宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜) 尾形亀之助
「散文詩」の公開は終わっても、僕は休んでる暇がない――
出発が遅れてるんだ、時計の針を指で進めよう――
僕には一種の麻薬なのだ、食事をするのも惜しいのだ……
――さて、そこで。とびきりの一篇。
題名からぶっとび! 尾形亀之助だ!
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宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜) 尾形亀之助
当夜は友人ばかりの集まりだつた。今になつて考へれば、宮沢だけが年相応に白髪はえた見るからに六十くらいの年配なのに、われわれは現在のままの姿であつたのを、宮沢さへ六十ならそれでいいという風に思ひ込んでゐたものか誰も不思議がらずにゐるのでした。
中央テーブルの大きな盛花を前に宮沢夫妻の席があつて、宮沢は自分の席を空けて夫人の方の席に就き、その左右の列前の列とそれぞれ人達が席についてゐたが、私達の仲間はその三分の一ばかりで、あとは×大学名誉教授として学位を二つ持つてゐる彼の地位としてはその道の大家権威の顔も揃つて、友人ばかりといつても真面目な私などには肩ぐるしい感じさへするのであつた。が、幸ひそれらの権威どもは唯の影坊子のやうにいたつてかすかな物音だけしかさせず、しかもそのかすかな物音もしばらく消えてしまつてサイレント映画のやうなものを私は感じてゐました。
すると、突然拍手がおこつて人々がざわめくと、すつくり宮沢が立ち上がりました。
「昨夜にひきつづき祝賀を受け、今夜は妻までもご招待にあづかり――」と、言ひかけたとき、私ははつとしました。宮沢は宮沢賢治といふ名札の席を空けて宮沢夫人と書かれた名札の席から立つてゐるのだつた。
何時の間に宴がはてたのか、私は一人歩音のしない路を歩いてゐた。私は肩をこずかれたやうな気がしてふりむくと、草野が青い顔をして立つてゐる。
「奥さんのことか」といふと
「うん――」と言ふ。
「君の趣向じあなかつたのか」といふと、頭をふつて
「間違ひにきまつてゐるさ――」と私の先になつて歩いて行くのだつた。私が、
「しかし――」と、言ひかけると、草野はあわててそれをさへぎつた。私が、こうして二人で歩いてゐればその辺から宮沢夫人がひよつこり出て来て挨拶されるんじやあないかと、言はうとしたのだが、とつさに草野がそれと知つてのことだと私もわかつたのだ。草野は
「何、おれはここからこつちへ行くんだ、君はそつちへ行くんだろ、宮沢夫人が出て来つこないよ――」と曲つて行つてしまつた。そして、デヤボロといふ歌のふしで草野が歌つて行くのが聞えた。
「手の中の一本のすみれは賢治じあないよ
タンポポは黄色い花だ
電柱棒、でくの棒、足は歩くよ
宮沢さんの奥さんは何処にゐるのか、雲の中か――は、は、はは、はのはあ――
ゐないよ、見えないよ、見えないからゐないよ、馬鹿野郎、何処かの馬鹿野郎――」
次の日、眼が覚めて頭が痛かつた。やつと眠つたのが三時過ぎだ。女房が何処かへ行つてしまつたので、私も子供達も万年床だ。疾く帰れ。
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(歴程6号 昭和14(1939)年4月発行)
[やぶちゃん注:「デヤボロ」はディアボロ“diabolo ”で、ジャグリングの一種である遊戯道具デヤボロを用いた大道芸の際に好んで用いられた曲か歌を指すか? ディアボロとは明治40年代初期(1900年後期)に日本に紹介された遊戯で、円錐を頂点で組み合わせたピンを二本の棒を紐で繋いだものに引っ掛けてヨーヨーのように激しく回転させ、空中にはねあげては、それをまた受け止める遊戯。所謂、中国雑技団でよく見かける中国ゴマによるコマ回しである。この最終段に現れる亀之助の「妻」とは、昭和3(1928)年5月の最初の妻タケとの離婚後、同年12月から同棲を始めた芳本優(17歳。亀之助は当時28歳)。次男茜彦(あかひこ)・三男黄(こう)・次女湲(けい)・四男乗(じょう)と子宝に恵まれたものの、昭和13(1938)年11月以降、家庭不和となり、優は度々家出を繰り返した。これはその最初の家出の際のもの。]

