辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる 尾形亀之助
この夏は何に連いて来たのかと、ふんどし一本の昼寝の、眠りかけの白ぽくかすんだ中に、焦げつくやうな蝉の啼きごゑを聞き、前々ずつと夏ばかりの世の中ではなかつたかと思うふのであつた。なんでそれを思案さうに考へつゞけなければならないことなのであるのか、私はすぐには眠らなかつたやうであつた。六月の月始めから七月の月末へかけて、晴れた日と、曇つても雨の降らずにしまつた日が三四日あつたゞけで、あとは雨はかりが降つてゐたのだから、八月の前が七月、七月の前が六月と一つ一つとたぐつてゆけば、六月は五月に五月は四月にとまさしく一二三四の配列になるのであるが、その四月や五月のどこに私がゐたのだつたことやら、自分の後姿のやうなものさへいつかうにそこには見あたらぬ。暦の正しさは、昨年も亦一二三四と月が列らび、六月の次には七月にもなつたのであつたが、根津裏のゑはがき屋の二階にゐて、下を通る物売りの声に、又かまぼこやが通ると思つたりしてゐたのだ。そして、汗をながして、二三度は冷した西瓜を食つたりしたのだつたがと思ひ出してみたところが、丁度その頃は大きな船に乗つて外国へ行つてゐたとか、アフリカの原野にヘルメツトをかぶつて群象にとり因れて鉄砲をうつてゐたとかといふのとくらべて、人はねうちのないつまらぬことを思ひ出すものだと私を思ふだらう。西瓜を食つたといふだけの材料で、すばらしい、あつと言はせるやうな思ひ出とするには、この場合西瓜といふ果物が味や形は兎に角として、仮にパンのやうにもさもさと喉につまるやうなものであるとしても、ひどく珍らしい、三十年に一個とか半世紀に一個とか位ひだけしか世には現れぬものでなければならぬのであらう。それにしてもあまり骨が折れることだつたり、苦心や冒険や自分でも二度と後にはそんなに早くは走れぬはど早く走つて、又とない記録を残したといふやうな感激などを必要な条件として、思ひ出とか記念写真とかといふものがあるのであれば、たとへさうしたものを一つももたないために恥かしい思ひをし、人に顔むけが出来ぬといふのであつても、そのときは上手な作り話の嘘を談つてもなんとかまにはあはふし、思ひ出ほど愚かなことはないと断然口をつぐんでしまふのも一法ではないかと、私はたぶん眼を開けたまゝ、くどくどと考へたり声を出さずに物を言つたりしてゐたのだつた。そして、庭のひまはりがひよろひよろと一丈近くものびて花をならべてならんでゐるかげの隣りの赤い屋根と、その横のトタン屋根とがかさなつてゐる上の空が、どうしたかげんか斜面に見えるので、軀の畳についてゐる方の側が畳なりに平らになつてゐるのだから動かずにゐればどこへも転がり落ちるやうなことはないのだとじつとしてゐたのだ。だが、それにしても、何のための昼寝で、寝そびれたからといつてどんな風に損なのか、煙草でものまふかと後をふりかへると、子供に乳をふくませて女房が座つてゐた。一月遅れの七夕は夕方から雨になつた。
(新詩論第一冊 昭和7年10月発行)
[やぶちゃん注:この風変わりな題名は説明が必要であるが、私はこの個々人の事蹟に暗い。長くなるが亀之助の優しさを伝える忘れ難い話であるので、正津勉「小説尾形亀之助」より該当部分(同書221p~222p)を引用する。三十二歳の尾形亀之助が尾羽打ち枯らして東京から故郷仙台へ帰った昭和7(1932)年三月末のこと、親交のあった詩人にしてダダイスト辻潤が発狂したという報道に接する。『「うわばみのお清」こと愛人小島きよの目の前で「とうとう天狗になったぞ、天狗に、羽が生えてきだしたぞ」と叫んで二階から飛び降りたというのだ。亀之助は衝撃を受けた。わなわなと身体が震えやまなかった。』。そして『六月のある深夜、詩友の石川善助が泥酔して東京は大森八幡坂付近で線路ぞいの側溝に墜ち、不慮の死をとげているのだ。じつは石川は跛足だった。享年三十三歳。石川は明治三十四年仙台市に生まれ、亀之助の一歳下。昭和三年、二十七歳で上京して浮浪、そののち草野[やぶちゃん注:草野心平。]の屋台の焼鳥屋で働いていて、亀之助と同郷のよしみもありよく酒席をともにしていた。突然のその訃報。亀之助は石川善助遺稿集『鴉射亭随筆』(昭和八年七月)に「石川善助に」と題して追悼している。』(改行)『「何の会であつたか、例によつてといふので、彼はゑびコとかんじかコの踊り[やぶちゃん注:不明。東北地方の民謡舞踏であろうか。底本の傍点「ヽ」を下線に代えた。]をやつた。私はいやな感じがしたので、帰途に『今度からあんな風に踊を所望されたら会費を返してもらふんだね』と言つたら、彼は『はあ――』と言つたきりで黙つてしまつた」』(改行)『これはどういうことか。会合などで石川に「踊を所望」してその跛足の所作に大笑いする馬鹿がいる。そんなゲスどもを絶対に相手にするなという、心底からの忠告なのだ。これぞまことに亀之助らしい追悼であるのだろう。』(改行)『――善助よ、せめてあの世ではそんなバカなまねはするんでねぇぞ。「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)と歌つた、善助よ……。』(改行)『この二ふたつの出来事は亀之助をゆさぶった。それがあったことでまた詩を書きはじめるのである。そうして帰郷後最初の一篇「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」を発表している。この題名ながら、辻の発狂、善助の死、について一言もない。でなくてただもう郷里の家へ帰った「私」の脱力の日々が綴られているだけ。これもまた亀之助らしいのだ。』。
この正津氏の文章の中に現われる「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)は以下の善助の詩の一節である。「馬込文学マラソン」の「石川善助」の頁より孫引きする(石川善助没後4年の昭和11(1936)年原尚進堂(島根県大社町)から発行された草野心平編・序高村光太郎になる詩集「亜寒帯」の「北太平洋詩篇」からの引用と思われる。該当頁の一部記号を省略した)。
候鳥通過
夕暮の黄に明滅し、
おびただしい候鳥のむれむれが、
かをかを啼いて島を過り、
微塵のやうに地平線(おき)へ墜ちる。
季節の流すあれら散點、
永劫の空に現はれ消える
時間のなかの悲しい擦過。
意志は梵(ブラフマン)に向つて飛ぶ、
あけくれ啼いて鳥と飛ぶ、
疲れた肋體(にく)の内面に
黒い點描をのこしてゆく。
尾形亀之助の追悼文「石川善助に」はこちら。
本詩の掲載された『新詩論』は吉田一穂編集になる。尾形亀之助は昭和17(1942)年12月2日、餓死自殺の希望を叶えるように孤独に死んだが、二人の後れた辻潤も二年後の昭和19(1944)年11月24日、東京都淀橋区上落合のアパートの一室で虱にまみれて餓死した。60歳であった。]
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本詩をもって思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「拾遺詩」の内、「後期1929-1942」をすべて掲載したことになる。
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