施物 イワン・ツルゲーネフ
施物
或る大きな町の近くの、廣い車道(みち)を病みほうけた老人が歩いてゐた。
彼は歩きながらよろめくのであつた。彼の瘦せ衰へた足は、絡んだり、引きずつたり、躓いたりしながら、他人(ひと)の足ででもあるかのやうに、重たげに、弱々しげに歩いて行くのであつた。着てゐた着物はぼろぼろになつてぶら下り、むき出しの頭は胸のうへに垂れてゐた、……彼は困憊し切つてゐたのである。
彼は、やがて路傍の石に腰をかけて、前かがみになつて、肘をついて、兩手で顏を蔽つた。すると、曲げた指のあひだから涙がこぼれて、乾いた灰色の埃のうへにしたたり落ちるのであつた。……。
彼は思ひ出した……。
嘗て、自分が健康で、裕福であつたこと、また自分が健康を害(そこな)ひ、富を他人(ひと)のために、友達のために、また敵のために頒ち與へてしまつたことを思ひ出したのである……。今は麺麭の一きれさへも持たなかつた。人といふ人は彼を見棄ててしまつてゐた。友達は敵よりさきに見棄ててしまつてゐた……。果して彼は施しを乞ふまでに落魄しなければならないのでらうか? 彼の心の中は辛く、慚かしかつた。
涙はあふれあふれて、灰色の埃を點々と濡らすのであつた。
ふと、誰かが彼の名を呼んでゐるのを耳にした。彼は疲れきつた頭を擧げて、前に見知らぬ人のゐるのを見た。
その顏は落ちついて、どつしりしてゐたが、嚴しくはなかつた。眼は輝いてゐるといふよりは、はつきりした眼であつた。この眼つきは彼を見拔くやうではあつたが、意地の惡いものではなかつた。
「君は財産をすつかり人に頒けてやつてしまつたんだね。」といつたのは抑揚のない聲であつた、「しかし、君は善いことをしたのを、まさか、情(なさけ)ながつてゐるんぢやあるまいね?」
「ゐやしませんよ。」と老人は溜息まじりに答へた、「ただ御覧の通り私はいま死にかかつてゐます。」
「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、「君は誰にも慈悲の心を示してやれなかつただらうよ、慈悲の心を修業することができなかつた譯だね?」
老人はそれに答へず、じつと考へ込んだ。
「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないがいいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、「行つて手を出し給へ、君も世の中の氣だてのいい人たちに、みんなが善人だつていふことを實際によくあらはす機會を與へるんだね。」
老人は身ぶるひして、眼をあげた……。もう見知らぬ人は消え去つてゐた、――道の遠くの方から、通りがかりの人が見えて來た。
老人はその人の傍へ近づいて、手をさしのべた。この通りがかりの人は、いやな顏をして外(そ)れて行つて、何一つくれはしなかつた。
しかしまた後から一人やつて來た、――その人は老人にほんのわづかばかりの施しをして行つた。
かうして老人は貰つた錢で自分の麺麭を買つた、――乞ひ求めて得た、いささかの食べ物が彼には身、に沁みて美味(うま)く思はれた。そして心に何ひとつ恥づるところもなかつた。むしろ、反つて靜かな歡喜(よろこび)が神の祝福(めぐみ)のやうに、彼の心に浮ぶのであつた。
一八七八年五月
□やぶちゃん注
◎「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。恐らくはこの行末が「、」で終って版の外に出ており、ここより少し後の部分(次注参照)にも同じ現象が起きており、その句読点の共通性から、ここを一字空けにするとこの読点を更に版の外に出すことが不可能(次行冒頭に読点が行ってしまう)であったからと推測される。
◎「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。前注参照。
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