瑠璃色の國 イワン・ツルゲーネフ
瑠璃色の國
ああ、瑠璃色の國よ! 瑠璃色と光明と、青春と幸福の國よ! 私はおまへを夢に見た。
私たちは幾人(いくたり)か、美しい飾りをつけた小舟に乘つてゐた。風にたのしく翻(ひるがへ)る旒(はた)のもとに、白帆は白鳥の胸のやうにふくらんでゐた。
仲間が誰であるかは知らない。けれど、彼らが私たちと同じやうに、若い、快活な、惠まれた人たちだとは心の底から感じられた!
それにしても、私は彼らには眼もくれなかつた。ただあたりの金の鱗の漣につつまれた涯(はて)知れぬ瑠璃色の海を眺めるだけであつた。頭上(うへ)にはまたきはまりない瑠璃色の海があつて、その間を誇りかに、笑つてゐるかのやうに、優しい太陽がめぐつてゐた。
私たちの間には時折、神々の笑ひのやうに、よく透る、喜ばしげな笑ひ聲が起つてゐた!
やがて急に、誰かの口から話聲が、不思議な美しさと感激の力にあふれた歌ごゑがわき起つた……。天(そら)も應へてひびき合ひ、……周りの海も心を寄せてふるへたかのやうに思はれた……。しかしまた、そこには泰(やす)らかな靜寂がかへつて來た。
柔らかな波に輕く浮びながら私たちの早舟(はやぶね)は走つて行つた。舟は風に進んで行くのではなく、私たち自身の遊びたはむれる心に導かれてゆくのであつた。舟は私たちの思ふ方へと、まるで生きてでもゐるかのやうに從順(すなほ)に走つて行く。
私たちは島々にやつて來た。青玉や緑柱石など、寶石の光りかがやく半透明の、不思議な島々であつた。周囲の海邊からは、心を軒醉はすやうな馨(かぐ)はしいにほひがおしよせて來る。或る島は薔薇や鈴蘭の雨を私たちにふりかけ、また或る島々からは不意に虹彩(にじいろ)の長い翼の鳥が舞ひあがつた。
鳥のむれは私たちのうへを飛びめぐり、鈴蘭や薔薇の花は、滑らかな舷を滑る眞珠のやうな泡抹(あわ)の中に解けて行つた。
花の芬香(にほひ)や鳥の歌聲とともに、蜜のやうに甘い、甘い調べが聞えて來た……。中には女の聲も聞える、……あたりのものは、何もかも――空も海も、高くゆらぐ帆も、艫(とも)のあたりにざわめき立つ水の流れも――すべてが戀を語り、めぐまれた戀を語つてゐた。
私たち誰もが戀してゐた女(ひと)も――その女(ひと)もまた、其處に……眼には見えず、間近にゐたのだ。いまひと時――いまひと時すれば、彼女の眼は輝き、彼女の頰は花のやうに微笑にかがやくことであらう……。彼女の手はお前の手をとり、お前はとこしへに花咲き誇る天國へと導いて行くことであらう!
ああ、瑠璃色の國よ、私はおまへを夢に見た。
一八七八年六月
[やぶちゃん注:「滑らかな舷を滑る」は「滑らかな舷(ふなばた)を滑る」と読みたい。]

