東方傳奇 イワン・ツルゲーネフ
東方傳奇
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なるジャッファルを知らない者があらうか?
何十年もの昔のことである。或る時、未だ青年のジャッファルはバグダッドの郊外をぶらついてゐた。
ふと嗄れた呼聲が耳について來た。誰かが必死になつて救ひを求めてゐたのである。
ジャッファルは同年輩のものの間でも、優れて思慮分別の備はつてゐる男であつたが、彼はまた慈悲心に富んで――自らその膂力を恃んでゐた。
彼が聲する方へと駈けつけて行つて見ると、老耄(おいぼ)れた老人が、二人の追剥に市(まち)の城壁に壓しつけられて持物を奪はれてゐるのであつた。ジャッファルは佩劍(サーベル)を拔いて、惡漢に攻め寄り、一人を殺し、一人を追ひ拂つた。
かうして難を免れた老人は救ひ出してくれた人の足もとに跪いて、その着物の裾に接吻(くちづけ)して叫んだ、「勇ましい若い衆、あんたのお志はきつとお報い致しますぞ。見かけこそ儂は見すぼらしい乞食ぢやが、それは見かけだけのこと。儂はただの人間ぢやない。明日の朝早く、中央市場へお出でなさい。噴水(ふきあげ)のところで待つてませう。ゆめゆめ儂のいふことを疑ひなさるな。」
ジャッファルは考へた、「この人は成程、見かけは乞食だ。然しいろんなことがあるものだ。やつて見ないことには、始まらぬ。」そこで彼は答へた、「畏りました、お年寄、參りませう。」
老人は彼の顏をじつと見た。そして遠ざかつて行つた。
翌る朝、ジャッファルは明るくなるかならないうちに、市場を指して出かけて行つた。老人は早くも噴水(ふきあげ)の大理石の水盤に肘をついて、彼を待ちうけてゐた。
彼は口を噤んだまま、ジャッファルの手を取つて、高い壁を繞らした小さな庭園(には)の中へと連れて行つた。
庭園(には)のちやうど眞中の緑の芝生の上には、一本(ひともと)の奇妙な樹が生えてゐた。
それは絲杉に似通つてゐた。ただその葉だけは瑠璃いろをしてゐた。
三つの果實(み)――三つの林檎が、上の方へ曲つてゐる細い枝に垂れさがつてゐた。一つは中位の大きさで、小判形に長く、乳白色をしてゐた。次のは大きく、圓く、鮮紅色であつた。三つ目のは小さく、皺ばんで、黄色味がかつてゐた。
風もないのに、樹は力なげにそよいでゐるばかりであつた。まるで硝子ででもつくつたもののやうに鋭く、悲しげに鳴つてゐた。それは、ジャッファルの近づいて來たのを感じてゐるかのやうに思はれた。
「お若いの!」と老人は言つた、「この林檎のうち、どれか好きなのを採りなされ。さうぢや、若し白いのを採つて食べれば、あんたは人間中で誰よりも賢くなれる。紅いのを採つて食べれば、ユダヤ人ロスチャイルドのやうに金持になれる。また、黄色いろいのを採つて食べれば、お婆さん方(かた)に好かれるといふものぢや。さあ、決めなされ!……ぐづぐづしないがいい。一時間すれば、林檎は凋んで、ひとりでにこの樹も、聲もない地の底に沈んでしまふのぢや。」
ジャッファルは項垂れて――考へ込んだ。「さて、どうしたものだらう?」と彼は自分自身に諮(はか)るかのやうに、低い聲で言つた、「餘り賢くなると、きつと生きてゐるのが厭になるだらう。人一倍、金持になれば、人は皆そねむことだらう。一そのこと三つ目の皺ばんだ林檎を採つて食べた方がましだ!」
そこで彼は、その通りにした。
すると老人は齒の無い口で笑ひだしてかう言ふのであつた、「利發な若い衆だ! あんたは良いやつを選んだぞ! あんたに白い林檎が何の役に立つものか? 見ての通り、あんたはソロモンよりも賢いのだ。それに紅い林檎だつて用はあるまい……。それが無くつたつて、金持にはなれるのだ。尤もあんたの富だけを嫉むやつもあるまいに。」
「お年寄、聞かして下さい。」とジャッファルは激しく身ぶるひしながら言つた、「祝福せられたる我らが回教主の尊き御母君(おんははぎみ)は、何處にいらつしやるのでございませう。」
老人は恭しく禮をして、若者に道を教へてやつた。
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なる、有名なるジャッファルを知らない者があらう?
一八七八年四月
□やぶちゃん注
◎原題は“Восточная легенда”で、“легенда”(legenda)は英語の“legend”で「東方伝説」の謂いである。
◎膂力:「りょりょく」と読む。本来は背骨の力、そこから全身の筋骨の力の意となる。
◎ジャッファル:原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第19話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(話は全く異なり三つの林檎の役割も違うが、リンゴが葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第994夜~第998夜「ジャアファルとバルマク家の最後」にその悲劇的な最期も描かれているところの、実在したヤフヤー・イブン=ジャアファルibn Yahya Ja'far(766年?~803年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男。父ヤフヤー・兄ファドルと共に、アッバース朝第5代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。
◎儂:「わし」と読む。
◎繞らした:「繞(めぐ)らした」と読む。
◎ユダヤ人ロスチャイルド:Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)は当初、フランクフルトの古物商であったが、当時は未だコレクションの対象でなかった古銭に着目して、珍品コインを収集、それに纏わる逸話集を添えて好事家の貴族に売り捌いて成功、その後、それを元手に金融業を起こして財産の基礎を形成した。その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。勿論、ここでこの老人が時代の合わないロスチャイルドを引き合いに出すこと自体、本話がツルゲーネフによる全くの作り事、パロディであることの証左である。標題の“легенда”という単語には、つくり話、ありそうもないことという意味もある。また、「ユダヤ人」とわざわざ断ったところには(原文“еврей”)、ツルゲーネフの中に当時一般的であったユダヤ人への差別感覚が窺われるところでもある。なお、同じくロスチャイルドを詩中に挙げる後掲の「二人の富豪」も参照。
◎また、黄色いろいのを食べれば:底本は「まつた、黄色いろいのを食べれば」であるが、衍字と判断し、「つ」を排除した。友人が本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、やはり「つ」は衍字であることが判明した。
◎項垂れて:「項垂(うなだ)れて」と読む。
◎ソロモン:旧約聖書「列王記」に記される古代イスラエル王国第3代の王(在位B.C.965年頃~B.C.925年頃)。父はダビデ。ユダヤの伝承では神から知恵の指輪を授かり、多くの天使や悪魔を使役したとも言われる。イスラム教でも預言者の一人として認められており、アラビア語でスライマーンと呼ばれる。ユダヤ教徒と同様、偉大なる知恵者とし、精霊ジンを操つることが出来たとする。