私と詩 尾形亀之助
私の詩は短い。しかし短いのが自慢なのではない。自分としてはもう少し長い詩が書きたい。そして、もう少し私は詩の中に余裕をもちたい。「笑ひ」といふやうなものをゆつくり詩に書いてみたい。私の今の詩は詩集として一つに纒めて読んでもらうのが一番よいのだが、さう思ふやうに詩集は出せない。
私は又、思想にも詩作にも未だ固つたものを持つてゐない。このことはどんな風に今の私を言ひ著せばいゝのか私にはわからない。「私のやうな詩はどうかしら」と識者に見てもらつてゐる――と言つてよいと思ふ。唯、私はよい詩を作るやうになりたい。ぼんやりでいゝから一つの心境をつかみたい。(暗がりを手さぐりで歩いてゐることを思ふとさみしい)
私は詩作の生活に入つて七年になる。その六年間余の間には絵を描いてゐた頃もあつたが、詩は十編と発表してはゐないと思ふ。その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。
そして去年の五月頃から、詩の数から言へば秋になつてから今年の一月までに八十余編の詩作をして六十編余の詩を発表した。識者はこの私の詩を見てゐて呉れるものと自分は思つてゐる。だが、私はこれらの評言を待つてゐるよりも、もつとよい詩を書かなければならないと思つてゐる。一生懸命になつてゐなければ、ますます淋しくなるばかりだ。
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「色ガラスの街」以後の詩を集めて、この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐたが、去年の暮れに男の子が生れたので、この希望は中止しなければならなくなつた。機会を得て、この冬か来春に私のこの希望をとげたいと思つてゐる。
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(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)
[やぶちゃん注:「詩集として一つに纒めて読んでもらう」はママ。「その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。」とあるが、「色ガラスの街」は大正14(1925)11月1日発行で、この時期までの思潮社版全集の拾遺されている公開した詩は18篇、しかもその内には「色ガラスの街」の異稿である「無題」(「小石川の風景詩」異稿)・「昼」(「昼」異稿)・「さびしい路」(「白い路」異稿)・「颶風邪の日」(「五月」異稿)が含まれているので、差し引き14篇しか残存しない。逆にそれ以降から本篇のクレジット昭和2(1927)年3月迄の中期の拾遺詩を数えると、実に44篇も存在する。この前期拾遺詩の少なさは通常の詩人はもとより、寡作の尾形亀之助にしても異様と言わざるを得ない。「色ガラスの街」は序詩二篇を含め98篇、まさにその倍の凡そ200篇の詩があったのを、尾形自身が100篇近く、惜しげもなく捨て去っていたわけである「この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐた」とあり、別に昭和4(1929)年1月発行の詩誌『詩神』に掲載された「跡」の中でも『五月頃には間違ひなく出せる筈であつた詩集も机の中にそのままになつてしまつた』とあるのであるが、『この』昭和2(1927)年(と判断する)4月以降には吉行あぐりに対する一歩的な恋慕及び失恋、妻との不和、芥川龍之介の自死、映画への耽溺から映画雑誌の発行を企図し頓挫とそれどころではなく、翌昭和3(1928)年には一月の全詩人聯合結成、3月の妻タケとの別居と5月の協議離婚成立(3月15日には共産党大検挙があった)、12月には17歳の吉本優との同棲開始と落ち着く暇なく、『電燈装飾』なる第二詩集は、昭和4(1929)年5月20日の如何にもものさびた『雨になる朝』となって出版される。しかし、昭和4(1929)年6月発行の『詩と詩論』に所収する「さびしい人生興奮」では冒頭『詩集「雨になる朝」は去年の今頃出版する筈であつたのが一年ほど遅れた。これらの作品は一昨年のもので』とあり、この波乱万丈の一年にそのすべての詩が書かれていた、いや、先の「跡」の記載を信じるならば、その5月にはほぼ決定稿が完成していたというのも驚天動地と言わずばなるまい。ちなみに、この「電燈装飾」なる詩集名はむしろ、第三詩集の『障子のある家』にインスパイアされている感じがする。「去年の暮れに男の子が生れた」は大正15(1926)年12月22日の長男猟の誕生を言う(この三日後25日に昭和に改元)。]

