二人の富豪 イワン・ツルゲーネフ
二人の富豪
莫大な收入の中から兒童の教育、病者の治療、老人の保護のために巨萬の金を頒かつてゐる富豪ロスチャイルドのことを、私の傍で、人が賞めそやす時、私もまた讚歎し、感動する。
しかし、讚歎し、感動しながらも、私は孤兒(みなしご)の姪を、零落したあばらやに引き取つた、或る貧しい百姓一家のことを想ひ起さないわけには行かない。
「若しもカーチカを引き取つたら、」と婆さんはいつた、「私たちは彼女(あれ)のために一文無しになつて、鹽を手に入れる代もなくなるでせう、お汁(つゆ)に鹽味(あぢ)をつけることだつてできなくなることでせうし……」
「でも、あの娘(こ)を、……いいやな、鹽味(あぢ)なんざつけなくたつて。」と亭主の百姓は答へた。
ロスチャイルドも遠くこの百姓には及ばない!
一八七八年六月
□やぶちゃん注
◎「頒かつてゐる」は「頒(わ)かつてゐる」と読む。分け与えるの意。
◎「ロスチャイルド」Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)がフランクフルトで金融業によって財産の基礎を形成し、その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。ちなみに私の好きなボルドーの「シャトー・ムルトン・ロートシルト」はマイヤーの息子ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入し(「ローシルト」が「ロスチャイルド」のドイツ語読みとは知らなかったのである)、更にやはり気に入っているカリフォルニア・ワインの「オーパス・ワン」もナサニエルの曾孫のものと知るに及んで、何とも複雑な気持ちではある。