼をつむらう
停車場のプラツトホームに草花の種を蒔いて
電車の電燈をすつかり消してしまつて乗つてゐやう
Ⅲ
表の通りを自動車が通つて行つた
夜は黒く むりに眼をつむれば淋しい
私ら四人の家族は笑ひ顔一つせずに一日を暮らしてしまつてゐる
×
私は寒いので便所へ行かずにゐる
そして 床の中でおならを一つした
*
(詩神第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)
青春が取り戻せないなんて
言わずもがなの説教をたれるな
そんなことは誰もが百も承知だ
僕の青春の蹉跌は僕だけのものだ
僕は誰にも共有を求めない
それはその「青春のその刹那の」対象者たるお前も含めてだ
だから
ほくそ笑むな/哀れむな/悲しむな
僕は僕を孤独に生きる
君は君を孤独に生きろ
それが 僕らの
たかが/されど
「詩」である
詩は死という絶妙の同音同義以外には
比喩はないのだ
ガラスびんに
細い、よわい、ながい、
青いくき
うすい色の花
赤ん坊のような
一本のやぐるま草
(玄土第三巻第八号 大正11(1922)年8月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。は「ような」はママ。]
午前二時
私は眼が覚めた
戸を開けて病院の方を見た
私に飛びかゝりそうないやみな暗みだ
雨が降つてゐる
今夜中そばにゐて下れと云つた
妻
妻が死にかゝつてゐるようである
私の前のふすまを開けて妻が入つて来そうだ
そんなことがあれば妻は死んでゐるのだ
*
(玄土第三巻第五号 大正11(1922)年5月発行)
[やぶちゃん注:「ようである」「来そうだ」はママ。]
久久で
妻を病院に見舞つた
妻は笑つてゐた
先よりも少しふとつてきれいになつてゐた
私はうれしく思つた
自分の来たことを妻はよろこんでゐるのだが
×
病室は
薬くさくも
病人臭くもなく
あけた窓からさし込んでいる陽が
室も人も
みな消毒してしまつたように
さつぱりとおちつてゐた
*
(玄土第三巻第四号 大正11(1922)年4月発行)
[やぶちゃん注:「みな消毒してしまつたように」の「ように」はママ。]
私達は
×
二人が
夫婦であることをたまらないほどうれしく思つてゐる
×
妻は私が大切で
私は妻が大切で
二人は
いつまでもいつまでも仲が良い
×
私はいつもへたな画をかくが
私も妻も
近い中に良い画がかけると思つてゐる
私達の仕事は楽しい
×
二人は
まだ若いからなかなか死なない
×
その中に
可愛いい子が生れる
×
私達二人は
良い父と
良い母とになる
*
(玄土第三巻第四号 大正11(1922)年4月発行)
[やぶちゃん注:尾形亀之助はこの前年、大正10(1921)年5月に福島県伊達郡保原町の開業医の長女森タケ(18歳)と結婚している。この大正11(1922)年1月には仙台からタケを伴い上京し本郷白山上に転居。日本未来派美術協会会員となり(前年十月の第二回未来派美術協会展で既に会友とはなっていた)、同協会の第三回展の準備運営に当っていた。本詩以降の三篇はそうした密月の最後の名残のように思われる(特にこれと次の詩篇は亀之助らしからぬ優良児的健康さを帯びている)。しかし、この詩の発表直後の五月に早くもタケと不和となり、家出するように旅に出ている。長女泉は大正13(1924)年4月の、長男猟は大正15(1926)年12月の誕生であり、その間、吉行あぐりへの恋慕といった女性関係が生じ、タケとは昭和3(1928)年3月別居、同年5月に協議離婚している。僅か7年の結婚生活であった。そして7箇月後の同年十二月には11歳年下の芳本優(17歳)と同棲を始めている。]
明滅 尾形亀之助
その一
――私はもう三つばかり先の駅で降りるのでなんとなくそは/\した気持になつて窓の外の景色へ眼をやつたり、棚から帽子を取つてかぶつたりしてゐました。そのうちに、私は自分が今降りるつもりになつてゐるSといふ駅から乗つたのだといふ風に思はれてくるのでしたが、しかしそれもなんだか変だしひよつとするといつの間にか駅に汽車が着いて、顔見知りの駅長さんや赤帽に挨拶をしたりなんかしながらうつかり乗り越してしまつてゐるやうな妙な不安な気持になつて、色々考へて見たあげくは、乗つたときとは反対に汽車が動いてゐるとしか思へないので、後向きに汽車が走つてゐるとすれば機関車は後ろから押してゐる筈なので、それを見やうと窓から首を出しても反対側へカーヴでもしてゐるのか、うねつた蛇の腹の一部分のやうな客車が前後に三つばかり見えるばかりで機関車までの見通しがつかず、人に聞くにも時によると月に三四回往復する場所なのでそれも気がひけてゐると、私の前に座つてゐた男が「Sへ行くのならまだ/\ですよ」と、私がポケットから出したり入れたりしている切符を見て言ふので、私が
「MのSなんです」と言ふと
「あゝそれならとつくに過ぎましたよ」
「――」私が黙りこんでどうしたものかと思案にくれてゐると
「お急ぎなのですか――」と言ふ。どうしたかげんか、私はその男に話しかけられるとおちついてしまつて
「いや、ちつとも急いでなんかゐないのです。Sで降りても降りなくてもどうでもいゝのです――」
と言ふのであつた。
「それじや、お退屈でせう」「えゝ」
「ぢゃ、どうです、学校の生徒の算術の試験の答案なのですが、半分見てすけて呉れませんか、出来てゐるのには○間違つてゐるのには△をつけて下さい」――と、私は四五十枚の答案を渡され、赤鉛筆まで握らされてとうわくしてゐると、その男は手をのばして渡されたまゝに私の膝にのつてゐる答案をめくつて、
「一年生のでやさしいんです。たゞ字が曲つたり太くなつたりして1だか7だか判断のつかないのがたくさんありますが、答さへ出来てゐれはいゝんですから○をつけて下さい。何――生徒は○でも△でも大きい方がいゝと思つてゐるんですよ。私も○と△とでどつちがいゝのか教へてゐないんです――」とその男のどこに愛嫡があるのか、ひき入れられるやうに、ひろげられた答案を見ると
4+7=11 3+9=21 9-4=5
といふやうなのが十ほど列らんでゐるのだつた。私は言はれるまゝに、渡された半分ほどに○と△をつけて、ふとその男を見ると、その男は私が顔をあげるのを待つてでもゐたやうに
「出来ましたか」と言ひながら、切符をあひるのやうな形に切りぬいたのを私に渡して
「僕はあひるを百羽ばかり育ててゐるんです。僕の帰るのを待ちかねて、門を入る足音を聞くと大変な囁き声をあげてかけ集るんですよ。そしてとりかこまれて僕は歩けなくなつてしまふのです―」[やぶちゃん注:「―」は表記の通り、一字分である。]
「――」見ると、その切符は私の切符なのです。念のためにあつちこちポケットをしらべてもないのです。私が変な顔をしたので、その男は
「あ、切符ですか。あひるのことを考へてゐたら、うつかり切りぬいてしまつたのです。こちらのを使つて下さい」
とその男が私に呉れた切符は、彼がノートを切つて作つたもので、たんねんに切符に似せて発行日や行先を書きこんで番号なども123ときちやうめんに入れてあるのだつたが、作者であるところの彼の名なのか端のところへK・MIYAZAWAとサインがしてあり、余白を埋めて花をくはへて飛んでゐる鳥や、影絵の馬の首、顔のある星、長靴、旗などが細々と向かれてゐるのであつた。私がなんとも返事に窮してゐると、その男はそれとさとつてか
「その切符でいゝのですよ。この汽車は僕の汽車なのです。ほんとうにしないのならちょつと止めてみませう――」
と窓から半身乗り出して両手を交叉させて二三度ふつて
「どうです――」と言ふと、如何にも汽車は速力がゆるんで、どしんとブレイキがかゝつて止まつてしまつた。そして
「今度は車掌を呼びませう」と言ふ。車掌が来ると、その男は私が乗り越してゐることを話して、駅の呼び名はもつと大きな声でするやうになどと注意をして
「逆行!」と重々しく命令すると、車掌は敬礼をして走つて車室を出て行き、間もなく汽車はもと来た方へ動き出して、一だんと速力が加はると、その男は
「これで僕失礼します。車掌によくたのんでありますから眠つてゐても大丈夫です」と言ふので他の乗客はどうするのかとあたりを見ると、だいぶこんでゐると思つたのに他に誰もゐないのです。あわてゝその男を追つて車室を出ると、客車の連結はそこで切れてゐるのにその男は何処へ消えたのか居なかつたのです――おかしいなと思ふと、私の眼の前に走つてゐる汽車の最後部を映写してゐるスクリンがあつて、其処にさつきのその男が帽子を片手に立つてゐるのです。
「さよなら――」
[やぶちゃん注:底本編注によれば、底本が底本とした「宮沢賢治追悼」(編集発行人草野心平)では、この間に一ページ分、宮澤賢治作「牧歌」の楽譜が収められている、とある。]
その二
スクリンに映つた列車の最後部からくり出すやうにレールが走り出る。トーキーではないのか、帽子をふつてゐるがその男は声を出さない。「さよなら――」との感じは見てゐる俺の胸の中であつた。そしてスクリンの中で列車は少しづゝずれるやうに俺との間かくが出来、だん/\に遠ざかつて行つて、その男はしぼられたレンズの列車の中にとけて消えてしまつた。――伴奏だけが残つた。
(牧歌)
種山ヶ原の雲の中で刈つた草は
どごさが置いだが忘れだ 雨ふる
種山ヶ原のせ高の芒あざみ
刈つてで置ぎわすれで、雨ふる雨ふる
種山ヶ原の霧の中で刈つた草さ
萱草も入つたが 忘れだ 雨ふる
種山ヶ原の置ぎわすれの草のたばは
どごがの長根でぬれでる ぬれでる
×
心平は口笛でそれに合せたが、俺は口笛が吹けないので黙つて歩いた。一本づつビールを下げて、ラッパ飲みをすると口のまはりがぬれるのでその度に服の袖でぬぐつた。街角へ来て立ちどまると、酔つてゐる体がよたくした。心平は「汽車はこゝを曲つて行つたんだ、どれちよつと電柱にきいてみる――はゝあ、さうか、うん、こゝを五分半ばかり前にゼン速力で通つた。帽子をふつて、さうか、ふん、いや有難ふ、さよなら――こつちだ、こつちだ」と歩き出す。そして、ときどき大声に「おーい、宮沢ア」と呼ぶのだ。どこへ来てゐるのか、街燈のまばらな暗い晩だ。心平は呼んでも返事がないので馳け出さうとする。俺はあわてゝ「待て、待て」と待たして、帽子をふつて汽車に乗つて通つた男の有無を聞くためにいきなり八百屋や煙草屋へ飛び込んで、ぱつと明るい店先で酔つてるんだと気がついて、八百屋ではりんご煙草屋では煙草を買つて、心平には「通つたことは通つたんださうだ。が、ずいぶん前なので馳けてもおつつかないんだ」と、うで組になつて歩き出す。一分もたゝないで心平は又「おーい」と大声をはりあげて、今度はうで組のまま走り出す。「よつしよ、よつしよ」向ふに明るい街角が見えると、心平はあれが汽車だ。あれに乗つてゐるのだといふ。ひと憩して、ラッパ飲みをして、ビール瓶を一二三で石垣にたゝきつけて万才をしろと残つてゐるビールを俺の口へつぎこんで背中の方までぬらし、両手をあげて踊つて、汽車が止つてゐるから今のうちに追ひつくんだと、立小便などをするひまがないとせがむ。明るい街角へ出て、心平は「こんなプラットホームはない――汽車もゐないし宮沢もゐない――」と泣いてしまふ。俺は困つてしまつたが大丈夫だからとだまして、おでん屋のやうなところを探して入ると、心平は熱心におでんを食ひビールを飲みポスターの美人に見とれたりしてゐる。どうしても今晩宮沢と会ふのだと言ふのに、自分も何時のまにかその気になつて夕方から一緒に歩きつゞけてゐたのだ。俺はつくづくと赤毛の交つた心平の髯についたビールのあはやおでんをつゝいてゐる手先や、ほこりにまみれたずぼんや靴を見てさめかけた酔ひになぶられ、外へ出れば又汽車を追ひかけるのだらうが、心平一人を馳けさせてしまつては、朝までにはこの間のやうに眼鏡も上着もずぼんも何処へ失くしたかなくしてしまふだらう。どんなことから宮沢が汽車になど乗つて帽子をふつて行つてしまつたことになつたのだつたかと、そんなことを考へてゐると、心平はコップを握つたまゝ机にもたれて眠つてしまつてゐる。疲れてゐるのだ。俺はほつとした。そして俺の囲りにビールの空瓶がやたらに列らんだ。
*
(宮沢賢治追悼 昭和9(1934)年1月 次郎社発行)
[やぶちゃん注:宮澤賢治は昭和8(1933)年9月21日に逝去、本作の初出は同年10月27日付『岩手日報』である。初出の原稿が存在し、形式(「その一」「その二」の区別がない)や一部表現に異同があるが(底本編註に掲載されている)、特に初出を提示しなければならない程の大きな異同とは認められないし、僕自身、この「宮沢賢治追悼」版の方を尾形亀之助の決定稿として推したい。なお、これと前のブログの「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」は底本の思潮社版全集では「評論」の部に所収されているのであるが、追悼文であっても、これもかれも私は明白にして哀しく美しい「詩」であると思う。部立への神経症的なこだわりなんかではない。こうなっていることが、尾形亀之助の詩集の中にこれらの作が所載される可能性が有意に減衰することを惜しむのである。]
*
宮澤賢治の「オツペルと象」「ざしき童子のはなし」「寓話(猫の事務所)」という極めてよく知られる三作が、尾形亀之助が編集人として創刊した月間文芸誌『月曜』が初出であることは余り知られていることとは思われない。亀之助が賢治の才能を早くから見抜いていたことはいわずもがな、亀之助と賢治の資質の違いもいわずもがな、である。これと前のブログの「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」に、彼我の懸隔を云々するのはアカデミズムの連中に任せておけばよい。差し当たり、僕にはまるで興味がない(亀之助自身にも賢治自身にもなおのことそれは興味がないことであると断言できる)。――何より僕は作家の追悼でこれほど素晴らしい「詩」を読んだのは、読んでいて落涙したのは、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」に次いで、未だ生涯二度目である。これぞ誠の追悼文である。僕には――とめどない涙に、へんに歪みながら、見えるのだ、……スクリーンの上を遠ざかってゆく「帽子を片手に立つてゐる」「その男」が……
*
蛇足。
OCRで読み込ませたら、
「4+7=11 3+9=21 9-4=5」
の部分が、
「A+→=-- ∽+¢=N- ¢-A=∽」
となっていた。
僕はそのままにしておきたい欲求にかられたことを告白しておく。
「散文詩」の公開は終わっても、僕は休んでる暇がない――
出発が遅れてるんだ、時計の針を指で進めよう――
僕には一種の麻薬なのだ、食事をするのも惜しいのだ……
――さて、そこで。とびきりの一篇。
題名からぶっとび! 尾形亀之助だ!
*
宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜) 尾形亀之助
当夜は友人ばかりの集まりだつた。今になつて考へれば、宮沢だけが年相応に白髪はえた見るからに六十くらいの年配なのに、われわれは現在のままの姿であつたのを、宮沢さへ六十ならそれでいいという風に思ひ込んでゐたものか誰も不思議がらずにゐるのでした。
中央テーブルの大きな盛花を前に宮沢夫妻の席があつて、宮沢は自分の席を空けて夫人の方の席に就き、その左右の列前の列とそれぞれ人達が席についてゐたが、私達の仲間はその三分の一ばかりで、あとは×大学名誉教授として学位を二つ持つてゐる彼の地位としてはその道の大家権威の顔も揃つて、友人ばかりといつても真面目な私などには肩ぐるしい感じさへするのであつた。が、幸ひそれらの権威どもは唯の影坊子のやうにいたつてかすかな物音だけしかさせず、しかもそのかすかな物音もしばらく消えてしまつてサイレント映画のやうなものを私は感じてゐました。
すると、突然拍手がおこつて人々がざわめくと、すつくり宮沢が立ち上がりました。
「昨夜にひきつづき祝賀を受け、今夜は妻までもご招待にあづかり――」と、言ひかけたとき、私ははつとしました。宮沢は宮沢賢治といふ名札の席を空けて宮沢夫人と書かれた名札の席から立つてゐるのだつた。
何時の間に宴がはてたのか、私は一人歩音のしない路を歩いてゐた。私は肩をこずかれたやうな気がしてふりむくと、草野が青い顔をして立つてゐる。
「奥さんのことか」といふと
「うん――」と言ふ。
「君の趣向じあなかつたのか」といふと、頭をふつて
「間違ひにきまつてゐるさ――」と私の先になつて歩いて行くのだつた。私が、
「しかし――」と、言ひかけると、草野はあわててそれをさへぎつた。私が、こうして二人で歩いてゐればその辺から宮沢夫人がひよつこり出て来て挨拶されるんじやあないかと、言はうとしたのだが、とつさに草野がそれと知つてのことだと私もわかつたのだ。草野は
「何、おれはここからこつちへ行くんだ、君はそつちへ行くんだろ、宮沢夫人が出て来つこないよ――」と曲つて行つてしまつた。そして、デヤボロといふ歌のふしで草野が歌つて行くのが聞えた。
「手の中の一本のすみれは賢治じあないよ
タンポポは黄色い花だ
電柱棒、でくの棒、足は歩くよ
宮沢さんの奥さんは何処にゐるのか、雲の中か――は、は、はは、はのはあ――
ゐないよ、見えないよ、見えないからゐないよ、馬鹿野郎、何処かの馬鹿野郎――」
次の日、眼が覚めて頭が痛かつた。やつと眠つたのが三時過ぎだ。女房が何処かへ行つてしまつたので、私も子供達も万年床だ。疾く帰れ。
*
(歴程6号 昭和14(1939)年4月発行)
[やぶちゃん注:「デヤボロ」はディアボロ“diabolo ”で、ジャグリングの一種である遊戯道具デヤボロを用いた大道芸の際に好んで用いられた曲か歌を指すか? ディアボロとは明治40年代初期(1900年後期)に日本に紹介された遊戯で、円錐を頂点で組み合わせたピンを二本の棒を紐で繋いだものに引っ掛けてヨーヨーのように激しく回転させ、空中にはねあげては、それをまた受け止める遊戯。所謂、中国雑技団でよく見かける中国ゴマによるコマ回しである。この最終段に現れる亀之助の「妻」とは、昭和3(1928)年5月の最初の妻タケとの離婚後、同年12月から同棲を始めた芳本優(17歳。亀之助は当時28歳)。次男茜彦(あかひこ)・三男黄(こう)・次女湲(けい)・四男乗(じょう)と子宝に恵まれたものの、昭和13(1938)年11月以降、家庭不和となり、優は度々家出を繰り返した。これはその最初の家出の際のもの。]
Иван Сергеевич Тургенев“Стихотворение в прозе”ツルゲーネフ作中山省三郎訳「散文詩」(全83篇)に「會話」・「老婆」・「乞食」・「この世の終末」・「マーシャ」・「東方傳奇」・「二つの四行詩」・「雀」・「雜役夫と白い手の人」・「きゃべつ汁」・「瑠璃色の國」・「ユー・ペー・ヴレーフスカヤを偲びて」・『「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」』・「航海」・「N・N・」・「NESSUN MAGGIOR DOLORE」・「私の樹」の16篇の挿絵を追加した。残すは45枚であるが、これは冒頭注で述べた如く、すぐに挿入するつもりはない。しかし、もしリクエストがあれば、お気軽にどうぞ。
ブログ140000アクセス記念として、Иван Сергеевич Тургенев“Стихотворение в прозе”ツルゲーネフ作中山省三郎訳「散文詩」(全83篇)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。
(現在、2006年5月18日のニフティのアクセス解析開始以来の累計アクセス数140639、1日当たりのアクセス平均は151.71である。)
なお、テクスト冒頭注でも述べる通り、本公開に力を貸し給うた我が友イヴァーナ・コルジセプヴァに、心からの感謝の念をここに表したい。
御身は泣きたまふ…………
御身はわたしの悲しみに涙を流す。私もまた、私を憫んでくれる御身に心を寄せて涙を流す。
けれど御身は、御身の悲しみにみづから涙を流したのではなかつたか。御身はただその悲しみを――私のうちに見出しただけではなかつたか。
一八八一年六月
[やぶちゃん注:なお、本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。]
*
全文校正中にブログ公開から落としていた一篇を発見。
これより数時間後には、「散文詩」全篇を公開する。
140000アクセス記念として、イワン・ツルゲーネフ「散文詩」を昨日にも公開するつもりであった。
が、本日、先に公開用原稿を送付したツルゲーネフを愛し、そうして、僕が愛する秘かな友より、その友の所蔵する本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは僕の底本とする角川版とは完全な同一稿ではなく、表記に微妙にして有意な違いがある)との詳細な全文校異が届いたのである。
その冒頭数篇を見ただけで、僕の愚劣なタイプ・ミスはもとより無数、いや、それ以上に中山氏の粒粒辛苦の驚くべき繊細な修正が、如実に読み取れることを知ったのである。
僕は今、この得難い友のラヴ・レターに、それを十全に吟味せねばならぬ使命感を心から感じている。いや、ここで間違いだけのテクストの拙速な公開はイワン・ツルゲーネフへの冒瀆であるという忸怩たる思いがある。タイプ・ミスは公開したブログ分も正す必要がある。現在、約1/3を補正したが、それだけでも2時間程を要した。
されば、「散文詩」公開は、暫くお待ち戴きたく、全文公開を待たれていた方へのお詫びを申し上げておきたい。
否、それだけ、確かなイワン・ツルゲーネフの「散文詩」を皆さんと共有するために――暫しの猶予を乞う次第である。
現在、2006年5月18日のニフティのアクセス解析開始以来、1400108アクセス。
生ログによって本日の15:01:21にアクセスして、僕の「忘れ得ぬ人々:写真版: ポンペイのドイツ人」を見た以下のあなたが140000人目の僕のすれ違った恋人でした――あなたは14:38:17に「Blog鬼火~日々の迷走: 尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」から入られた。あなたです。
2008/11/25 15:01:21 忘れ得ぬ人々:写真版: ポンペイのドイツ人
リモートホスト [やぶちゃん注:伏字。](神奈川) 訪問者ID [やぶちゃん注:伏字。]
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リンク元 https://onibi.cocolog-nifty.com/photos/wasureenu/
表示環境 1280x800 (32bpp) 言語 ja (Japanese)
*
140000アクセス記念は故あって明日以降とする。
ものは、勿論、イワン・ツルゲーネフ「散文詩」!
明日こそは! 明日こそは!
過ぎてゆく日は、いかばかり空虚(むなし)く、味氣なく、果敢ないもののみであつたらう! それは、いかばかり僅かな痕跡をとどめることであらう! 次から次へと、時はいかばかり無意味に魯(おろ)かしく過ぎ去つて行つたことであらう!
とはいへ、人はなほ生きようとする。人は生(いのち)に執着し、人は生(いのち)に、おのが身に來るべきものに望みをかける……ああ、人はいかなる幸福を未來に期待するのであらう!
しかもまた次に來るべき日もまた、今しがた過ぎて來た日と異らぬとは、どうして考へないのであらう。
人はそれを想ひやつても見ない。およそ考へることを欲しないのである、……それはいいことである。
「明日こそは! 明月こそは」と人は自らを慰める、しかもこの「明日こそは」が墓場へ陷(おと)し入れる。
さて――一たび墓に入つてしまへば――否應なしに考へることをやめてしまふのであらう。
一八七九年五月
[やぶちゃん注:本文中の「明日こそは! 明月こそは」の末尾には、底本は以上のようにエクスクラメンション・マークはない。原文は、“«Вот завтра, завтра!»”。中山氏はまさに、エクスクラメンション・マーク「一つ」にもこだわっているのである。]
*
そうである。その通りである――さりながら故にこそ――僕らは「書く」のである――そうでしょう? 「ロシアの大男」!
*
本詩を以ってイワン・ツルゲーネフの「散文詩」全篇のブログ公開を終えた。そうして丁度恐らく、本日、僕のブログは、140000アクセスに達する。
夕方になつてみても
自分は一度飯に立つたきりでそのまゝ机によりかゝつて煙草をのんでゐたのだ。
そして 今
机の下の蚊やりにうつかり足を触れて
しんから腹を立てて夜飯を食べずに寝床に入つてしまつた
何もそんない腹を立てるわけもないのに
こらえられない腹立しさはどうだ
まだ暮れきらない外のうす明りを睨んで
ごはんです――と妻がよぶのにも返事をしないでむつとして自分を投げ出してゐる態は……
俺は
「この男がいやになつた」と云つて自分から離れてしまいたい
*
(太平洋詩人第一巻第三号 大正15(1926)年9月発行)
140000アクセス間近で、アクセス解析を少し見てみる。ニフティはアクセス解析で何だかどうでもいいことをしてくれているのだ。それでも時々、僕は僕のところにどのような言葉の組合せで、来るのか/思いもかけず来てしまうか。を少し楽しみにして、これを見る。今回は、今日から過去4箇月7147件の中から、1件のみの約2500件のマイナー訪問者の「ワード/フレーズ」を縦覧して見て、思わず立ち止まった興味深いものを掲げてみたい。いや、その方は切羽詰って、自死の最期にそのようなフレーズを組み合わせたのかも知れぬのだが、しかし、勝手な僕には、何か不思議に素敵なのである。
・「似非教職 俊寛」:とびっきりの禅問答!
・「不倫告白 おじん 看護師」:僕も読んでみたいね。
・「人よ汝の夢の赴くまま今宵旅立とう」:何かの詩の一節(!)かと思いきや、どうもアニメの主人公の台詞らしい。
・「そなれあづまぎく」:まさかと思ったがキクの名なんだな。山地・海岸等の乾燥した土地に生える薄紫の可憐な花!
・「くっついてるさいばし」:尾崎放哉の句のようだ!
・『肺病に病んだ致死期のその詩人が、その林檎をそれと知らず口にして「なんて甘い……」と言いつつ』他にももう一件、ほぼ同一の『肺病に病んだ致死期のその詩人が、その林檎をそれと知らず口にして』:おや? これは僕が芥川龍之介の「詩集」を公開した時のブログの文章だわ! 気に入ってもらえましたかね?
・「叫び蚯蚓が噛み皮膚と悲劇」:シュールレアリスム!
・「世界の涯ては、自分自身の中にしかない」:同感だ。でも寺山が既に言ってるよ……
・「鬼火黙湖爪」:凄過ぎる!
・「タクシー運転手 脱臼 労災認定されない トイレ」:プロレタリア文学である……右遠位端骨折の僕もトイレで正真正銘鬱になった……
・「死のブローチ カードを刺すなら?」:ハードボイルドの映像が髣髴とするぜ!……と思ったのだが……ゲームですか……
さて、只今、累計アクセス数139866――
寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草類 藻類 苔類」は「海人草」(マクリ)を以って完結、これを以ってまっこと、「和漢三才圖會」水族の部を、完成した。
僕がこの自己拘束を始めたのは2007年の1月27日であったから、実に1年と10箇月が経過した(これは30000アクセスのプロジェクトであった。今や140000アクセスが目前である)。
僕はこの時が、こんなに早く来るとは、実は全く思っていなかったのだ――
僕は僕を抱きしめる、すべての安息の代わりに――
……でもきっと……近いうちに……寺島先生……僕はまた、何ぞ……やらかしますよ!――
キリスト
私は青年の、といふよりもまだ少年の自分が、村里の、天井の低い禮拜堂のうちにゐる夢を見た。微かな蠟燭のあかりは、赤く點々と、古びた聖像の前に燃えてゐた。
虹のやうな光の環が、ひとつびとつの小さな焰を繞つてゐた。會堂の中は冥く、ぼんやりとしてゐた。……けれど私の前には人々が群をなしてゐるのであつた。
どれもこれも亞麻色の髪をした農夫の頭であつた。夏の風が波のやうに、そよそよと吹きわたる時の垂穗のやうに、時々搖れうごいたり、垂れたり、また昂(あが)つたりしてゐた。
ふと、見も知らぬ人がうしろからやつて來て、私の隣に坐つた。
私はふりかへりもしなかつた。が、忽ちにこの仁(ひと)こそ、まぎれもないキリストであると感じたのである。
感動、好奇心、恐怖が立ちどころに私の心を捉へてしまふ。
無理に私は心をひきたてて、この隣人に見入るのであつた。
ありとあらゆる人間の面輪(おもわ)――すべての人間の相形(さうぎやう)にまがふかたなき顏。眼は注意深げに、靜かに稍々上の方を向いてゐた。脣は緘ぢられてはゐたが、決して結んでゐるのではなかつた。ただ、上脣が下脣のうへに休んでゐるに過ぎなかつた。僅かな髯は、左右にわかれてゐた。手は組合はせられたまま、微動だにもしない。しかも着物は、ありふれたものであつた。
「何といふキリストであらう!」私は考へた、「こんな平凡な、平凡な人間が! さういふわけがあるものか!」
私が顏をそむけた。しかし、やはりこの平凡な人間から眼をそらすことができなかつた。すると、また自分の傍に立つてゐるのは、本當のキリストだといふ氣がして來たのである。
私は再び、再び自分を引き立てようとつとめた……かくて、世のあらゆる人々の顏に似た顏、見ず知らずではあるが、そこにもここにも見受けられるやうな面持(おももち)をした顏を、重ねて見るのであつた。
そのうちに、急にぞくぞくして、眼が覺めた。――この時はじめて、かうした顏、すべての人間の顏によく似たこの顏こそ、正(まさ)しくキリストの顏であると悟つたのである。
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎焰を繞つてゐた:「焰を繞(めぐ)つてゐた」と読む。光の環がそれぞれの炎の周囲を囲んでいるのである。
◎靜かに稍々上の方を向いてゐた:「稍々」音読みすれば「しょうしょう」(「やや」の意)であるが、ここはやはり「やや」と二字で訓じておきたい。
◎脣は緘ぢられてはゐたが:「脣は緘(と)ぢられてはゐたが」と読む。
隣りから来てゐる枝から青柿一つ盗む秋晴れ。
柿渋く空青く、下駄をかなぐり捨てて縁にのぼる。
飲んだ払ひが月末にこんなになつてゐた
「175円」
私は子供の頃
「999999………」と書きならべて「円」をつけた
ことを覚えてゐる そして
「9999……」に「一」をたすと「10000……」となる異様な変化に驚きもし何んとも言へない不足さへ感じて
「989898」とした苦心はどうだ
この「1・2・3」の組合せ玩具奴
そんなことは嘘だろ
*
(詩文学創刊号 大正15(1926)年12月発行)
[やぶちゃん注:題名の後のエピグラフは底本では、改行をせず、連続して書かれていて全体が八字下げであるが、ブラウザの関係上、改行して4字下げの二行とした。]
*
僕はこの、敷石にぶつかる下駄の音が聞こえて、柿の苦く渋い味が口に広がるような、新聞のチラシの裏に数字を書いている僕の姿を思い出す、そうして僕のいつもの独り言が聞こえるのだ――「そんなことは嘘だろ」――そんなこの詩を、その標題からエピグラフから終行からどこもかしこも残るくまなくまんべんなく愛撫したい気になってくるのである――
*
ではそろそろ山の仕度にとりかかることと致そう
随分、ごきげんよう――
目覚まし時計の秒針がチキ…チキ…いいながら動いていないのに4時頃気づく。
山に行くのに5時半には起きなくてはならぬ。
眠ることを断念する。
中途半端な時間である。
今日は山以外何もしないつもりだったが、昨日――僕ことキュビエ管を吐き尽す海鼠――の感じたことを書いておこう。
*
「ソデフリン」の次は「クビフリン」……か
食われるために発情させられる海鼠……
吐臓現象を見るより哀しいね……
まあ
「ドリー」のおぞましさよりは安心ですか、池内先生……
クビフリンとは何か?
(綴りは“kubifrin”でいいのかな? 流石に世界中のどこにも引っかかってこないや)
2008/11/22付「西日本新聞」朝刊より引用する。
《引用開始》
ナマコ量産可能に 九大教授のグループ ホルモンで産卵誘発
2008年11月22日 00:12
九州大学農学研究院の吉国通庸(みちやす)教授を代表とする研究グループは21日、マナマコの生殖行動を誘発する人工の神経ホルモン精製に成功したと発表した。中国で高級食材として乾燥ナマコの需要が拡大し、国産マナマコの輸出額が年々急増する中、資源の管理が課題となっていた。この神経ホルモンを使えば、低コストで安定した大量生産が可能という。
研究グループによると、従来のマナマコ養殖は、温めた海水に漬けて紫外線に当て、自然な放卵を待つ方法だが、産卵の誘発効果は低く、大量のマナマコや大きな設備が必要だった。
グループは、マナマコの神経組織から精巣や卵巣に働き掛けて生殖行動を誘発する神経ホルモンを抽出し、構造を解明。放卵・放精時に首を振るような行動をすることにちなんで、そのホルモンを「クビフリン」と名付け、化学合成に成功した。クビフリンを繁殖期のマナマコに一定の体内濃度まで注射すると、約1時間で精子や卵子を放出することを実証試験で確認したという。
この方法を用いれば、従来はマナマコ3000‐4000匹を使って得ていた受精卵の量が十数匹で取得可能で、1匹当たりの注射コストも十数円の安価ですむ。
貿易統計によると、乾燥ナマコの2007年輸出額は約167億円で、04年の3倍超。吉国教授は「受精卵の飼育に課題が残るものの、養殖は大幅に効率化できる」と話す。同大は12月、生産関係者を対象に技術講習会を開く。
《引用終わり》
ソデフリンとは何か? ついでにシリフリンも。
有尾両生類の研究家Dr. Grumman氏のサイトの「Dr. Grummanの最新情報」より引用させて戴く。ここにはソデフリンの塩基配列も掲げられている。素晴らしい!
《引用開始》
sodefrin(ソデフリン)
今回、これまでいわれていたニホンイモリ(Cynops pyrrhogaster)の性フェロモンであるsodefrin(ソデフリン)の前駆体遺伝子が早稲田大学のIwata,T.らによって報告された。C. pyrrhogaster から1364 bp、189アミノ酸のsodefrin precursor (Gene Bank: AJ245955)、シリケンイモリ(C. ensicauda)からは1339 bp、192アミノ酸のsilefrin(シリフリン) (sodefrin-like) precursor (Gene Bank: AJ245956)が分離解析された。C. pyrrhogaster は千葉県産、またC. ensicauda は沖縄県産のC. ensicauda popei(オキナワシリケンイモリ)を用いた。このデーターをもとに筆者が行ったDNA解析ソフトでの解析結果は下に示す。前駆体のホモロジーは以外に低くDNAレベルで90%、アミノ酸レベルで81%。sodefrin は10個のアミノ酸からなるSIPSKDALLK で silefrin は SILSKDAQLK でホモロジーは80%である。それぞれはそれぞれの種にのみ特異的に作用するとしている。このソデフリンは脊椎動物で初めて単離されたペプチドフェロモンである。 最近まで亜種の関係とされていたこの2種においてもフェロモンはかなり分化していたことになる。これは下記に示したオーストラリア産のMagnificent tree frog(和名不明) (Litoria splendida)のオスから採られたsplendipherin と同様である。この遺伝子の解析でもしかしたらニホンイモリの地域個体群の差が現れるかもしれない。 ちなみにソデフリンは袖を振って相手を誘うという意味。これは「万葉集第一巻:茜(あかね)さす紫野行き」に出てくる額田王の作で「茜(あかね)さす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」の中で額田王の前の夫である大海人皇子が袖を振っている様をたしなめている場面から採って「袖振りん」と命名された。つまりオスがメスに対してシッポを振って求愛している時に出すフェロモンである。シリフリンは「尻振りん」ではなく、最初のアミノ酸がSILで始まるため。
《引用終わり》
ちなみに、気が向く方は僕の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」にある「蠑螈」(いもり)の注なども御笑覧あれ。そこでは以前に
『ちなみに平凡社1996年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項に♂の総排泄腔からの内側の毛様突起から放出される♀を誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸10個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた。』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じ「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌は額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリンsodefrin、でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ。』
てな感想を書いていた。
二兄弟
それは幻影(まぼろし)であつた。
私の前に二人の天使、……二人の守護神(まもりがみ)があらはれた。
私はいふ、天使……守護神(まもりがみ)と。二人は裸の軀(からだ)に何ひとつまとはず、二人の肩には二つのしつかりした、長い翼が生えてゐたからである。
二人とも若者であつた。一人はいくらか肥つてゐて、滑らかな肌をして、黑い捲髮(まきげ)をしてゐた。鳶色の眼は力なく、濃い睫毛をしてゐた。眼付は人なつこげに、晴々として、貪るやうであつた。顏は魅力に富んで、人を迷はすやうな顏で、わづかに厚かましいところと、わづかに意地惡さうなところとがあつた。紅い、いくらか腫れあがつた脣は輕くふるへてゐた。若者は力ある者のやうに――自ら恃むところありげに、氣うとさうに微笑んだ。つやつやしい髪には華やかな花環がしづかに、殆んど天鵞絨のやうな眉毛に觸れんばかりにかかつてゐた。金の矢にとめられてゐる斑な豹の皮は、まるい肩からすんなりした腰へふんはりと垂れてゐた。翼の羽毛(はね)は薔薇色にかがやき、その端(はし)は生々しい鮮血(ち)に浸されたやうに眞紅である。時としてさわやかな銀(しろがね)のひびき、春雨の音を立ててせはしく慄へてゐた。
もう一人は瘠せてゐて、軀は黄ばんでゐた。呼吸(いき)をするたびに肋骨(あばら)がかすかに見うけられた。光澤(つや)のある、細く、直々(すぐすぐ)しい髮、大きく、まるい薄鼠色の眼、不安げに、異樣にかがやく眼眸(まなざし)……。あくまでとげとげしい顏の線。魚のやうな齒をもつた、小さな半ば開かれた口、引きしまつた鷲の鼻、白つぽい和毛(にこげ)につつまれて突出した顎、この乾いた脣は、未だ曾て一度として微笑んだこともないのであつた。
それはよく整つた、おそろしい、冷酷な顏であつた!(尤もさきの美しい方の顏も、愛らしく、快よい顏ではあつたが、見たところやはり情味を缺いてゐた)この青年の頭には、いくらかの乾枯びてちぎれた穗が、色あせた草の葉で卷きつけられてゐた。腰には粗い灰色の織布(ぬの)をまとひ、背には光澤(つや)のない藍鼠(あゐねず)の翼が、しづかに脅かすやうに動いてゐた。
この二人の若者は離れることのできない友達らしかつた。
二人は互ひに肩をもたせかけてゐた。一人はやはらかな手を葡萄の房のやうに相手の瘠せた頸に巻きつけてゐた。長く、かぼそい指をした相手の瘠せた手首は蛇のやうに、女のやうな、さきの若ものの胸のあたりに伸びて行つた。
私に聲がきこえる。その聲は、かういふのであつた。「お前の前にゐるのは戀と飢だ――二人の血兄弟だ、生きとし生けるものの二つの礎(いしずゑ)だ。
「生とし生けるものは――食はんがために動き、世嗣(よつぎ)を生まんがために食つてゐるのだ。」
「戀と飢と――その目的は一つである。自身の生命(いのち)、他人(ひと)の生命(いのち)、等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絶やさせまいとするのである。」
一八七八年八月
□やぶちゃん注
◎天鵞絨:底本では「鵞」が「鳶」に似た奇妙な活字になっているが、正字に直した。
◎白つぽい和毛につつまれて突出した顎:この「突出した」は、底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「突き出した顎」という送り仮名があることから、訓読みすることが知られる。
◎お前の前にゐるのは戀と飢だ――二人の血兄弟だ、:底本では「人の血兄弟だ」とある。底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「二人の血兄弟だ」とあり、後の「生きとし生けるものの二つの礎だ」という文との続き具合からも、こちらが正しいと思われるので、補正した。
◎等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絶やさせまいとするのである。:底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絶やさせまいとするものである。」とある。こちらが表現としては自然な気がするが、「も」がなくても不自然ではない。中山氏が敢えて外した可能性も排除出来ないので、暫く底本のままとする。
蒲団のほしてある縁側に寝ころんでゐる秋晴れ
あくびをして部屋に入つたのを誰も見てはゐなかつたか
俺は空を見てゐてかつてに空が晴れてゐると思つたのだ
まつたく何のことだか知れたものではない三十年といふ年月よ
*
(銅鑼9号 大正15(1926)年12月発行)
あと400ほどであっという間の140000アクセスを突破し……
あと三つでツルゲーネフの「散文詩」も公開が終わり……
あと一項目で「和漢三才図会」の水族も完成し……
あと一月で今年も暮れるという次第で……
ふと気がついてみたら
知らないうちに
みんなもうじき、終わるらしいのだ……
明日は子らと僕は西丹沢を登ることになっているのだが
僕はいつになく、行くのがひどく楽しみな、口笛を吹いているのだ――
そしたら、もう一つ
あさってには僕の母に77というという歳がやってくることに、これまた、ふと気づいて見て
世間で言うその「喜寿」という言葉のむなしさにこそ、しみじみしてしまったのであった……
夜あけに床の中でハモニカを吹きだした
子よ
可愛いさうにそんなに夜がながかつたか
ブーブー ハモニカを吹くがよい
お前のお菓子のやうな一日がもうそこまで来てゐるのだ
*
(銅鑼9号 大正15(1926)年12月発行)
敵と友と
終身禁錮に處せられた囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した……。彼の後には追跡隊が踵を接して跡を跟けてゐた。
彼は一所懸命に逃げて行つた……。追手はおくれはじめた。
然るに、見よ、彼のゆく手には斷崖絶壁をなした、狹い、――しかも深い河があるのである……。それに彼は游ぐことができないのである。
一方の岸から一方の岸に、薄い朽ちた板が投げ渡されてゐた。逃げ手は早くもその板に片足をかけた……。すると、偶々川のへりには彼の最も良い親友と、最もひどい怨敵(かたき)が立つてゐた。
怨敵(かたき)はものをもいはず、ただ腕を拱いてゐるばかりであつた。友はと見れば、聲をかぎりに叫び出した、「おうい? 何をするんだい? 氣でも違つたのか、しつかりしろ! 板がすつかり腐つてるのが分らないのか? 乘つたら最後、身體(からだ)の重みで折れちまふんだ、――そしてきつと死んぢまふぞ!」
「だつて外に渡りやうがないぢやないか! 追手の來るのが聞えないのか!」
哀れな男は絶望的な呻きごゑをあげて、板を蹈んだ。
「斷じて、いけない! ああ、君の死ぬのを見てはゐられない!」と熱心な友達は叫んで、逃亡者の足もとから板をひつたくつた。男は忽ちにして逆卷く波に墜ちて、溺れてしまつた。
怨敵(かたき)は滿足さうに笑ひ出した、――そうして、行つてしまつた。けれど親友は岸にどつかり腰をおろして、彼の哀れな……哀れな友人を思ひ、悲しげに泣きはじめた。
尤も、彼は友を死に到らしめたことについて、自分自身を責めようなどとは……ただの一瞬間も……思はなかつたのである。
「おれの言ふことを聽かなかつたからだ! 聽かなかつたからだ!」と彼はがつかりして呟いた。
「しかし、」彼はやがて言ふのであつた、「どうせ奴は一生涯、怖ろしい牢屋で苦しまなけりやならなかつたんだ! 少くとも今は苦しまなくて濟むんだ! 今はもう樂になつたんだ! かうなるのも因果だつたんだらう! しかし、とにかく人情としては、いかにも可哀さうな話だ!」
この親切者は運の惡い友達を思つて、やるせなく、すすり泣くばかりであつた。
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎跡を跟けてゐた:「跡を跟(つ)けてゐた」と読む。
◎板を蹈んだ:「蹈」は「踏」の書きかえ字。
なでてみたときはたしかに無かつた。といふやうなことが不意にありさうな気がする。
夜、部屋を出るときなど電燈をパチンと消したときに、瞬間自分に顔のなくなつてゐる感じをうける。
この頃私は昼さうした自分の顔が無くなる予感をしばしばうける。いゝことではないと思つてゐながらそんなとき私は息をころしてそれを待つてゐる。
*
(銅鑼8号 大正15(1926)年月不明)
鳩
私は傾斜(なぞへ)をなした丘陵(おか)の頂に佇つてゐた。眼の前には熟れた裸麥が金か銀の海のやうに延び擴がつて斑になつてゐた。
けれど、この海には漣ひとつ起らず、息づまりさうな大氣はじつと靜まりかへつてゐた。大雷雨がまさに來ようとしてゐるのである。
あたりには陽ざしがなほ暑く、どんよりと輝いてゐたが、裸麥のむかうの、程遠くもないところには藍鼠(あゐねず)の雨雲が重苦しい塊をなして、地平線の半ばをすつかり蔽つてしまってゐた。
あらゆるものが影をひそめ、……あらゆるものが太陽の最後の光の不氣味な輝きのもとに萎れてゐた。一羽の鳥のこゑも聞えず、かげも見えず、雀までがかくれてしまつてゐた。ただ何處か近いあたりで馬蕗(うまぶき)の一つの大きな葉が、たえずばさばさ囁いてゐた。
地境(ちざかひ)の苦蓬は何といふ強い香りを放つてゐるのであらう! 私はあの碧い塊を見やつた……すると何とはなしに不安の念が私を襲ふのであつた。「さあ、早く、早く!」と私は考へた。「閃け、金の蛇よ、鳴れ、雷よ! 動け、急げ、篠つく雨となれ、意地惡の雨雲よ、このなやましい懈怠(けたい)を早く切り上げてくれ!」
しかし雨雲はじつとして動かなかつた。雨雲はひそまりかへつた大地を壓しつけて……一層ふくらみ、一層暗くなつてゆくややうに思はれた。
やがて一色(いろ)の青雲(あをぐも)のうへに、何かしら白いハンカチか、雪の塊のやうに、すうつとかろく、ちらついたものがあつた。それは村の方から白い鳩が飛んで來たのであつた。
鳩は飛んだ、眞直に飛んだ、……そして森のなかにかくれて行つた。しばらく經(た)つた、やはり氣味わるいほど、ひつそりしてゐる。しかも見よ! 今は二つのハンカチが閃いてゐる、二つの塊が引き返しで行く。二羽の白鳩が相竝んで、家路をさして歸つ行くのである。
つひに嵐は來た。私はやつと家へ駈けつけた。――風は吼える。狂氣のごとく狂ひまはる。人蔘色の、低い、ちりぢりに引きちぎられたやうな雲は走る。何もかも渦卷き亂れる。雨は篠つく雨となつて、地をうち、立木をゆるがし、稻妻は青光りして眼を眩まし、電鳴は砲聲のやうに轟き渡り、あたりには硫黄の匂ひがする……。
しかも屋根の庇のかげの明り窓のへりに、二羽の白い鳩は互ひに寄りそつてとまつてゐる。それは仲間をたづねて飛んで行つた鳩と、つれて歸つて來た、恐らくは救つてやつた鳩とであつた。
二羽の鳩は身をふくらせて、互ひに翼の觸れ合ふものを感じてゐる。
彼らはどんなに樂しいであらう! 私も彼らをながめるのは樂しい……。私はただひとり、……いつものやうにただひとりの身ではあるが。
一八七九年五月
□やぶちゃん注
◎傾斜(なぞへ):斜め。はすかい。斜面。
◎馬蕗:双子葉植物綱キク目キク科のゴボウArctium lappa。葉が同じキク科のフキPetasites japonicusに似ており、馬が好んで食べた事に由来する。
通信員
二人の友達がテーブルに凭(よ)つて茶を飲んでゐる。
街に、ふとざわめきが起つた。もの哀しげな呻きごゑや、烈しい罵りごゑや、意地の惡い笑ひごゑが聞える。
「誰かを擲つてるぞ!」と友達の一人が窓から覗きながら注進に及んだ。
「犯人をか? 人殺しをか?」と他の一人が訊いた、「それは誰でもかまはんが、無鐵砲に擲らせちや置けない。さあ行つて庇つてやらう。」
「人殺しを擲つてんぢやないよ。」
「人殺しぢやないつて? ぢや、泥坊かえ? どつちだつていいや。行つて、奴らの手から救ひ出してやらう。」
「泥坊でもないよ。」
「泥坊でもないつて? ぢや、會計係か、鐵道員か、陸軍の御用商人か、ロシヤ文藝の保護者(パトロン)か、辯護士か、お人よしの編輯人か、社會奉仕家か? とにかく、まあ、行つて助けてやらう。」
「いいや、通信員が擲られてるんだよ。」
「通信員? ああ、さうか、そんなら先づお茶を一杯、喫(の)んでからにしようよ。」
一八七九年六月
[やぶちゃん注:「擲」を「打擲」の意から「擲(なぐ)る」と訓読している。]
スフィンクス
黄ばんだ灰色の、上の方は脆く、底の方は硬く軌む砂、……見わたす限り涯(はてし)のない砂だ! この砂漠の上、この死灰の海の上には、エジプトのスフィンクスの巨きな頭が聳えてゐる。 大きな突き出たこの脣、静かに擴がつて、仰向いてゐる鼻孔、……この二つの眼、二つの弧弓(ゆみ)のやうに見える高い眉の下に、半ば睡り、半ば醒めてゐるかのやうなこの眼は何を言はうとしてゐるのか? それらのものは何ごとかを言はうとしてゐる。すでに今、語つてすらもゐる、――しかもその謎を解き、無言の言葉を解し得るものはただエジプスだけである。 ああ! 私はかうした面影を識つてゐる……。それはいささかもエジプト風なところのない、白く、低い額、突き出した顴骨(ほほぼね)、短い眞直な鼻、美しい白い齒の口、やはらかな口髭、ちぢれた顎髭、廣く間を置いてはなれてゐる二つの小さな眼(まなこ)……頭にいただいて居る分けた髪の毛、……ああ、これは爾(おんみ)カルプである、シードルである、セミョンである、ヤロスラーフのリャザンの小百姓、わが同胞、まぎれもないロシヤ人! すでに爾(おんみ)もまたゆくりなくもスフィンクスの仲間になつてゐたのか? 爾(おんみ)もまた何かを言はうとしてゐるのか? さうだ、爾(おんみ)もまたスフィンクスである。 爾(おんみ)の眼(まなこ)――光彩(つや)のない、しかも奥深いその眼もまた語つてゐるのだ……、さうしてその言葉は暗默のうちに謎めいてゐる。 それにしても爾(おんみ)のエジプスはどこにゐるのか。 哀しいかな! 爾(おんみ)のエジプスとなるためには、ああ、全ロシヤのスフィンクスよ、百姓帽子をかぶつただけでは十分ではないのである! 一八七八年十二月 ■訳者中山省三郎氏による「註」 ・百姓帽子:國粹一點ばりのスラヴ主義者たちを諷したもの。
一八七八年十二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・百姓帽子:國粹一點ばりのスラブ主義者たちを諷したもの。
□やぶちゃん注
◎カルプである、シードルである、セミョン:原文“Карп, Сидор, Семен,”。ロシアの一般的な庶民的名前なのであろう。
◎ヤロスラーフのリャザン:リャザンРязаньは現在のロシア連邦リャザン州の州都。ロシア古代・中世史では馴染み深い地名で(但しそれらに登場するリャザンは現在「スターラヤ・リャザン」(古リャザン)と呼ばれる、現リャザンの南東に位置する別な場所であった)、オカ川(ヴォルガ川最大の支流)の右岸に位置する重要な河港でもある。ヤロスラーフЯрославは、かつてここに首都機能を置いたリャザン公国がヤロスラーフ賢公(Ярославль(978~1054)キエフ大公。キエフ公国にキリスト教を布教し、法典編纂・文藝振興を行ったことから「ムードリ」(賢公)と呼称された)の血を受け継いでいるのでこのように呼んだか。なお、1904年にはこのリャザンにロシア最初の社会民主主義グループが誕生していることは、この詩の注として明記しておいてよいであろう。
◎本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。『67年には小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃している。』『1877年、7年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の1つである。今度は70年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである。』(改行)『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は、78年に執筆した「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している。』。本詩が正にそうした詩の一篇であることは疑いない。
◎老婆心ながら言っておくと、この訳詩を読んでいると、「エジプト」と「エジプス」が恰も同語源であるかのような錯覚を起こすが、全くの偶然である。エジプトEgyptは現地では通称国名としてMisr「ミスル」又は「マスル」が用いられ、我々の使用する「エジプト」は英語表記由来。古代ギリシア語の「暗い」の意、Aigyptos(アイギュプトス:ギリシャ語表記Αιγυπτος)に由来するという。対するOedipus(「エジプス」・エディプス・オイディプース・オイディプス:ギリシャ語表記Οἰδίπους)は、赤子の彼が山中に捨てられる際、ブローチで刺された踵が腫れ上がっていたことから、羊飼いの養父母がオイディプス(腫れた足)と名づけたことに由来する。ギリシャ語・ラテン語表記の違いから一目瞭然である。
自然
私は高い穹窿のついた大きな地下の部屋に入つた夢を見た。そこはどこかしら地の下らしい、おだやかな光にみたされてゐた。
その部屋の眞中には、緑いろのやはらかな衣服をつけた威嚴のある女が坐つてゐた。頭を手で支へて、深い思ひに耽つてゐるかのやうであつた。
私はすぐにこの女が「自然」そのものであると悟つた。すると忽ち私の魂(こころ)に畏怖の念が沁みわたつて急に寒氣して來た。
私は坐つてゐる女のところにちかづいて、恭しく一禮し、「ああ、私たち、すベてのものの母よ!」と叫んだ、「あなたは何をお考へになつてゐるのでせう? 人類の未來の運命についてではございませんか? それとも人類が、どうしたら至高の完璧や幸福に達し得られるかといふことでせうか?」
女は黑い、きつい眼をおもむろに私に向けた。脣は動いて、鐵のひびきのやうによく徹る聲が聞えて來た。
「私はね、蚤が一層たやすく敵から逃げられるやうに、その足の筋肉にどうしたら大きな力を與へられるか、考へてゐるのです。攻撃と防禦の均衡が破れてしまつた……、それをまた元のやうに直さなくてはならないのです。」
「何ですつて?」と私はぼんやり答へた、「あなたは何を考へてらつしやるんです。わたしたち人間は、あなたの寵兒ではございませんか。」
女はかすかに眉を顰めた、「あらゆる生活は私の子供です、」と彼女はいつた、「だから同じやうにみんなのことを氣づかひ、――また同じやうに亡ぼすのです。」
「けど、善は……理性は……正義は……」と私はまた口ごもつた。
「それは人間のいふ言葉ですよ、」と鐵のやうな聲が響き渡つた、「私は善をも惡をも知らない、……理性なんて私の法則ぢやありませんよ、……それに、正義つてどんなものかしら? 私はおまへに生命(いのち)をやつた、――私はそれをお前からとれば、またほかのものに、蟲けらにでも人間にでもやる、……わたくしはどつちだつてかまやしない……だからお前も自分をもつて、私の邪魔などしないがいいよ。」
私は逆はうとしてゐた、……けれど地面はあたりに鈍い呻きごゑを發して震へ出した、――そこで私は眼が覺めた。
一八七九年八月
[やぶちゃん注:「穹窿」は「きゅうりゅう」と読む。原文は“сводами”で、これはアーチ型の丸天井を意味するロシア語。 英語の“vault”ヴォールトである。広義のヴォールトは、アーチを平行に押し出した蒲鉾のような形を特徴とする天井様式や建築構造を言う。]
おとづれ
私は開け放した窓のほとりに坐つてゐた……。朝、五月一日の朝まだきである。
曙の光は未だあらはれてはゐなかつた、けれど、もう、暗い、温かな夜は白んでうそ寒くなつてゐた。
霧はあがらず、そよとの風も吹かず、あらゆるものは、ただ一樣に靜まりかへつてゐた……しかも、やがて眼覺めて來ることが感じられた。稀薄な空氣に、はげしい露じめりの匂ひがしてゐた。
ふと、開(あ)け放(はな)つた窓から、大きな鳥が輕い羽音をたてて、私の部屋に飛び込んで來た。
私は身ぶるひして、じつと眼をこらした、……それは鳥ではなかつた。身にぴつたりついた、長い、裾に行くにしたがつて波のやうにやはらかな着物を着た、翼のある小さな女であつた。
彼女はすつかり灰色で、眞珠のやうな色をしてゐた。ただ翼の内側ばかりが、咲きそめた薔薇の葩(はな)のやはらかな紅を帶てゐた。鈴蘭の花冕(かむり)は、圓い顏の、うち亂れた捲毛をおし包んでゐた。蝶の觸角のやうに、二つの孔雀の羽根が、美しい隆顙(ひたひ)の上に、たのしげに搖れてゐた。
彼女は天井の下を二度ほど飛びまはつた。極めて小さな顏は笑つてゐた。大きな黑い明るい眼も笑つてゐた。
氣儘に飛んで、戲れるので、彼女の眼は金剛石のやうに輝いた。
彼女は曠野の花の長い莖を手にしてゐた。ロシヤの人たちが、玉笏草と呼ぶもので、たしかに笏杖に似通つてゐた。
すばやく私の上を飛びながら、彼女はその花で私の頭に觸つた。
私は彼女の方へ身を寄せた……が、彼女はもう窓から飛び出して、また翔んで行つてしまつた。
庭園(には)の紫丁香花(むらさきはしどい)の花の繁みの中では、數珠掛鳩が、一日のはじめの鳴聲をたてて、彼女を迎へてゐた……。彼女の消えたあたりに、乳白色の空は、しづかに紅らみはじめてゐた。
私は御身を知つてゐる、空想(フアンターヂー)の女神よ! 御身はゆくりなくも私を訪れてくれた。御身は若い詩人たちのもとへ飛び去つて行つた。
ああ、詩よ! 青春よ! 女性の、純潔の美よ! 御身たちは、ただひととき私の前に、――早春の朝まだきに輝くだけである。
一八七八年五月
□やぶちゃん注
◎花冕:「冕」は音「ベン」で、本来は中国の天子から大夫迄の上位の高官の用いる、板と旒(りゅう:垂れ下げた飾り玉)からなる礼装用の冠を言う語。
◎玉笏草:「ぎょくしゃくそう」と読んでいるのであろう。原文は“царским жезлом”で、“царским”は「ツアーリの」の原義から「豪勢な」の謂いで、“жезл”は権力や職権を表わす笏杖のことであるが、本種がどのような植物を指すかは不明。
◎紫丁香花:ムラサキハシドイはモクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には青春の思い出・純潔・初恋等があり、確信犯の描写であろう。
◎數珠掛鳩:ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica。白色のものは手品等でお馴染みである。
日向葵草
お前の黄色の花びらは散つた
それからは
お前は首をうなだれた
さびしいのか
お前が持つてゐるよ
黒くなりかけたお前の種に
いまにわかる
花びらばかりでなく
お前も……
…………
*
(FUMIE〈踏絵〉第二輯 大正8(1919)年3月発行)
[やぶちゃん注:『FUMIE〈踏絵〉』は同年二月に在学していた私立東北学院中学の学友らと創刊した短歌雑誌である。時に尾形亀之助十八歳、これは現存する彼の最初期の作品である。「日向葵」はママ。]
何のれん想であつたのか
朝になつてみると
「卵のやうな宝石」といふことだけが残つてゐて――
あとは思ひ出せなかつた
起きそびれて
一日寝床で過ごすやうなことの多い
この頃
私は昼眠つてゐることがある
春になつた 私は春に深い友情を感ずる。
いつの頃からとなく春になると私は心よくなまけてゐる。
一九二六・三
*
(近代詩歌第二巻第五号 大正15(一九二六)年5月発行)
[やぶちゃん注:「れん想」はママ。]
俺は酔つてゐて
盃のふちのまはりを踊り狂ふ
やせた黒いかげを見てゐる
黒いかげは
いくつもいくつも
俺のこはばつた顏にねばりつき
たわいもない俺の顏を見てゐる
部屋の隅ずみは暗く
大きな時計を思ひつめ
夜明けのカフエーに一人ゐてさびしい
*
(詩集左翼戦線 大正十二年版 大正13(1924)年6月発行)
いつせいに簪のやうに花をつけてゐた松の木
いつか花が落ちて
そして 依然として茂つてゐる
松の木
青葉ばかりの庭に雨が降る
*
(都会思想第一巻第一号 昭和3(1928)年1月発行)
電燈を一つづゝ吊るして店が幾つも列らんでゐる
そこは
商品とペーブメントを歩く人との区別もなくなつてゐる
*
(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行)
森の中にハンモツクを吊つて寝てゐる男がゐた
(ハンモツクは静にゆれてゐた)
寝てゐる男は
私が近づくと上を向いたまゝ眼をつむつてしまつた
瘠せた脛のほそい男であつた
森を通るときにふりかえると
起き直つてハンモツクに腰かけてゐるのがやさしい女のやうに見えた
夏草の原いつぱいに茂つた白い路へ私は飛び降りた
*
(A CORNER SHOP第一輯 昭和2(1927)年11月1日発行)
東方傳奇
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なるジャッファルを知らない者があらうか?
何十年もの昔のことである。或る時、未だ青年のジャッファルはバグダッドの郊外をぶらついてゐた。
ふと嗄れた呼聲が耳について來た。誰かが必死になつて救ひを求めてゐたのである。
ジャッファルは同年輩のものの間でも、優れて思慮分別の備はつてゐる男であつたが、彼はまた慈悲心に富んで――自らその膂力を恃んでゐた。
彼が聲する方へと駈けつけて行つて見ると、老耄(おいぼ)れた老人が、二人の追剥に市(まち)の城壁に壓しつけられて持物を奪はれてゐるのであつた。ジャッファルは佩劍(サーベル)を拔いて、惡漢に攻め寄り、一人を殺し、一人を追ひ拂つた。
かうして難を免れた老人は救ひ出してくれた人の足もとに跪いて、その着物の裾に接吻(くちづけ)して叫んだ、「勇ましい若い衆、あんたのお志はきつとお報い致しますぞ。見かけこそ儂は見すぼらしい乞食ぢやが、それは見かけだけのこと。儂はただの人間ぢやない。明日の朝早く、中央市場へお出でなさい。噴水(ふきあげ)のところで待つてませう。ゆめゆめ儂のいふことを疑ひなさるな。」
ジャッファルは考へた、「この人は成程、見かけは乞食だ。然しいろんなことがあるものだ。やつて見ないことには、始まらぬ。」そこで彼は答へた、「畏りました、お年寄、參りませう。」
老人は彼の顏をじつと見た。そして遠ざかつて行つた。
翌る朝、ジャッファルは明るくなるかならないうちに、市場を指して出かけて行つた。老人は早くも噴水(ふきあげ)の大理石の水盤に肘をついて、彼を待ちうけてゐた。
彼は口を噤んだまま、ジャッファルの手を取つて、高い壁を繞らした小さな庭園(には)の中へと連れて行つた。
庭園(には)のちやうど眞中の緑の芝生の上には、一本(ひともと)の奇妙な樹が生えてゐた。
それは絲杉に似通つてゐた。ただその葉だけは瑠璃いろをしてゐた。
三つの果實(み)――三つの林檎が、上の方へ曲つてゐる細い枝に垂れさがつてゐた。一つは中位の大きさで、小判形に長く、乳白色をしてゐた。次のは大きく、圓く、鮮紅色であつた。三つ目のは小さく、皺ばんで、黄色味がかつてゐた。
風もないのに、樹は力なげにそよいでゐるばかりであつた。まるで硝子ででもつくつたもののやうに鋭く、悲しげに鳴つてゐた。それは、ジャッファルの近づいて來たのを感じてゐるかのやうに思はれた。
「お若いの!」と老人は言つた、「この林檎のうち、どれか好きなのを採りなされ。さうぢや、若し白いのを採つて食べれば、あんたは人間中で誰よりも賢くなれる。紅いのを採つて食べれば、ユダヤ人ロスチャイルドのやうに金持になれる。また、黄色いろいのを採つて食べれば、お婆さん方(かた)に好かれるといふものぢや。さあ、決めなされ!……ぐづぐづしないがいい。一時間すれば、林檎は凋んで、ひとりでにこの樹も、聲もない地の底に沈んでしまふのぢや。」
ジャッファルは項垂れて――考へ込んだ。「さて、どうしたものだらう?」と彼は自分自身に諮(はか)るかのやうに、低い聲で言つた、「餘り賢くなると、きつと生きてゐるのが厭になるだらう。人一倍、金持になれば、人は皆そねむことだらう。一そのこと三つ目の皺ばんだ林檎を採つて食べた方がましだ!」
そこで彼は、その通りにした。
すると老人は齒の無い口で笑ひだしてかう言ふのであつた、「利發な若い衆だ! あんたは良いやつを選んだぞ! あんたに白い林檎が何の役に立つものか? 見ての通り、あんたはソロモンよりも賢いのだ。それに紅い林檎だつて用はあるまい……。それが無くつたつて、金持にはなれるのだ。尤もあんたの富だけを嫉むやつもあるまいに。」
「お年寄、聞かして下さい。」とジャッファルは激しく身ぶるひしながら言つた、「祝福せられたる我らが回教主の尊き御母君(おんははぎみ)は、何處にいらつしやるのでございませう。」
老人は恭しく禮をして、若者に道を教へてやつた。
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なる、有名なるジャッファルを知らない者があらう?
一八七八年四月
□やぶちゃん注
◎原題は“Восточная легенда”で、“легенда”(legenda)は英語の“legend”で「東方伝説」の謂いである。
◎膂力:「りょりょく」と読む。本来は背骨の力、そこから全身の筋骨の力の意となる。
◎ジャッファル:原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第19話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(話は全く異なり三つの林檎の役割も違うが、リンゴが葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第994夜~第998夜「ジャアファルとバルマク家の最後」にその悲劇的な最期も描かれているところの、実在したヤフヤー・イブン=ジャアファルibn Yahya Ja'far(766年?~803年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男。父ヤフヤー・兄ファドルと共に、アッバース朝第5代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。
◎儂:「わし」と読む。
◎繞らした:「繞(めぐ)らした」と読む。
◎ユダヤ人ロスチャイルド:Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)は当初、フランクフルトの古物商であったが、当時は未だコレクションの対象でなかった古銭に着目して、珍品コインを収集、それに纏わる逸話集を添えて好事家の貴族に売り捌いて成功、その後、それを元手に金融業を起こして財産の基礎を形成した。その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。勿論、ここでこの老人が時代の合わないロスチャイルドを引き合いに出すこと自体、本話がツルゲーネフによる全くの作り事、パロディであることの証左である。標題の“легенда”という単語には、つくり話、ありそうもないことという意味もある。また、「ユダヤ人」とわざわざ断ったところには(原文“еврей”)、ツルゲーネフの中に当時一般的であったユダヤ人への差別感覚が窺われるところでもある。なお、同じくロスチャイルドを詩中に挙げる後掲の「二人の富豪」も参照。
◎また、黄色いろいのを食べれば:底本は「まつた、黄色いろいのを食べれば」であるが、衍字と判断し、「つ」を排除した。友人が本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、やはり「つ」は衍字であることが判明した。
◎項垂れて:「項垂(うなだ)れて」と読む。
◎ソロモン:旧約聖書「列王記」に記される古代イスラエル王国第3代の王(在位B.C.965年頃~B.C.925年頃)。父はダビデ。ユダヤの伝承では神から知恵の指輪を授かり、多くの天使や悪魔を使役したとも言われる。イスラム教でも預言者の一人として認められており、アラビア語でスライマーンと呼ばれる。ユダヤ教徒と同様、偉大なる知恵者とし、精霊ジンを操つることが出来たとする。
大家が新しい借家を建てゝゐた
私はその家を借りやうと思つた
大工が屋根をこはしてゐる
半分つぶされた菊畑に夕陽のさしてゐるのを私は見てゐた
*
(詩神第四巻第二号 昭和3(1928)年2月発行)
二つの四行詩
嘗て一つの町があつた、そこの住人たちは詩を熱愛するのあまり、何週間も新しい美しい詩が現れないで過ぎると、かやうな詩の不作を、世の災禍(わざはひ)と見倣したほどであつた。
かやうな時には、彼らは最も醜い着物を着て頭に灰をふりかけ、群(むれ)をなして廣場に集まり、涙を流して、彼らを見すてた詩神(ミユーズ)に酷く苦情を竝べるのであつた。
或る、かうした不幸な日に、若い詩人のユニウスは、悲嘆に暮れた群集の押し合ひへし合ひしてゐる廣場へやつて來た。
彼は急ぎ足で特に設られた高壇(アンボン)に登り、詩を朗讀したいとの合圖をした。
係の者は直ちに笏杖を振りだした、「しつ! 謹聽!」と彼らは聲高く叫んだ。群集は片唾を呑んで靜まりかへつた。
「友よ! 同志よ!」とユニウスは高い、しかも、あまりしつかりしない聲で始めた。
友よ! 同志よ 詩を愛する者よ!
階調あるもの、美しきもの、すべてを崇むる者よ!
しまらくも暗き憂愁に心を惱まさるることのなからむことを!
待ちあぐみたる時の來りて、……光は闇を逐ひやらむ。
ユニウスは口を噤んだ、……すると彼に應へて、廣場の四方八方から、ざわめきや、口笛や哄笑がわきあがつた。
彼に對(むか)つた顏といふ顏は、憤怒に燃え、眼といふ眼は憤怒にかがやき、手といふ手は擧げられて、威嚇の拳を握つてゐた。
「こんな詩でおどかさうつてつもりなのか!」と憤怒の聲が怒號した、「高壇(アンボン)からあのくだらないへぼ詩人を引きずり下せ! 馬鹿者を引つこませろ! このたはけ者を腐れ林檎と腐れ玉子でやつつけろ! おうい、石を取つてくれ! 石をこつちへ!」
ユニウスは獨樂のやうにすばやく高壇を滑り落ちて行つた……。けれど自分の家へまだ辿り着かないうちに、熱狂した拍手喝釆や讚美の聲や、叫びごゑを耳にした。
疑惑の念にみたされて、ユニウスは、人に氣づかれないやうに氣をつけて(荒れ狂つた獸を怒らすのは危險なので)廣場へと引きかへして來た。
さて、彼は何を見たであらう?
群集の頭上高く、彼らの肩の上に、黄金の平たい楯に乘つて、紫袍をまとひ、うちなびく髮に月桂冠をいただいて立つてゐたのは、まぎれもない彼の競爭者、若い詩人ユリウスであつたのだ……。周囲の群集は叫び立てた、「萬歳! 萬歳! 不滅のユリウス萬歳! 彼こそわれわれの悲しみを、われわれの大いなる苦惱をやはらげてくれたのだ! 彼は蜜よりも甘く、鐃鈸(ねうばち)よりも響よく、薔薇(うばら)の花より香はしく、蒼穹(あをぞら)よりも清らかな詩を與へてくれたのだ! 彼を華々しく連れて行つて、秀靈な頭に香(かう)のやはらかな波を注ぎかけ、棕櫚の小枝でしづかに彼の額を煽ぎ、足もとにはアラビヤのあらゆる沒藥(もつやく)の香りをふり撒いてやるがいい! 萬歳!」
ユニウスは讚美の聲をあげてゐる一人の方へ近づいて行つた。「おお、ここな市民のお方、私に聞かして下さい! ユリウスは一體、どんな詩であなた方を喜ばしたのでせう! 残念ながら詩を讀んだ時、私は廣場に居合はさなかつたのです。覺えておいででしたら、もう一度、聞かして下さい、どうぞお願ひです。」
「あんな詩が、どうして忘られるもんですか?」と訊ねられた男は力んで答へた、「僕をどんな人間だと思つてるんです? まあ聞いて、喜びなさい、僕らと一緒に!
『詩を愛する者よ』と神のやうなユリウスは始めたのです……
詩を愛する者よ、同志よ。友よ
階調あり、調べ妙なる、優雅なるもの、すべてを崇むる者よ!
しまらくの重き悲嘆(なげき)に心を惱まさるることのなからむことを!
待ちあぐみたる時の來りて、晝は夜をば逐ひやらむ!
どうです?」
「冗談ぢやない」とユニウスは叫んだ、「それは僕の詩ぢやないか! きつとユリウスは僕が詩を讀んだ時、群集の中に居つたに違ひない。奴はそれを聽いてゐて、もう勿論、よくはならないが、言ひまはしを少しばかり變へて、繰り返したんだ!」
「ははあ、それで君の正體がわかつた……君はユニウスだな!」と彼が呼びとめた市民は眉を顰めて言つた、「嫉妬深い奴だな、でなきや大馬鹿だ!……さもしい奴、まあ、ちよいと考へて見ろ! ユリウスの方がどんなに高尚にいつたか、『晝は夜をば逐ひやらむ!』君の方は何てえたは言だ、『光は闇を逐ひやらむ』だなんて!? どんな光がだ!? どんな闇をだ!?」
「けど、それは全く同じぢやありませんか?」とユニウスは言ひかけた……
「さあ、もう一言(こと)ぬかして見ろ、」と市民は遮つた、「俺はみんな呼ぶぞ! さうしたら、手前を八つ裂にしちやふだらう!」
ユニウスは賢明にも默つてしまつた。すると彼の話を聽いてゐた白髪の老人が、哀れな詩人のところへやつて來て、彼の肩に手を置いて、口をひらいた。
「ユニウス! 君は自分自身のものを歌つた。けれど時機に合はなかつた。彼(あれ)は自分自身のものを歌つたわけではない。――しかも時機に合つてゐた。だから彼(あれ)はよかつたのだ! 君には、その代りに自分自身の良心の慰安(なぐさめ)が殘つてゐる筈だ。」
然し、良心が全力を傾けて、――實をいへば、極めて覺束なかつたが――わきへ押しのけられてゐるユニウスを慰めてゐる時に――はるか遠く、狂喜の拍手喝釆を浴びて誇りかな太陽の金粉(きん)のやうな光に包まれ、紫金に輝き、ゆたかな香のにほひの漂ふ中を月桂冠に面を翳らし、玉位に登る皇帝のやうに、重々しげに、しづしづと、誇らしげに身を正したユニウスの姿は動いて行つた……。棕櫚の長い枝は、つぎつぎに彼の前に傾けられた。恰も彼に魅了されてゐる市民の心を充し、絶えず新しくわきあがつて來る讚仰の情(こころ)を、靜かにあげられ、愼ましやかに下される棕櫚の枝があらはしてでもゐるかのやうに!
一八七八年四月
□やぶちゃん注
◎挿入されるユニウスとユリウスの詩は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、ポイントはそのままとした。
◎ユニウス:原文“Юний”。これはラテン語の“Junius”で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(50年?~130年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第11代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(51年~ 96年)治下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは、腐敗した政治の中で堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に健全な魂と批判精神を望むものであったことはあまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。
◎高壇(アンボン):原文“амвона”であるが私の露和辞典には所収せず、ラテン語辞典を調べても類似した単語は見当たらなかったが、ネットの機械英訳にかけると“pulpit”と訳され、これは(教会の)説教壇の言いである。そこで英語の辞書を見ると、“ambo”という単語があり、初期キリスト教会等の説教壇、アンボ、朗読台と言った訳が見出せた。英語の場合、発音から言えば、「アンボウ」か「アンボ」と表記するのが正しい。
◎しまらくも暗き憂愁に心を惱まさるることのなからむことを!:友人が本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれたところ、この「憂愁」には「憂愁(うれひ)」というルビが振られている。これは後のユリウスの詩の「悲嘆(なげき)」に美事に対応するものであり、ルビがある方がよいと思われる。なお、「しまらく」は「暫く」の上代語である。
◎ユリウス:原文“Юлий”これはラテン語の“Julius”で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての剽窃された名と捉えている。
◎残念ながら詩を讀んだ時、私は廣場に居合はさなかつたのです。:底本では「私は廣場に居合はさかつたのです。」とあるが、友人が本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、「な」があることを確認したので、脱字と考え補った。
◎彼は自分自身のものを歌つたわけではない。――しかも時機に合つてゐた。だから彼はよかつたのだ!:この「しかも」という接続詞は意味深長である。「しかも」という接続詞は順接にも逆接にも用いるので、私はこれを誤りだと言っているのではない、よく考えると、この「漁父之辞」の老荘的思想の持ち主を髣髴とさせる老人は「ユリウスは時機に合った、自分の詩ではない他人の詩を歌ったからこそよかったのだ!」という謂いで解いているのではなかろうかということなのである。真実の自分の心の叫びでは「時機に合う」ことは実は不可能なのだ、という深遠な真理を語りかけているようにも見えはしないか?
◎愼ましやかに下される棕櫚の枝があらはしてでもゐるかのやうに!:私の底本では、最後の句点は見えない(紙を透かしたりして検鏡して見たが、印字が擦れた跡も見られない)。原文では“то непрестанно возобновлявшееся обожание, которое переполняло сердца очарованных им сограждан! ”で、感嘆符がある。従って、もともと句点がなかったとも、句点または感嘆符があったが植字で脱落したともとれる。原文に忠実な中山氏の習慣から言えば「!」の脱落と普通には考えられる。句点を打たない断ち切れたような感じもユニウスの絶望の表現として捨て難いが、中山氏は「散文詩」の他でそのような手法を取ってはいない。友人が本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、「!」があることを確認したので、ここは中山氏の原文忠実主義を尊重し、底本にない「!」を附した。
*
知人の協力でなった一篇を更に特別追加公開。
NECESSITAS,VIS,LIBERTAS
淺浮彫
鐵のやうな顏をして、じつと鈍い眼つきをした、背の高い、骨ばつた老媼(おうな)が、大股に歩いて、枯枝のやうにやせがれた腕で、一人の女を自分の前に押し出してゐる。
この女は――かなり大きな身體(からだ)をして、力が強く、肥つてゐて、ヘラクレスのやうな筋肉(にくづき)をして、牡牛のやうな頸に、小ちやい頭が載つてゐて、――眼は見えず、――やはり、小さい瘦せた女の兒を押し出してゐる。
この女の兒だけは眼が見える。彼女は突張つて、うしろを振り返り、かぼそい綺麗な手をふりあげてゐる。その生き生きとした顏は、性急さと大膽さとをあらはしてゐる……。彼女は從ふまいとしてゐる。彼女は押しやられる方へ行くまいとしてゐる……。しかもなほ、彼女は行かなければならぬ。
NECESSITAS,VIS,LIBERTAS
氣の向く方(かた)は――譯してみたまへ。
一八七八年五月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・NECESSITAS,VIS,LIBERTAS:「必要、力、自由」
□やぶちゃん注
◎NECESSITAS,VIS,LIBERTAS:中山氏はシンプルに上記のように記しているが、この三つの単語には以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「氣の向く方は――譯してみたまへ。」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うのである。
“necessitas”①必然(的なこと)、②強制・圧迫、③境遇・立場、④危急・急迫・苦境、⑤繋がり・関係付ける力・情。
“Vis”①力・権力・勢力、②活動力・実行力・勇気・精力、③敵意としての武力・攻撃、④暴力・暴行・圧制・圧迫、⑤影響・効果、⑥内容・意義・本質・本性、⑦多量・充満
“Libertas”①自由・解放、②自主・独立、③自由の精神・自立心、④公明正大・率直、⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。
◎残念ながらこの挿絵は、私の底本では左手の女児の画像が頗る見え難くなっている。両足は判別できるが、胴から上、特に頭部が不分明である。
*
今日は、公開済みの「散文詩」の誤字を教えてくれた知人に感謝の意を表して、もう一篇「NECESSITAS,VIS,LIBERTAS」を挿絵入りで公開する。
施物
或る大きな町の近くの、廣い車道(みち)を病みほうけた老人が歩いてゐた。
彼は歩きながらよろめくのであつた。彼の瘦せ衰へた足は、絡んだり、引きずつたり、躓いたりしながら、他人(ひと)の足ででもあるかのやうに、重たげに、弱々しげに歩いて行くのであつた。着てゐた着物はぼろぼろになつてぶら下り、むき出しの頭は胸のうへに垂れてゐた、……彼は困憊し切つてゐたのである。
彼は、やがて路傍の石に腰をかけて、前かがみになつて、肘をついて、兩手で顏を蔽つた。すると、曲げた指のあひだから涙がこぼれて、乾いた灰色の埃のうへにしたたり落ちるのであつた。……。
彼は思ひ出した……。
嘗て、自分が健康で、裕福であつたこと、また自分が健康を害(そこな)ひ、富を他人(ひと)のために、友達のために、また敵のために頒ち與へてしまつたことを思ひ出したのである……。今は麺麭の一きれさへも持たなかつた。人といふ人は彼を見棄ててしまつてゐた。友達は敵よりさきに見棄ててしまつてゐた……。果して彼は施しを乞ふまでに落魄しなければならないのでらうか? 彼の心の中は辛く、慚かしかつた。
涙はあふれあふれて、灰色の埃を點々と濡らすのであつた。
ふと、誰かが彼の名を呼んでゐるのを耳にした。彼は疲れきつた頭を擧げて、前に見知らぬ人のゐるのを見た。
その顏は落ちついて、どつしりしてゐたが、嚴しくはなかつた。眼は輝いてゐるといふよりは、はつきりした眼であつた。この眼つきは彼を見拔くやうではあつたが、意地の惡いものではなかつた。
「君は財産をすつかり人に頒けてやつてしまつたんだね。」といつたのは抑揚のない聲であつた、「しかし、君は善いことをしたのを、まさか、情(なさけ)ながつてゐるんぢやあるまいね?」
「ゐやしませんよ。」と老人は溜息まじりに答へた、「ただ御覧の通り私はいま死にかかつてゐます。」
「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、「君は誰にも慈悲の心を示してやれなかつただらうよ、慈悲の心を修業することができなかつた譯だね?」
老人はそれに答へず、じつと考へ込んだ。
「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないがいいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、「行つて手を出し給へ、君も世の中の氣だてのいい人たちに、みんなが善人だつていふことを實際によくあらはす機會を與へるんだね。」
老人は身ぶるひして、眼をあげた……。もう見知らぬ人は消え去つてゐた、――道の遠くの方から、通りがかりの人が見えて來た。
老人はその人の傍へ近づいて、手をさしのべた。この通りがかりの人は、いやな顏をして外(そ)れて行つて、何一つくれはしなかつた。
しかしまた後から一人やつて來た、――その人は老人にほんのわづかばかりの施しをして行つた。
かうして老人は貰つた錢で自分の麺麭を買つた、――乞ひ求めて得た、いささかの食べ物が彼には身、に沁みて美味(うま)く思はれた。そして心に何ひとつ恥づるところもなかつた。むしろ、反つて靜かな歡喜(よろこび)が神の祝福(めぐみ)のやうに、彼の心に浮ぶのであつた。
一八七八年五月
□やぶちゃん注
◎「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。恐らくはこの行末が「、」で終って版の外に出ており、ここより少し後の部分(次注参照)にも同じ現象が起きており、その句読点の共通性から、ここを一字空けにするとこの読点を更に版の外に出すことが不可能(次行冒頭に読点が行ってしまう)であったからと推測される。
◎「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。前注参照。
馬鹿者
馬鹿者があつた。
永い間、彼は何不足なく暮らしてゐた。ところが、追々、彼の耳に、自分が到るところで馬鹿者だといふ評判の立つてゐることが傳はつて來はじめた。
馬鹿者は、どぎまぎして、どうしたらこの面白くない噂を絶やしてしまへるだらうかと思案し出した。
遂に彼の鈍い頭腦(あたま)に、ふとした思ひつきが浮んだ……。そこで躊躇せずに、早速それを實行して見た。
街で一人の知合が彼に出逢つて、さる有名な畫家を賞めてかかつた……。「冗談ぢやない!」と馬鹿者は叫んだ、「その畫家(えかき)はもう疾うにすたりものになつてるんだ……。君はそれを知らんのかい? まさか、君がさうだとは思はなかつたよ……、君は時勢おくれな人間だな。」
知合はびつくりして、直ぐに馬鹿者に同意してしまつた。
「今日は僕はとてもすばらしい本を讀んだよ!」と別の知合が彼にいつた。
「冗談ぢやない、」と馬鹿者は叫んだ、「君はそれで、よく恥かしくないねえ。あの本はなんの役にも立たないもんだよ。誰も彼ももう投げちやつたもんなんだ、君はそれを知らんのかい? 君は時勢おくれだなあ。」
この知合も驚いて――馬鹿者に同意してしまつた。
「僕の友達の□□は何て素晴らしい人間なんだらう、」と三人目の知合が馬鹿者にいつた、「いや實際、氣品のある男だよ!」
「馬鹿な!」と馬鹿者は叫んだ、「あの□□は有名な破廉恥漢だよ。あいつは、親類といふ親類から捲き上げたんだ。それを知らん者は一人だつてないんだ。君は、時勢おくれだね!」
三番目の知合もまた驚いて、馬鹿者に同意して、その友達から離れてしまつた。
かうして馬鹿者の前で、誰であらうと何事であらうと賞めた場合には、悉く例のやうに應酬するのであつた。おまけに時によると罵倒して、かう附け加へるのだつた、「ぢやあ、君はまだ權威といふものを信じてるのかい?」
「たちの惡い奴だ! 苦々しい奴だ!」と彼の知合たちは、馬鹿者のことを語るやうになつた、「しかし何ていふ頭腦だらう!」
「それに何ていふ口巧者(くちがうしや)だらう!」と他(ほか)の者は附け加へるのであつた、「さうだ、たしかに天才だ!」
しまひには、或る大雜誌の發行者が彼に批評欄を引き受けてくれと申し出た。
やがて、馬鹿者は、例の態度、例の表白を少しも變へないで、あらゆること、あらゆる人を批評するやうになつた。
今や、嘗ては權威に對して抗辯した彼が、自ら權威となつたのである……。青年たちは彼を崇拜し、彼を畏れてゐる。
哀れな青年たちには、さうすること以外に、何をすることができるであらう? 抑々人は何人をも崇拜してはならぬものである……しかし、この場合には、若し崇拜しないとなれば、時勢おくれになつてしまふのだ!
臆病者の間には馬鹿者がのさばつてゐるのである。
一八七八年四月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・或る大雜誌:嘗ての刊本には「或る新聞」となつてゐた。これは或る種の人々や「祖國時報」など左翼の雜誌の文藝批評論に對する當こすりが目立つものとして、校正の時に置きかへられた文字が永い間その儘に放置せられてゐたのである。而も發表の頃、既に物議を釀した。
□やぶちゃん注
◎本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。本詩の十年程前の『67年には小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃し』た。また本詩の書かれた前年、1877年には『7年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の1つである。今度は70年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである。』(改行)『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は、78年に執筆した「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している。』。本詩が正にそうした詩の一篇であることは疑いない。
◎□□:原文は“N. N.”である。ロシア語で匿名氏、何某を示すのか? しかし、そもそもキリル文字には“N”はない。識者の御教授を乞う。なお、中山氏にしては珍しく、次の「馬鹿者」の台詞の中で用いられている原文の“—N. N. —”の前後のダッシュは省略されている。
蟲
私たち二十人ばかりの者が、窓を開け放した大きな部屋に坐つてゐる夢を見た。
中には女も子供も年寄もゐた……。誰もがかなりに評判な或る事柄について談(はな)してゐる……。騒がしく、聞きとれぬやうに談してゐる。
ふつと、はげしいうなりを立てて、長さ三寸ばかりの大きな蟲が部屋へ飛び込んで來た……。飛び込んで來て、くるくると旋(まは)つたかと思ふと、壁にはたととまつた。
それは蠅や胡蜂(きばち)によく似通つてゐた。胴は土灰(つち)色で、平たい硬い翅も同じ色であつた。擴げた毛の生えた脚や、角ばつた大きな頭は蜻蛉などに見られるものであつた。それにこの頭も脚も血に染まつたやうに鮮紅色(まつか)であつた。
この奇しげな蟲は絶えず頭を上に下に、右に左に振つて、脚を動かしてゐた……。やがて、ふつと壁から飛び立ち、うなりをたてて、部屋を飛びめぐり、またとまると、再びその場を離れずに、またもや氣味わるく、いやらしくうごめいてゐた。
それは私たち誰にも、嫌惡や恐怖、あまつさへ戰慄の念をすらも起させるのであつた……。誰一人として私たちの中に、こんなものを見たものはなかつた、みな一齊に大聲をあげた、「この怪物を逐ひ出せ!」そして遠くの方からハンカチを振つてゐた……。一人として敢へて近づいて行かうとするものはなかつた……。蟲が飛び揚ると、みな思はず後ずさりした。
一座のうちでただ一人のまだ若い、蒼い顏した男が、訝しげに私たち一同を見廻した。彼は肩をゆすぶつて、微笑んだ。
彼には、私たちに何ごとが起つたか、どうしてこんなに騒いでゐるのかが、はつきりと呑み込めなかつたのである。彼自身は少しも蟲を見なかつたし、その翼(はね)の不氣味なうなりも聞かなかつた。
不意に、蟲は若者を見据ゑたらしく、飛びあがつて、彼の頭上に身をかがめて、額の、眼のあたりを刺した、……若者は力なく呻いて死んでしまつた。
怖ろしい蠅はすぐに飛び去つて行つた……、私たちはその時はじめて、私たちを訪れたものが何であつたかを悟つたのである。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:これは所謂、旧約聖書「列王紀」や新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの悪魔Beelzebubベルゼブブ、ヘブライ語で「ハエの王」であろう。]
*
「散文詩」残すところ14篇、その14篇すべての打ち込みも終了した。底本のかすれがひどいために、OCRでの読み込みの誤りが甚だしく、ほとんど手打ちが主体となった。お蔭で手仕事の実感を久しぶりに味わった忘れ難いテクストとなった。
ユー・ぺー・ヴレーフスカヤを偲びて
荒癈に歸したブルガリヤの小村(こむら)。急に野戰病院にされた朽ちはてた納屋の檐の下、惡臭を放つ濕つた藁のうへに、三週間餘りといふもの、彼女は窒扶斯で死にかかつてゐた。
彼女は意識不明であつた。一人の醫師も彼女を見舞ひはしなかつた。まだ彼女が立ちまはりのできる間に、看護してやつた病兵たちが、こはれた土瓶の破片(かけら)に入れた水のいく滴(しづく)かを乾いた彼女の脣(くち)にすすめようとして、毒氣の染みついた臥所(ふしど)から代る代る起き上るのであつた。
彼女は若く、美しかつた。上流社會に知られて、貴顯紳士にすらも喧傳されてゐた。婦人(をんな)たちは彼女をそねみ、男子(をとこ)たちは媚び諂つてゐた……二三人のものは、ひそかに深く彼女を戀してゐた。人生(このよ)は彼女に微笑みかけてゐた、けれど涙よりも惨めな微笑があるのである。
優しい、素直な心、……このやうな心、このやうな犠牲心! 助けを必要とするものを助けること、……彼女はこれ以外に幸福といふものを知らなかつた、知りもしなかつたし、味はひもしなかつたのである。あらゆるその他(ほか)の幸福は彼女の前を素通りして行つた。しかも疾くから、かうしたことに馴れ從ひ、かき消すことのできない信仰の熱に燃えて、隣人のために身を獻げたのであつた。
いかなる祕寶が、彼女の胸深く、彼女の奥底(おくそこ)に藏(かく)されてあつたか、誰一人として絶えて知るものがなかつた。今も、もとより誰一人知るものはないであらう。
さて、それが何になるであらう? 犠牲(いけにへ)は獻げられ、……事業(しごと)は完うされたのやある。
とはいへ、彼女の死骸(なきがら)にさへも誰一人、感謝の言葉を捧げなかつたことを思へば、傷ましい思ひがする。彼女自身はあらゆる感謝の言葉に恥ぢらひもし、斥けてゐたのではあつたが。
希はくは、私が敢へて墓の上に置くおくればせの花をば、うるはしき幽魂(たましひ)の咎めざらむことを!
一八七八年九月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・ユー・ぺー・ヴレーフスカヤを偲びて:最初の原稿にも發表の際にも「ユー・ぺー・ヴェを偲びて」とあつただけであるが、後にヴレーフスカヤの名が明らかにされた。男爵未亡人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(一八四一-七八)はツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた。一八七七年の夏露土戰爭に際して、彼女は特志看護婦として、戰地に赴き、翌七八年一月(舊露月)にブルガリヤで病死した。
□やぶちゃん注
◎ユー・ぺー・ヴレーフスカヤ:綴りはЮлия Петровна Вревская。なお、この背景である中山氏が言及する「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした私の電子テクストであるガルシンの「四日間」に詳しいので、是非、お読み頂きたい。
◎檐:「のき」と読む。
◎窒扶斯:「チフス」又は「チブス」と読む。
◎諂つてゐた:「諂(へつら)つてゐた」と読む。
瑠璃色の國
ああ、瑠璃色の國よ! 瑠璃色と光明と、青春と幸福の國よ! 私はおまへを夢に見た。
私たちは幾人(いくたり)か、美しい飾りをつけた小舟に乘つてゐた。風にたのしく翻(ひるがへ)る旒(はた)のもとに、白帆は白鳥の胸のやうにふくらんでゐた。
仲間が誰であるかは知らない。けれど、彼らが私たちと同じやうに、若い、快活な、惠まれた人たちだとは心の底から感じられた!
それにしても、私は彼らには眼もくれなかつた。ただあたりの金の鱗の漣につつまれた涯(はて)知れぬ瑠璃色の海を眺めるだけであつた。頭上(うへ)にはまたきはまりない瑠璃色の海があつて、その間を誇りかに、笑つてゐるかのやうに、優しい太陽がめぐつてゐた。
私たちの間には時折、神々の笑ひのやうに、よく透る、喜ばしげな笑ひ聲が起つてゐた!
やがて急に、誰かの口から話聲が、不思議な美しさと感激の力にあふれた歌ごゑがわき起つた……。天(そら)も應へてひびき合ひ、……周りの海も心を寄せてふるへたかのやうに思はれた……。しかしまた、そこには泰(やす)らかな靜寂がかへつて來た。
柔らかな波に輕く浮びながら私たちの早舟(はやぶね)は走つて行つた。舟は風に進んで行くのではなく、私たち自身の遊びたはむれる心に導かれてゆくのであつた。舟は私たちの思ふ方へと、まるで生きてでもゐるかのやうに從順(すなほ)に走つて行く。
私たちは島々にやつて來た。青玉や緑柱石など、寶石の光りかがやく半透明の、不思議な島々であつた。周囲の海邊からは、心を軒醉はすやうな馨(かぐ)はしいにほひがおしよせて來る。或る島は薔薇や鈴蘭の雨を私たちにふりかけ、また或る島々からは不意に虹彩(にじいろ)の長い翼の鳥が舞ひあがつた。
鳥のむれは私たちのうへを飛びめぐり、鈴蘭や薔薇の花は、滑らかな舷を滑る眞珠のやうな泡抹(あわ)の中に解けて行つた。
花の芬香(にほひ)や鳥の歌聲とともに、蜜のやうに甘い、甘い調べが聞えて來た……。中には女の聲も聞える、……あたりのものは、何もかも――空も海も、高くゆらぐ帆も、艫(とも)のあたりにざわめき立つ水の流れも――すべてが戀を語り、めぐまれた戀を語つてゐた。
私たち誰もが戀してゐた女(ひと)も――その女(ひと)もまた、其處に……眼には見えず、間近にゐたのだ。いまひと時――いまひと時すれば、彼女の眼は輝き、彼女の頰は花のやうに微笑にかがやくことであらう……。彼女の手はお前の手をとり、お前はとこしへに花咲き誇る天國へと導いて行くことであらう!
ああ、瑠璃色の國よ、私はおまへを夢に見た。
一八七八年六月
[やぶちゃん注:「滑らかな舷を滑る」は「滑らかな舷(ふなばた)を滑る」と読みたい。]
僕らは「望む目的のために」生きるのではない
僕らは生き生きと生きるために「望む」のだ
僕らが生きることが、即ち生き生きとした「死」の結実であるように
「クリムゾン・タイド」見てないなら、「見ろよ!」という一言だ。
「智」を働かせよ! 汝ら!
エゴイスト 彼には、その家族を鞭責するあらゆる資質がそなはつてゐた。彼は生れて健康であり、裕福であつた。また永い生涯を裕福に、健康に暮しつづけて、何一つ罪も犯さず、いささかの過誤(あやまち)もしたこともなく、また一度として言葉の誤りをも、遣りそこなひをもしたことがなかつた。 彼は一點の非の打ちどころもない誠實な人間であつた、……そしてその誠實なことを己惚れて、それによつて身内(みうち)のものであらうが、友達であらうが、知人であらうがあらゆる人々を抑へつけてゐた。 誠實そのものが彼の資本であつた、……彼はこの資本から過分の高利を收めてゐたのである。 誠實そのものが彼に無慈悲なものとなり、また命ぜられない善事は決してしないといふ權利を與へてゐた、そこでは彼は無慈悲であつた……、決して善事をしなかつた…、何故かといふのに、命令されてする善事といふものは、決して善事ではないからである。 彼は自身の――かくも模範的な個我(われ)以外には、何人に對しても心を煩はざず、しかも若し他人が同じやうに彼自身のことを熱心に彼の個我(われ)に對して心を煩はさなかつた場合には、心から怒るのであつた! と同時に、自分のことをエゴイストだとは思つてゐないのであつた。そしてエゴイストやエゴイズムを非難攻撃することは人一倍甚しかつた、それもその筈! 他人のエゴイズムは彼自身のエゴイズムを妨げたからである。 彼は自分にはいささかの弱點も認めず、他人の弱點はまるで理解もしなければ、假借もしなかつた。彼は全く、何人をも何物をも理解しなかつたのである。といふのも彼が四方八方、あらゆる方面から全く自分自身といふものばかりに取りかこまれてゐたからであつた。 彼は恕(ゆる)すといふことがどんな意味なのか、理解すらもしなかつたのである。彼は自分自身を恕さなければならない羽目には立ち到らなかつた……、それにどうして他人を恕すやうな理由(いはれ)があつたであらう。 自身の良心の審判(さばき)の前に、彼自身の神の前に、彼は、この怪物は、この善行の出來そこなひは、眼を空に向けて、しつかりと、はつきりした聲でいふのであつた、「さうだ、おれは立派な、道義にかなつた人間だ!」 彼はこの言葉を臨終の床で繰り返すことであらう……。さうして、その時ですらも、この石のやうな心には――この汚點(しみ)も罅隙(すき)もない心には、何らの動搖をも來たさないであらう。 ああ、自己滿足の、頑強な、安價に購はれた善行の醜惡よ。汝は露骨な不德の醜惡よりも更に醜惡なものではなかつたのか!
□やぶちゃん注
◎これは全くの感触でしかないのだが、この苛烈な断罪を加えている相手はかつての盟友であり、オブローモフ主義で知られる作家ゴンチャローフГончаров, Иван Александрович(1812~1891)ではなかろうか(オブローモフは1960年に刊行された彼の小説「オブローモフ」の主人公の名。一種のスポイルされた高等遊民的存在)。この詩のクレジットの遥か18年前、1860年ことになるが、彼とは「その前夜」盗作論争で致命的な決裂をしている。サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。『当時ゴンチャローフは多年にわたって執筆中の労作「断崖」(1869)についてツルゲーネフとしばしば議論していたが、「その前夜」の趣向には、「断崖」からの剽窃がいくつかあるとツルゲーネフを非難したのである。3人の作家を判事役として非公式の法廷が開かれ、ツルゲーネフの潔白は証明されたが、激怒した彼はゴンチャローフ(彼のパラノイアはやがて病的なものとなった)に絶交を宣言し、以後2人の親密な関係が回復することはなかった。』。同じサイトの「ゴンチャーロフの伝記」を見ると、裕福なロシアの地方領主の族長的雰囲気の中での成長、モスクワ大学卒業後、官吏となり、『多年にわたって、これといった功績がないまま辛抱強く勤め上げた』点等、本詩の人物を彷彿とさせる。1847年35歳の時、処女作「平凡物語」を発表して、ベリンスキーに激賞されるが、この作品は若い田舎の理想主義者が、世俗的現実的な若者へと変貌する半自伝的小説であるともある。純真にして人生を生きることに下手なオブローモフといい、如何にも私には「エゴイスト」=ゴンチャーロフという気がしてならないのである。識者の御教授を願う。
幾つ位の頃であつたか
よその家へ遊びに行つてゐて
「ビスケツトお好きですか」と聞かれたことがあつた
今日子供が紙につゝんでもらつて来たのがビスケツトであつた
×
私の石になりかけたビスケツトを
子供の掌から一つ撮んだ
*
(詩神第三巻第十号 昭和2(1927)年10月発行)
[やぶちゃん注:「撮んだ」は「撮(つま)んだ」と読む。]
絞罪にせい!
「千八百三年のことぢやつたが、」と私の年老いた知合が話し出した、「アウステルリッツ役の少し前ぢやつたよ、儂が士官として勤めてゐた聯隊は、モラヴィヤに宿營してゐた。
儂らは土地の人たちに迷惑をかけた苦しめたりしないやうにと嚴命されてゐた。味方といふことになつてゐたのだが、彼らは儂たちをおそろしく猜疑の眼をもつて見てゐたからだ。
儂のところには、もと母の奴隷だつたエゴールと呼ぶ從卒が居つた、あれは律儀な、おとなしい男だつた。儂は子供の時分から、あれを知つてゐて、友達扱ひにしてゐた。
ところで、ある時儂の暮してゐた家で、罵り叫ぶこゑや、痛哭(なげ)くこゑが聞え出した。主婦(おかみ)は牝鷄を二羽盗まれて、その罪を儂の從卒になすりつけたんだ。あれは自分でも言ひわけし、儂をも證人に呼んだ……『何だつて、このエゴール・アフターモノフが盗みをするなんて!』儂は主婦(おかみ)にエゴールが正直なことを言ひ聞かしてやつた。けれど、儂のいふことなんかてんで馬耳東風だつた。
すると、ふと街路(まち)の方へ足竝揃へてゆく馬の蹄の音が聞える。司令長官が幕僚を率ゐて來たんだ。
長官は竝足で駆(か)つてゐた、でつぷりした人で、うつむいて、胸には肩章の總が垂れかかつてゐた。
主婦(おかみ)は長官を見ると、まつしぐらに馬のところへ驅け寄つて、ひざまづいて、髪をふり亂し、あられもない姿で、大きい聲で儂の從卒のことを訴へはじめ、奴を指さした。
『將軍樣』と主婦(おかみ)は喚くのさ、『お殿樣、どうかお審(さば)き下さい、お助け下さい! お救い下さいまし! この兵隊が妾のものをひつたくつたんです!』
エゴールはと見れば、帽子を手にして、家の戸口にすつくと立つてゐる。まるで番兵みたに胸を張つて、おまけに足をひきつけてさ、――さうしてたつた一言(ひとこと)も口がきけねえのさ! 街の真中に立ちどまつてた將軍の一行がすつかり奴をどぎまぎさしたものか、それとも身にふりかかつてゐた災難を怖れて硬くなつたものか――可哀さうに、エゴールは、突立つて、眼をぱちくりさして、粘土みたいに血(ち)の氣をなくしてゐるばかりなんだ。
司令長官は落ちつかない、氣味のわるい一瞥をくれて、怒つをたやうに『さうか』といつた、――エゴールは、彫像のやうに突立つたまま、齒をむき出してゐた。傍(はた)から見たら、まるで笑つてでもゐるやうに見えただらう。
すると長官は、『奴を絞罪(かうざい)にせい!』と言ひ放つて、馬に拍車をあててどんどん歩き出した、はじめは竝足で、それから跪(だく)で。一行はあとについて驅けて行つた。ただ一人の副官が鞍の上から振り向いてエゴールをちらと見た。
いふことを聽かないわけには行かない、……エゴールはぢきにつかまへられて處刑(おしおき)に引き立てられた。
あれは、もう人心地もなくなつた、……ただ二度ほどからうじて言ふだけだつた、『ああ、神樣! 神樣!』それから低い聲で、『神樣こそ御存じだ、私ぢやないんだ!』
それはそれは悲しさうに、他に別れなを告げながら奴は泣き出しちやつた。儂はすつかり絶望してゐた。『エゴール! エゴール!』と儂は叫んだ、『何だつてお前は將軍に何とも言はなかつたんだ!』
『神樣が御存じです、私ぢやないんです!』と可哀さうに、しくしく泣きながら繰り返すのだつた。
主婦(おかみ)は自分でも怖ろしくなつて來た。こんな怖ろしい處刑(おしおき)は思ひもよらなかつたのだ。そして今度は自分でも大聲で泣き出した! 誰も彼もに赦しを乞ひはじめ、牝鷄が見つかつたことや、自分が事のいきさつを説明しようとしていることを説きまはるのだつた……
無論、何の足しにもならなかつた、何しろ、君、戰時の行きがかりだ! 軍紀だからね! さて、主婦(おかみ)はますます大聲で泣くのだつた。
エゴールは坊さんに最後の祈禱(いのり)をして貰ふと、儂の方をふり向いた。
『旦那さま、主婦さんに悲しまないやうにつて、言つてやつて下さい、……私はもう惡く思つちや居ませんから。』
私の知合は彼の從卒のこの最後の言葉を繰り返して、かう呟くのであつた、「エゴールシカ、可哀さうな奴、義理がたい奴」といつたかと思ふと、涙は彼の年老いた頰を傳はるのであつた。
一八七九年八月
□やぶちゃん注
◎アウステルリッツ役:ドイツ語表記Austerlitz、チェコ語でスラフコフ・ウ・ブルナSlavkov u Brnaは、現在のチェコ共和国モラビア地方の中心都市ブルノ市の東方にある小都市である。一般に言われる「アウステルリッツの戦い」は、1805年にオーストリアがロシア・イギリス等と第三次対仏大同盟を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争。当時オーストリア領(現チェコ領)であったスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)郊外に於いて同年12月2日にナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を破った戦いを言う。
◎モラヴィア:Moravia(チェコ語Morava)は広義には現在のチェコ共和国の東部の呼称である。この地方のチェコ語方言を話す人々はモラヴィア人と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。アウステルリッツの戦いのあった1805年の戦役では、ウルムの戦いでフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、11月13日ウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツ2世がここモラヴィアへ後退、ロシア皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる。
◎跪(だく):一般には「跑足」「諾足」と書く。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。並足(なみあし)と駆足(かけあし)の中間の速度又はその足並みを言う。
◎『ああ、神樣! 神様!』:この前の「神樣!」の後に、は底本では一字空けがないが、補った。
◎自分が事のいきさつを説明しようとしている:「いる」はママ。
*
僕はこの詩を読むたびに「猟人日記」の「死」の末尾の一文を思い出す。
「いや実に、ロシア人は驚くべき死に方をする!」
馬はさみしい
馬が大きいからだをしてゐるだけに私の眼についてしかたがない
それには犬を大きくして馬に換へるのが一番よいのではなからうか
*
(銅鑼8号 大正15(1926)年月不明)
私は何を考へることであらう?
私が死ななければならない時に、若しそのときに考へることができたとしたならば、私は何を考へることであらう?
一生を徒(あだ)に過ごしてしまつたこと、寝て暮してしまつたこと、まどろみ通したこと、人生の賜物を翫昧し得なかつたことなどを考へるであらうか?
「どうしたといふんだ? もう死ななければならないのか? こんなに早く? さういふ譯(わけ)があるものか? おれには未だ何一つ爲し遂げられなかつたぢやないか……おれは、やつと何かしようと目論んだばかりなんだ!」
私は過ぎ去つたことを思ひ起すであらうか? 自分の過ごして來た、僅かばかりの耀かしい刹那を、貴い面影や面貌(かほだち)を思ひ浮べるであらうか?
自分の惡行を憶ひかへすであらうか、――さうしてあまりにも遅い後悔の念の燃えるやうな苦しみが私の胸におし寄せて來るであらうか?
あの世で私を待ちうけてゐるものについて考へるであらうか、……さうして事實、何ものかが其處で待つて居るのであらうか?
いや、……私は考へまいとするであらう、――行く手を暗くしてゐる怖ろしい闇から自分自身の注意を外らしたいばかりに、強いひて何らかの取りとめのないことに専念することであらう、……さういふ氣がする。
私の眼の前で、曾て或る瀕死の男は乾胡桃(ほしぐるみ)を嚙ましてくれないといつて、泣言をいつてゐた、……しかもそこには、彼の陰つた眼の底には、傷ついて將に死なうとしてゐる鳥のちぎれた翼のやうに、何ものかが苦しげに慄へてゐるばかりであつた。
一八七九牛八月
石橋思案・蒲原有明・田山花袋・石橋忍月・吉江孤雁・小栗風葉他による『二葉亭四迷訳「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響(全八篇)』を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」及び「心朽窩 新館」に公開した。
祈り
人は何を祈らうとも、つまりは奇蹟を祈るのである。いかなる祈りも次の言葉に歸してしまふ、「偉大なる神よ、二二が四たることなからしめ給へ」
ただかうした祈りのみが人から人への祈りなのである。全世界の靈に祈り、天の神に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粹なる形なき神に祈ることは不可能なことであつて、考へられもしない。
しかも、人格のある、生ける、形のある神ですらもが、二二が四たることのないやうに爲しうるものであらうか?
すべての信者は「得る」と答へなければならぬ、またこのことを自らに信じさせなければならぬ。
とはいへ、理性が彼をして、かかる荒唐無稽に反抗せしめたとしたら?
その時にはシェークスピアが助けに來るであらう、「この世の中はな、さまざまなことがあるものだ、なあ、ホレーシォ……」等々。
けれども若し眞理にを楯にして彼が反駁されたとしたら――かの有名な問ひを繰り返すべきである、「眞理とは何ぞや?」と。
さらば、飲み且つ樂しみ――祈らうではないか。
一八八一年六月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「この世の中はな、さまざまなことがあるものだ、なあ、ホレーシォ……」:ハムレットの有名な句。第一幕、第五場にいづ。
『あひゞき 明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所収改稿版 イワン・ツルゲーネフ原作 二葉亭四迷譯』を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」及び「心朽窩 新館」に公開した。これで僕のHPでは三種の「猟人日記」の「逢引」を読むことが出来る。二葉亭の『血の小便』の訳業、黎明期の言文一致の試行錯誤、近代翻訳文学の先駆の精髄を味わって頂ければ幸いである。
この夏は何に連いて来たのかと、ふんどし一本の昼寝の、眠りかけの白ぽくかすんだ中に、焦げつくやうな蝉の啼きごゑを聞き、前々ずつと夏ばかりの世の中ではなかつたかと思うふのであつた。なんでそれを思案さうに考へつゞけなければならないことなのであるのか、私はすぐには眠らなかつたやうであつた。六月の月始めから七月の月末へかけて、晴れた日と、曇つても雨の降らずにしまつた日が三四日あつたゞけで、あとは雨はかりが降つてゐたのだから、八月の前が七月、七月の前が六月と一つ一つとたぐつてゆけば、六月は五月に五月は四月にとまさしく一二三四の配列になるのであるが、その四月や五月のどこに私がゐたのだつたことやら、自分の後姿のやうなものさへいつかうにそこには見あたらぬ。暦の正しさは、昨年も亦一二三四と月が列らび、六月の次には七月にもなつたのであつたが、根津裏のゑはがき屋の二階にゐて、下を通る物売りの声に、又かまぼこやが通ると思つたりしてゐたのだ。そして、汗をながして、二三度は冷した西瓜を食つたりしたのだつたがと思ひ出してみたところが、丁度その頃は大きな船に乗つて外国へ行つてゐたとか、アフリカの原野にヘルメツトをかぶつて群象にとり因れて鉄砲をうつてゐたとかといふのとくらべて、人はねうちのないつまらぬことを思ひ出すものだと私を思ふだらう。西瓜を食つたといふだけの材料で、すばらしい、あつと言はせるやうな思ひ出とするには、この場合西瓜といふ果物が味や形は兎に角として、仮にパンのやうにもさもさと喉につまるやうなものであるとしても、ひどく珍らしい、三十年に一個とか半世紀に一個とか位ひだけしか世には現れぬものでなければならぬのであらう。それにしてもあまり骨が折れることだつたり、苦心や冒険や自分でも二度と後にはそんなに早くは走れぬはど早く走つて、又とない記録を残したといふやうな感激などを必要な条件として、思ひ出とか記念写真とかといふものがあるのであれば、たとへさうしたものを一つももたないために恥かしい思ひをし、人に顔むけが出来ぬといふのであつても、そのときは上手な作り話の嘘を談つてもなんとかまにはあはふし、思ひ出ほど愚かなことはないと断然口をつぐんでしまふのも一法ではないかと、私はたぶん眼を開けたまゝ、くどくどと考へたり声を出さずに物を言つたりしてゐたのだつた。そして、庭のひまはりがひよろひよろと一丈近くものびて花をならべてならんでゐるかげの隣りの赤い屋根と、その横のトタン屋根とがかさなつてゐる上の空が、どうしたかげんか斜面に見えるので、軀の畳についてゐる方の側が畳なりに平らになつてゐるのだから動かずにゐればどこへも転がり落ちるやうなことはないのだとじつとしてゐたのだ。だが、それにしても、何のための昼寝で、寝そびれたからといつてどんな風に損なのか、煙草でものまふかと後をふりかへると、子供に乳をふくませて女房が座つてゐた。一月遅れの七夕は夕方から雨になつた。
(新詩論第一冊 昭和7年10月発行)
[やぶちゃん注:この風変わりな題名は説明が必要であるが、私はこの個々人の事蹟に暗い。長くなるが亀之助の優しさを伝える忘れ難い話であるので、正津勉「小説尾形亀之助」より該当部分(同書221p~222p)を引用する。三十二歳の尾形亀之助が尾羽打ち枯らして東京から故郷仙台へ帰った昭和7(1932)年三月末のこと、親交のあった詩人にしてダダイスト辻潤が発狂したという報道に接する。『「うわばみのお清」こと愛人小島きよの目の前で「とうとう天狗になったぞ、天狗に、羽が生えてきだしたぞ」と叫んで二階から飛び降りたというのだ。亀之助は衝撃を受けた。わなわなと身体が震えやまなかった。』。そして『六月のある深夜、詩友の石川善助が泥酔して東京は大森八幡坂付近で線路ぞいの側溝に墜ち、不慮の死をとげているのだ。じつは石川は跛足だった。享年三十三歳。石川は明治三十四年仙台市に生まれ、亀之助の一歳下。昭和三年、二十七歳で上京して浮浪、そののち草野[やぶちゃん注:草野心平。]の屋台の焼鳥屋で働いていて、亀之助と同郷のよしみもありよく酒席をともにしていた。突然のその訃報。亀之助は石川善助遺稿集『鴉射亭随筆』(昭和八年七月)に「石川善助に」と題して追悼している。』(改行)『「何の会であつたか、例によつてといふので、彼はゑびコとかんじかコの踊り[やぶちゃん注:不明。東北地方の民謡舞踏であろうか。底本の傍点「ヽ」を下線に代えた。【2023年5月17日追記】Facebookの知人で尾形亀之助にお詳しいYumiko Suzukiさんから、先ほど『佐々木喜善と同様、宮沢賢治と深く繋がる石川善助についてですが、尾形亀之助が鴉射亭随筆に書いた「ゑびコとかんじかコ」の踊りは、「庄内おばこ」と判明✩.*˚ 海老と蛙が相撲をとって、投げ飛ばされた海老の腰が曲がったという民謡でした。亀之助は、脚の不自由な善助が踊っている姿を痛々しく思ったのですね。』という御情報を頂戴したので、ここに挙げておく。心から御礼申し上げるものである。]をやつた。私はいやな感じがしたので、帰途に『今度からあんな風に踊を所望されたら会費を返してもらふんだね』と言つたら、彼は『はあ――』と言つたきりで黙つてしまつた」』(改行)『これはどういうことか。会合などで石川に「踊を所望」してその跛足の所作に大笑いする馬鹿がいる。そんなゲスどもを絶対に相手にするなという、心底からの忠告なのだ。これぞまことに亀之助らしい追悼であるのだろう。』(改行)『――善助よ、せめてあの世ではそんなバカなまねはするんでねぇぞ。「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)と歌つた、善助よ……。』(改行)『この二ふたつの出来事は亀之助をゆさぶった。それがあったことでまた詩を書きはじめるのである。そうして帰郷後最初の一篇「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」を発表している。この題名ながら、辻の発狂、善助の死、について一言もない。でなくてただもう郷里の家へ帰った「私」の脱力の日々が綴られているだけ。これもまた亀之助らしいのだ。』。
この正津氏の文章の中に現われる「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)は以下の善助の詩の一節である。「馬込文学マラソン」の「石川善助」の頁より孫引きする(石川善助没後4年の昭和11(1936)年原尚進堂(島根県大社町)から発行された草野心平編・序高村光太郎になる詩集「亜寒帯」の「北太平洋詩篇」からの引用と思われる。該当頁の一部記号を省略した)。
候鳥通過
夕暮の黄に明滅し、
おびただしい候鳥のむれむれが、
かをかを啼いて島を過り、
微塵のやうに地平線(おき)へ墜ちる。
季節の流すあれら散點、
永劫の空に現はれ消える
時間のなかの悲しい擦過。
意志は梵(ブラフマン)に向つて飛ぶ、
あけくれ啼いて鳥と飛ぶ、
疲れた肋體(にく)の内面に
黒い點描をのこしてゆく。
尾形亀之助の追悼文「石川善助に」はこちら。
本詩の掲載された『新詩論』は吉田一穂編集になる。尾形亀之助は昭和17(1942)年12月2日、餓死自殺の希望を叶えるように孤独に死んだが、二人の後れた辻潤も二年後の昭和19(1944)年11月24日、東京都淀橋区上落合のアパートの一室で虱にまみれて餓死した。60歳であった。]
*
本詩をもって思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「拾遺詩」の内、「後期1929-1942」をすべて掲載したことになる。
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
どこかで、いつか、かなり前に、私は一つの詩を讀んだ。それはすぐに忘れてしまつてゐた、……けれど最初の一行は、はつきりと私の記憶にとどまつてゐた。
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇(さうび)の花は……」
今は冬、霜は窓硝子を蔽ひ、暗い部屋には一つの蠟燭が灯(とも)つてゐる。私は部屋の隅にひつそりと坐つてゐる、すると腦裡には絶えず、
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇(さうび)の花は……」
といふ句がひびくのである。
ゆくりなくも、ロシヤの郊外の家の、低い窓に向つてゐる自分の姿が胸にうかぶ。夏の夕べは靜かに暮れて、夜に移る。暖い空氣の木犀草(レセダ)や菩提樹の花の香りがする。窓邊にはさしのべた手に軀をもたせ、頭を肩によせかけて、一人の少女が坐つてゐる、――物をもいはず、瞬きもせずに、最初の星の現れるのを待つかのやうに、空を見つめてゐる。物思はしげな眸は何といふ素直な感激にあふれてゐるのであらう。開いた脣、何か訊ねたさうな脣は何といふ、人を動かすやうな無邪氣さをもつてゐるのであらう。まだ花の全く咲ききらない、まだ何ものにも掻きみだされたことのない胸は、何といふおだやかな息づかひをしてゐることであらう。初々(うひうひ)しい面ざしは何といふ清らかな優しいものであらう! 私は敢へて彼女と話をしようとはしない、――しかも彼女は私にとつていかばかり愛(いと)しい女なのであらう、またどんなに私の胸はときめいてゐることであらう。
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
しかも部屋の中はいよいよ暗くなつてゆくばかりである、……燃え盡きかかる蠟燭はぱちぱちと音を立てる。低い天井には蒼白い影が搖れる。霜は部屋の外に軋めき、荒立つ、――もの悲しい老人の呟きが忍ばれる……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
またちがつた面影が私の前に現れる、……田舍の生活の樂しげなどよめきが聞こえる。二つの亞麻色の頭が互ひにもたれ合ひながら、まともに私を見てゐる。薔薇色の頰は笑ひを抑へて顫へ、手はなつかしげにもつれ合ひ、若々しい、善良な聲は入りみだれて聞こえる。また少し向うの、小ぢんまりした部屋の奥では、別の同じやうに若々しい手が指をまごつかせながら、古いピアノの鍵盤の上を走つてゐる。ランネルのワルツの曲は大長老めいたサモワルの煮えたぎる音を消すことができぬ……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
蠟燭の火はちらちらして消えかかる、……誰かしら、あんなに嗄れた聲で、微かに咳嗽(せき)をしてゐるのは? 私の足もとには、私のただひとりの伴侶(とも)の老いた牡犬(ペス)がうづくまり、寄り添つて身振ひしいてゐる、……私は寒い、……私は凍える、……ああ、みんな死んでしまつた……死んでしまつた、……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
一八七九年九月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は‥…」:イ・ミヤトリョフ(一七九六-一八四四)の詩「薔薇」の一節。
[やぶちゃん補注:プーシキンと同時代の詩人Иван Петрович Мятлевイヴァン・セルゲーヴィチ・ミャトリョフの1835年作の“Розы”の詩の冒頭連(リンクは何れもロシア語版ウィキペディア。以下の引用も同所より)。
Розы
Как хороши, как свежи были розы
В моём саду! Как взор прельщали мой!
Как я молил весенние морозы
Не трогать их холодною рукой!
Как я берёг, как я лелеял младость
Моих цветов заветных, дорогих;
Казалось мне, в них расцветала радость,
Казалось мне, любовь дышала в них.
Но в мире мне явилась дева рая,
Прелестная, как ангел красоты,
Венка из роз искала молодая,
И я сорвал заветные цветы.
И мне в венке цветы ещё казались
На радостном челе красивее, свежей,
Как хорошо, как мило соплетались
С душистою волной каштановых кудрей!
И заодно они цвели с девицей!
Среди подруг, средь плясок и пиров,
В венке из роз она была царицей,
Вокруг её вились и радость и любовь.
В её очах — веселье, жизни пламень;
Ей счастье долгое сулил, казалось, рок.
И где ж она?.. В погосте белый камень,
На камне — роз моих завянувший венок.
ロシア語の出来る知己の協力を得て、以下に最初の一連だけを文語和訳してみた。
ああ、かくは美しき、鮮やかなりし、
わが庭の薔薇の花よ! わが眼差し惹きつけてやまざりし!……
ああ、かくも花冷えに祈りし、
そが冷たき手をな触れそ! と……
この詩人についての邦文記載はネット上に見受けられない。出来れば、原詩を全文訳してみたい(この知己とはもうじき別れねばならぬ。無理強いは出来ぬのだ)。どうか識者の御教授を願うものである。]
・ランネル:墺太利の作曲者(一八〇一-四三)。
[やぶちゃん補注:Josef Lannerヨーゼフ・ランナー。オーストリアのヴァイオリン奏者にして作曲家。ダンス音楽団の団長としてシュトラウス一族に先行してウィンナー・ワルツを確立し、「ワルツの始祖」と呼ばれる。]
□やぶちゃん注
◎木犀草(レセダ):双子葉植物綱フウチョウソウ目モクセイソウ科Resedaceaeに属す草本類。ヨーロッパ・西アジア・アフリカ北部及び南部、北アメリカ西部の温帯・亜熱帯に分布し、日本には本来は自生しない。但し、モクセイソウReseda odorataやホザキモクセイソウReseda luteolaなどが園芸種として栽培されて野生化している。和名はその花の香が双子葉植物綱モクセイ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthusの香と似るからであるが、お馴染みのこちらは常緑小高木で形状も種も全く異なる。
◎善良な聲は入りみだれて聞こえる:底本では「善良な聲は入れみだれて聞こえる」とあるが、本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では普通に「入りみだれて」である。誤植と判断し、正した。
◎牡犬(ペス):つい、犬の名前かと思ってしまうが、原文は“пес”【p’ós】で、ロシア語で「犬」「雄犬」という立派な普通名詞である(罵って「やくざ」「ならず者」という有難くない意味もある)。
*
キリル語圏(チェコ語でも同じ)では日本人が犬につけたがる「ペス」という名が、そのまんま「犬」を表わすというのは、今回の僕の目から鱗。
昨夜、当日付朝日新聞の堀内隆記者名義のコラム「アメリカ08大統領選観選記」を読んで、思わず「ほう!」と声を挙げた(ちなみにネットで記事を漁ることの多い昨今、新聞はここ数ヶ月読んでいない)。
マケイン上院議員の敗北最終演説は地元アリゾナ州フェニックスの高級リゾート・ホテルで行われた。オバマ氏への電話による祝福をしたと言えばブーイングの嵐、支援者にオバマ氏への協力を呼びかけた下りでは、記者の傍にいた白人の女性が「嫌よ、そんなの」と吐き捨てるように言ったという。その際、会場で嫌悪の情を示した聴衆のほとんどは白人であったことを記者は見逃さない。『初のアフリカ系大統領が生まれても、なお人種の溝の深さ』を彼は思う。いや、「生まれても」ではない。生まれたからこそアメリカはこれから本当の人種の溝の深刻さを全国民が初めて覚悟を持って自覚せねばならなくなったと言うべきである。
――しかし、僕が「ほう!」と思ったのは、とりあえずそれでは、ない。
僕がオバマ陣営なら、即座にこの敗北宣言のコーディネートをしたプロデューサーを引き抜き、報道広報担当に起用したい。そうして、その退場の選曲という一見何でもないような一時に、僕は真意に自由の国アメリカを感じるのである――
記事の最後にこうある。
敗北演説を終えたマケイン氏が演題から去る時、かかった曲は何とあの映画「クリムゾン・タイド」の主題曲であった。
映画を見ていない人には、僕のニヤリとした「ほう!」は分からない。昨日の朝日の記事を読むよりは、映画を見ることをまずはお薦めしよう。
老人
暗鬱な重苦しい日はやつて來た……
その身の疾患(わづらひ)、愛する者の病弱(やまひ)、老いの冷たさ、暗さ。御身(おんみ)が愛したものは、御身(おんみ)が何ひとつ心おきなく身を任せたものは、みなひとしく、凋落しては碎け散つてしまふ。道はもう下り坂であつた。
さて、どうしたらよいのであらう? 嘆くべきか? 悲しむべきか? たとひ、さうしたところで、御身(おんみ)は自分をも他人(ひと)をも救ひはしないであらう……。
枯れかかつて、まがりくねつた木に、葉は、いよいよ小さく、いよいよ少い、……しかもその緑の色には變りはない。
御身(おんみ)も縮むがよいのだ。さうして御身(おんみ)自身のうちに、御身(おんみ)が回想(おもひで)のうちへと遁れるがよいのだ。さうしたならば、深く深く、ひたむきな心の奥底(おく)に、御身(おんみ)の昔の生活、御身(おんみ)にのみ理解し得る生活が、御身(おんみ)の前に、そのかぐはしい、今もなほ鮮かな緑の色と、春の愛撫と力とをもつて、輝き出ることであらう。
しかし、氣をつけるがよい……。ああ、哀れなる老人よ、さらさらに前途を望むことなかれ!
二人の富豪
莫大な收入の中から兒童の教育、病者の治療、老人の保護のために巨萬の金を頒かつてゐる富豪ロスチャイルドのことを、私の傍で、人が賞めそやす時、私もまた讚歎し、感動する。
しかし、讚歎し、感動しながらも、私は孤兒(みなしご)の姪を、零落したあばらやに引き取つた、或る貧しい百姓一家のことを想ひ起さないわけには行かない。
「若しもカーチカを引き取つたら、」と婆さんはいつた、「私たちは彼女(あれ)のために一文無しになつて、鹽を手に入れる代もなくなるでせう、お汁(つゆ)に鹽味(あぢ)をつけることだつてできなくなることでせうし……」
「でも、あの娘(こ)を、……いいやな、鹽味(あぢ)なんざつけなくたつて。」と亭主の百姓は答へた。
ロスチャイルドも遠くこの百姓には及ばない!
一八七八年六月
□やぶちゃん注
◎「頒かつてゐる」は「頒(わ)かつてゐる」と読む。分け与えるの意。
◎「ロスチャイルド」Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)がフランクフルトで金融業によって財産の基礎を形成し、その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。ちなみに私の好きなボルドーの「シャトー・ムルトン・ロートシルト」はマイヤーの息子ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入し(「ローシルト」が「ロスチャイルド」のドイツ語読みとは知らなかったのである)、更にやはり気に入っているカリフォルニア・ワインの「オーパス・ワン」もナサニエルの曾孫のものと知るに及んで、何とも複雑な気持ちではある。
あけ方に見た馬の夢を思ひ出したり、雨戸のふし穴から入つてくる光りを見てゐたりして寝床の中で昼近くまでぼんやりしてゐると、早くから眼をさましてゐた子供は腹を空かしてしまつてゐる。
今日の陽はどつちから出たんだ――床を出て小便にゆくといつちやんもだといふ。そして、子供が勢のいい小便をするのを僕はうらやましく思ふのだ。
北側の雨戸は風が入るので締つきりにしてゐる。南側もこの頃は半分しか開かない。床もたいがいは敷きつぱなしにしてすましてゐる。ご飯を一日に三度喰べる時間が何時もなくなつてゐる。
自分に子供がある。この嘘のやうな事実は何だ。家の中で一番よい部屋に机を置いて、ちよつとでもうるさいと子供をしかつたりする。自分の仕事は、何時になればなるほどこんな立派な仕事をするにはそのくらひはあたりまいだといふことになるのだらう。私が手をついて子供にあやまれは、子供も泣くだらう。
炭をおこせは、すぐ飯はたける。朝ごはんは何処へ行つたの――と子供に言はれても、眼の前に茶碗に盛られてある飯を見てゐれば、僕は少しもかなしくはない。
畳や坐布団がきたないのは電燈がついたばかりなのだからだ。もう一つには洗はないからだ。
*
(学校2号 昭和4年2月発行)
僕は奇形者として常に抹殺される運命にある
しかしだからこそ僕は
君たちの傲慢なゲノムに侵入する
君たちの爛れた安穏の生活を脅かすことで
君たちがどれほどのものであり
君たちが如何にどれほどちっぽけなものでしかないことを
存分に知らしめるために
僕はいつも帰ってくる
必ず帰ってくる
しかし君らには僕は見えない
そうして君らは
私、ゴジラを待ちながら
しかし永遠に
私、ゴジラに会うことはない
永遠に
待ち続けよ
滑稽なマスターベーションの愚劣な演技を続けながら
それが
全ての欲を覚醒してしまった
「ゴドーを待つ」君らの運命なのだ――
降りつゞいた雨があがると、晴れるよりは他にはしかたがないので晴れました。春らしい風が吹いて、明るい陽ざしが一日中縁側にあたつた。私は不飲不食に依る自殺の正しさ、餓死に就て考へこんでしまつてゐた。
(最も小額の費用で生活して、それ以上に労役せぬこと――。このことは、正しくないと君の言ふ現在の社会は、君が余分に費ひやした労力がそのまゝ君達から彼等と称ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。日給を二三円も取つてゐる独身者が、三度の飯がやつとだなどと思ひこまぬがいい。そのためには過飲過食を思想的にも避けることだ。そして、だんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃銀高は一週二三日の労役で一週間の出費に十分にさへなるだらう。世の中の景気だつて、むだをする人が多いからの景気、さうでないからの不景気などは笑つてやるがいゝのだ。君がむだのある出費をするために景気がよい方がいゝなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかないではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。又、絹糸が安くて百姓が困るといつても、なければないですむ絹糸などにかゝり合ふからなのだ。第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいい、勿論、賃銀の増加などで何時ものやうにだまされて「円満解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寝食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかゝらぬことだ。「××世界」や「××之友」などのやうに「三十円収入」に病気や不時のための貯金は全く不用だ。細かいことは書きゝれぬが、やがて諸君は国勢減退などといふことを耳にして、きつと何んだかお可笑しくなつて苦笑するだらう。くどくどとなつたが、私の考へこんでゐたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出来得ることなのだ。
*
(詩神第六巻第五号 昭和5年5月発行)
我等はなほも鬪はう!
採るにも足らないやうな瑣細なことが、人一人をまるで變へてしまふことがあるものである。或る時、私は深い思ひに沈みながら大きな道を歩いてゐた。
重苦しい豫感が胸を壓しつけて、私は憂鬱な氣持にとりつかれてゐた。
私はふと頭をもたげた、……私の前には高い白楊(ポプラ)が兩側に竝んだ間を矢のやうに遠く道が走つてゐる。
それを横ぎつて、その道を横ぎつて、私から十歩ほどむかうのところを、明るい夏の日ざしに金色にかがやきながら、雀の一家族が列をつくつて跳ねてゐた、いかにも元気よく、面白さうに、時を得顏に!
わけても、中の一羽は、胸をふくらませて、何ものをも怖れないかのやうに誇りかに、あたりかまははず囀りながら、傍へ傍へと跳ねていつた。ああ、征服者だ――全く!
この時、空高く一羽の大鷹が輪を描いて飛んでゐた、おそらく、大鷹は征服者を貪り食ふやうに運命づけられてゐたのであらう。
私はこの有樣を眺めて、笑ひ出し、軀(からだ)をゆすぶつた――すると憂鬱な考へは、忽ち消しとんでしまつた。同時に私は勇氣、剛膽、生への欲求を感じたのである。
私の上にも輪を描いて飛ばば飛べ、ああ、わが大鷹……
我らはなほも鬪はう、何のその!
一八七九年十一月
如何にも昨日が何かの記念日であつたやうに、昨日旗をたてかけてあつた隣家の門には今日は旗がない。これは、今日ではなく昨日がその日であつたといふことを示すことなのだが、幾年前が幾千年前であらうと、無数の記念日祭日をもつ国民に幸あれとばかりに、幾年か前の昨日幾年か前の明日を人達はていねいにくりかへしては祝ふのだ。
「×年前の今日――」と、俺は小学校のときから聞かされたことだが、×年前の今日が未だに解せない。ものすごいことには、数千年前の今日といふのがあるが、これこそ無意味とルビをつけたナンセンスといふところだ。近い話が、昨年の今日といふより昨日の今日といふ方がずっと時間的な正確ささへあるのに――「数千年の××」しかもあまりにもその正しさは遂に「××××」とは、この俺といふものは、ただ時間のふさぎにといふので時計の化けものででもあるのか。
*
(詩神第六巻第八号 昭和5年8月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。]
高僧
私は隠者あり、聖徒である一人の僧を知つてゐた。彼はただ祈りをのみ愉しみにして暮してゐた、――祈りに専念して、實に久しい間、教會堂の冷たい床(ゆか)の上に佇ちつづけてゐたので、足が膝から下が腫れて、柱かと思はれるほどになつてゐた。彼はそれをも感じないで、佇つたまま、――祈禱しづけてゐた。
私は彼の心をよく識つてゐた。おそらくは彼を羨んでゐたであらう。それはそれとして、彼もまた私の心を識つて、私を非難などせぬがよいのだ、彼の法悦にはな及びがたい私ではあるけれど。
彼は努力によつて彼自身を、自身の恨むべき「自我」を減却することを得たのである。尤も私もまたさうではあつたが、私は自尊心からではなしに、祈りといふものを全くしないのである。
私の「自我」は、私にとつて、おそらく彼が自身の「自我」に對する以上に、重苦しく、忌まはしいものなのである。
彼は自分自身を忘れる方法を見出した、……私もまた見出してほはゐる、……不斷にといふ彼わけではないけれど。
彼はいつはりを言ひはしない、……尤も、私もまたいつはりを言ひはしない。
一八七九年十一月
留れ!
留れ! いま私が御身を見るままに、永久に私の記憶にとどまるがよい。
脣から最後の感激の聲は離れ去つた、――眼は耀きもせず、閃きもしない、――眼は幸福の重荷、あの御身が表はすことのできた美しさ、御身の勝ち誇つた手、疲れはてれた手を、その方へ差しのべてゐるかとも思はれたその美しさに惠まれた意識の重荷を負はされて陰(くも)つてゐる!
何といふ光が、太陽の光よりも淡く、清らかに、御身のからだの隅々に、御身の着物の極めて小さな襞にまで注がれてゐたのであらう。
いかなる神がおまへの亂れた捲髮に、愛撫の息を吹きかけて、なびかせたことであらう?
神の接吻(くちづけ)は御身の大理石(なめいし)のやうに蒼ざめはてた額に今も燃えてゐる!
これこそ、――暴かれたる祕密、詩歌の、人生の、戀愛の祕密である! これが、これが即ち不死そのものである! これを外にして不死なるものはあり得ない、またあるを要しない。この瞬間において、御身は不死のものである。
この瞬間は過ぎて行くであらう、――さうして御身はまた一塊(くれ)の灰、一人の女性(をんな)、一人の子供となつてしまふ、――しかも、それが御身にとつて何であらう!――この瞬間に御身は一切を超越したのである、あらゆる流轉するもの、無常なるものを離れてしまつたのである――この御身の瞬間は永遠にきはまりないであらう。
留れ! さうして私をも御身の不死にあづからしめよ、私の魂のうちに御身の永遠そのものの反射をおとしてくれ!
一八七九年十一月
今日も、昼前のうす陽のさす軒先にちらちら雪が降り初め、冷えた昼の飯は塩鮭の匂ひがする。箸からなのか、それとも冷えてたよりなくなつた飯に、どこかで焼いてゐる塩鮭の匂ひが来てつくのであるか。つゝましく座つて、茶をかけて口に流しこめば、茶にうるけた飯はいくど目かの茶をかけても茶わんの底には残る。ただ寒いばかりの冬。ほんに来年は俺にはどんな年なのであるか。天罰といふものがあり、暦に嘘があつて、気づかずに自分が幾年も同じ年月をくりかへしてゐるのであれば、俺は面白がつてわれとわが身に抱きつくこともしよう。
低い陽は早くから暮れ、街の上の雲はそのまゝ動かずに消える。そして、どうして又俺は火鉢のそばにばかり寄りたがるのか。隣家の明るく電燈のつく窓は、黄色や赤や紫色の恥しいやうな模様の着物を着た人達がラヂオや蓄音機にあはせて立つたり歩いたりしてゐるやうな、壁なども綿のやうなもので出来てゐて、鶴のやうな鳥などが三々五々人達の間に交つてゐるのではあるまいか、とふとそんな風に思ひ、そしてなぜ隣家はにぎやかなのかと不思議になるのだ。やがて、俺は鼻緒のゆるんだ下駄を履き、寒むい手をふところに入れて、風に吹かれて街へ出て、熱いそばにむせつて涙をにじませながら食ひ、食つてしまへばあとは帰るばかりなのだから又来た路をひきかへすのだが、暗いなと思ひながら家に入り、それでもいくぶん安心した気持になつて床に入れば、何時の間にかは眠つてしまふのだ。
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(新詩論第二冊 昭和8年2月発行)
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『ほんに来年は俺にはどんな年なのであるか。天罰といふものがあり、暦に嘘があつて、気づかずに自分が幾年も同じ年月をくりかへしてゐるのであれば、俺は面白がつてわれとわが身に抱きつくこともしよう。』
言ヒ得テ妙ト謂フ言葉ガ在ルトスレバ――ソレハコノコトダ――
僕ハ僕ヲ――僕獨リヲ――抱キシメル――全テノ安息ノ代ハリニ……
航海
私は小さな汽船に乘つて、ハンブルグからロンドンへ航海した。乘客は私たちふたりであつた。私と小さな猿と。猿はウィスチッチ種の牝で、ハンブルグの或る商人が、イギリスの同業者に贈物として遣るものであつた。
猿は細い鎖で、甲板の椅子の一つに繋がれて、もがいたり、鳥のやうに哀れな聲で啼いたりしてゐた。
私が傍を通るたびに、猿は黑い冷たい手を差しのべて、悲しげな、まるで人間のやうな眼で私を覗くのであつた。私が猿の手をとると、猿は啼いたり、もがいたりはしなくなつた。
この上もない凪であつた。海は鉛色の、さゆらぎだもしない卓布(ぬの)のやうに、あたりに擴がつてゐた。海は小さく思はれた。濃霧は海の上にかかつて、マストの尖端(さき)をも覆ひかくし、やはらかな靄に眼は眩み、疲れるばかりであつた。太陽は、この靄の中に、どんよりとした赤い斑點(てん)のやうに懸つてゐた。それが暮れる前には不思議に奇妙に燃えついて赤らむのであつた。
重たい絹織物の褶のやうな、長い、眞直な褶は、次から次へと舳を遠ざかつて、絶えず圓を描き、皺をよせては、また圓を描き、つひには皺をのばして、ゆらゆらと搖れて消えて行つた。けうとくめぐる車輪(くるま)にかきみだされた水の泡は卷きあがり、ミルクのやうに白くなり、微かにシューシューと音を立てながら、蛇のやうにうねうねした波をつくつて砕け、やがてまた融け合ひ、靄に吞まれ、また消えて行つた。
猿の啼きごゑのやうに絕えず、もの哀れげに艫のあたりで小さな鐘が鳴つてゐた。
時として海豹が浮びあがつた、――だしぬけにもんどり打つて、かき亂されたとも見えぬ平らかな水の面にかくれて行つた。
船長といふのは、日に焦けた陰氣な顔をした、默りがちな男で、短いパイプを燻らしては、腹立たしげに、澱みかかつた海の上に唾を吐いてゐた。
私が何を訊いても、きれぎれに、ぶつぶつ答へるばかりであつた。仕方なしに、私はただひとり道づれである猿の方を向かなければならなかつた。
私は猿の傍に坐つた。猿は啼きやんで、また私の方へ手をさしのべた。
じつと動かない霧は、眠氣を催しさうな濕りを私達ふたりに浴せかける。同じやうにぼんやりした氣持になつてゐた私たちは互ひに肉親のやうに近く寄り添つて暮してゐた。
いま私は微笑んでゐる、――しかし、あの時の私には、ちがつた氣持があつた。
私たちはみな同じ母の子である。――そして私には哀れな小さな獸が、あんなに私をたよつて、おとなしくなり、肉親のやうに私に憑りかかつてくれるのが嬉しかつたのである。
一八七九牛十一月
□やぶちゃん注
◎ウィスチッチ種:原文は“уистити”で、この単語での確認は取れないのであるが、恐らくは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属 Callithrix の仲間、特に英名 Common Marmoset コモンマーモセット Callithrix (Callithrix) jacchus ではないかと思われる。体長約16~21㎝・尾長30㎝強、ブラジル東部に棲息、耳の周辺の白い飾りのような毛と首を傾げる仕草が特徴である。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。
◎褶:「ひだ」と読む。
◎舳:「へさき」と読む。
◎艫:「とも」と読む。船の後方部分。船尾。「舳」の反対語。
◎海豹:「アザラシ」と読む。哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科 Phocidae に属する鰭脚海棲哺乳類の総称。
◎焦けた:「焦(や)けた」と読む。
◎燻らしては:「燻(くゆ)らしては」と読む。
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ここで僕自身の稚拙な散文を示すことをお許し頂きたい。大学四年生の折りの私の日記からである。
一九七八年五月二一日(日)
あれは新潟大学の受験の帰りだった。
水族館を見に行ったのは、もはやこの地を踏むことはあるまいと思ったからで、すっかり失敗してしまった試験を考えていらいらすることも意味がないと、胆を落ち着かせてしまいたかった。
荒茫とした海岸線は、黒い砂浜と恐ろしく暗い海の色を見せていた。
丘に立つ孤高なトーチカのような煤けた水族館。訪れている客は私一人きりだった。水槽は改装工事で空になっているところが多く、際立って目を楽しませてくれる生き物はいない。
淋しい砂丘――陰慘な海浜――観客を失った水族館……何もかもが忘れようとしている私の気分のためだけにある。
ロビーの陽だまりに腰を下ろして、旅館で包んでもらった弁当を取り出す。
するとキーキーと騒ぐ声がする。
ふと脇を見ると、場違いな檻――そして又場違いな猿が一匹。
飢えた猿。あまりにも哀れなその眼。
私はすっかり食欲が失せた。
ここにも淋しい奴がいる。魚の言葉を知らず、一人、独白に憂いを銷すことしかない友が。
粗末な弁当の蒲鉾を歓喜して貪っていた君よ。
何故、君は不当にも生きねばならぬのか。
今でも私は、あの猿を思い出すと悲しくなる。
「もう淋しくない」と誰かが言った
君は本当に淋しいのだね
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僕がツルゲーネフの「散文詩」を読んだのは、この「日記」の後のことである――
N・N・
しとやかに、しづかに、泣くこともなく、微笑むこともなく、何事にも冷やかな心の眼を向けて、煩はされることもなく、御身は人生(このよ)の行路(みち)を辿る。
御身は氣だてよく聰明に、……しかも、あらゆるものは御身にゆかりなく、――御身は何人をも必要とはしない。
御身は美しい、――御身がその美しさを重んじてゐるかゐないかは、誰ひとりいふことができないであらう。……御身自らは人に冷やかである、……そしてまた人の憐れみを求めはしない。
御身の瞳は深い、――けれども物思はしげなものではない。その明るい深味のなかは空虚(うつろ)である。
かうしてシャンゼリゼェの通りをグルックの重々しい調べにつれて、――悲しむこともなもなく喜ぶこともなく、しとやかな影は過ぎてゆく。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:これは私の勝手な想像であるが、「N・N・」なる人物は、ツルゲーネフのパトロンであった、評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドーLouis Viardotの妻、著名なオペラ歌手であった、そうしてツルゲーネフの「思い人」ルイーズHéritte-Viardot, Louise Pauline Marieではあるまいか。「グルック」は、Christoph Willibald (von) Gluckクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714~1787)であろう。オーストリア及びフランスを活動拠点として、主にオペラを手がけた音楽家である。代表作は歌劇「オルフェオとエウリディーチェOrfeo ed Euridice」(特にその間奏曲「精霊たちの踊り」が著名)。]