敵と友と イワン・ツルゲーネフ
敵と友と
終身禁錮に處せられた囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した……。彼の後には追跡隊が踵を接して跡を跟けてゐた。
彼は一所懸命に逃げて行つた……。追手はおくれはじめた。
然るに、見よ、彼のゆく手には斷崖絶壁をなした、狹い、――しかも深い河があるのである……。それに彼は游ぐことができないのである。
一方の岸から一方の岸に、薄い朽ちた板が投げ渡されてゐた。逃げ手は早くもその板に片足をかけた……。すると、偶々川のへりには彼の最も良い親友と、最もひどい怨敵(かたき)が立つてゐた。
怨敵(かたき)はものをもいはず、ただ腕を拱いてゐるばかりであつた。友はと見れば、聲をかぎりに叫び出した、「おうい? 何をするんだい? 氣でも違つたのか、しつかりしろ! 板がすつかり腐つてるのが分らないのか? 乘つたら最後、身體(からだ)の重みで折れちまふんだ、――そしてきつと死んぢまふぞ!」
「だつて外に渡りやうがないぢやないか! 追手の來るのが聞えないのか!」
哀れな男は絶望的な呻きごゑをあげて、板を蹈んだ。
「斷じて、いけない! ああ、君の死ぬのを見てはゐられない!」と熱心な友達は叫んで、逃亡者の足もとから板をひつたくつた。男は忽ちにして逆卷く波に墜ちて、溺れてしまつた。
怨敵(かたき)は滿足さうに笑ひ出した、――そうして、行つてしまつた。けれど親友は岸にどつかり腰をおろして、彼の哀れな……哀れな友人を思ひ、悲しげに泣きはじめた。
尤も、彼は友を死に到らしめたことについて、自分自身を責めようなどとは……ただの一瞬間も……思はなかつたのである。
「おれの言ふことを聽かなかつたからだ! 聽かなかつたからだ!」と彼はがつかりして呟いた。
「しかし、」彼はやがて言ふのであつた、「どうせ奴は一生涯、怖ろしい牢屋で苦しまなけりやならなかつたんだ! 少くとも今は苦しまなくて濟むんだ! 今はもう樂になつたんだ! かうなるのも因果だつたんだらう! しかし、とにかく人情としては、いかにも可哀さうな話だ!」
この親切者は運の惡い友達を思つて、やるせなく、すすり泣くばかりであつた。
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎跡を跟けてゐた:「跡を跟(つ)けてゐた」と読む。
◎板を蹈んだ:「蹈」は「踏」の書きかえ字。