秋日私記 尾形亀之助
去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた。つくづく考へてみるにこの二つの人間がやがては乞食と称ばれることになるかそれとも大臣大将となるのであるかどうかはわからぬが、兎に角にこの人達がもとになつて再び幾人かの人間を世の中へつくり出すのだと思ふと俺は面白いことをしたものだと感心し幾人でも生んでみる気にもなる。
俺は自分一人でさへ食つてはゆけぬといふ心配をせぬのだ。食ふことの心配とは自分が子供などを養育してゐるとか女房に着物を買つてやるとか月給が昇つたとかといふときのいひわけに過ぎぬのだ。そして、口ぐせにパンがどうのこうのと、子供にきれいな着物を着せたいなどといふやうな常識をもち、先月十円の貯金が今月は八円しか出来ぬといふことから来月は魚屋一円青物屋から一円と買物を減らして埋め合せをつけやうといふ数理を真理の如くに信じてゐるのである。どうすれば一枚の煎餅が二枚の煎餅になるか、鶏卵はそのまゝ食つてしまはずに雛にかへし鶏にそだてゝ卵を生まして食ふといふ方法はどんなことなのであるか、俺には食ふことの心配をするから食つてゆけるといふ理屈が皆目たゝぬ。だが、そんなことはどうでもいゝのだ。俺は今日朝も昼も飯を食ひたゞの空気を吸つてゐたのだ。明日一日飯が食へなくともそれは今の自分には何の関係もないのだから、どうして食へたかと食つてしまつた飯を考へる必要はないのだ。まこと今日あつての明日のあることは、昨日飯を食つたからといつて今の空腹のたしになつてはくれぬのである。しかも困つたことに自分に体がつきまとつてゐることは、自分と自分の体を二つの異つたものに取扱ふにはこの二つのものはあまりに混沌としてゐるのである。他人は俺が何かものを言へば俺の体が言つてゐるのだと思ひ、顔に生やしている髯を見ては俺に生えてゐるのだと思つたりしてゐるのだ。
きうりをならべて一時間近くもおとなしく遊んでゐる子供のそばに寝ころんでゐると、雨の降る空へ大きく花火があがつた。子供はたれてゐた顔を上げて俺を見たので、俺は首をふつてうなづいて答へた。子供は何か言ふのだ。「うゝゝゝゝ、うゝゝゝゝ」と窓の外を指して俺をまねて首をうなづかせ、両手をあげて俺にだかれてしまつた。俺は子供を膝にのせて、二発三発とつゞいてうちあがる花火を聞いてゐると如何にも親子らしい情景になるのであつた。ふと、「親父は俺に何も残して呉れなかつた。親父からもらつたものは俺のもつてゐるセンチメンタルだけだが、それもだんだん崩壊してしまった」と語つた男を思ひ出した。そして、ぶ然として子供をだいてゐて俺はおならをした。昼にごばうを食つたこともわびしいことではあるが、もしふところから今しがたまであがつてゐたやうな花火を取り出し、だいてゐる子供に窓からでも空へ打ちあげて見せれたならどんなにか屈託のない気持になれるだらうと思つた。この雨は誰が降らしてゐるのか、屁をかゞされてうすぎたなくなつてしまつた憐れな子供をだきつゞけてゐるのがいやになつた。俺は荒々しく立ちあがりそれでも気の毒な子供のためにはかけ声をかけて二階の段々を降りた。
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(詩人時代第三巻第十二号 昭和8(1933)年12月発行)
[やぶちゃん注:「去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた」前者は昭和7(1932)年4月30日生まれの次男茜彦(あかひこ)、後者は昭和8(1933)年8月20日生まれの次男黄(こう)を指す。どちらも言い方が不正確であるが、再三、詩の中で尾形がぼやくように、彼にとって誕生日という時間の区切りが如何にも厭な、無意味なものであったということが如実に分かる。]