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2008/12/31

白い昼の狐 尾形亀之助

 「何時だつたかしら、三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに奥さんがまるまげに結つておいででしたね。そして、その時、前にろうそくをもつて玄関に出て来なさいましたよ」

    ×

 ねが正直な男なのだから嘘を云ふわけはないし、又そんな風な作り事で相手を変な気もちにおとし入れて面白がるといふやうなわるさを楽しむ種類の男でもないので、「妻がまるまげに結つてろうそくをもつて………」と云ひかけられて私はびつくりした。そしてあまり不意だつたのでほんとうにそんなことがあつたのかどうかを自分に問ひただすのにあはてたぐらいだった。
 私は、まるまげとろうそくなどの組み合せが気恥かしいやうな気持になつて、「さあそんなことがありましたかね、あなた、見違ひではありませんか……」と簡単に口がきけなくつて、そこに居るうちはうつかり顔があはされない気がした。で、心もち眼をふせるやうに背を曲げて動かないでゐた。そして妻がまるまげに結つた事があつたらうか――ろうそくなんかもつて、とそれをたしかめるのに懸命になつてゐた。
 それに、「そんなことはなかつた」と云ひ切るのには少し私には弱みがある。妻はまるまげを二度ほど結つたことがあつた、がそれは郷里にゐる頃で東京へ来てからはたしかに覚えがなかつた。私が気づかずにゐる間に妻がこつそりまるまげに結つてゐやう筈がない。あのつよい油の匂ひを嗅ぎのがすわけはないし、私がうまくごまかされて初めて訪ねて来た男が、その晩停電してゐる玄関に入いつて来てろうそくを持って出た妻のまるまげを見つけたといふやうなことがあらうか。
 それに、私はこの男が三年前に私の家へ訪ねて来たといふことを聞くのが初めてであつた。

 私はかすかにまるまげにつける油の匂ひがしたやうな気がした。
 ちよつと相手の肩でもたたいて「何か聞違ひだよ、そんなことは一ぺんもないんだから」と云ふより他はないと思つたが、かうしばらく黙つてゐた後で又妻のまるまげのことを云ひ出すのは、いかにもこだはつて考へてゐたやうに思はれるのがいやだつた。
 その男は、とぬすみ見ると、すまして何か本を読んでゐるのです。日向の黄色い大きい花を三つもさしこんだ花びんのそばに腰をかけて――、そして私がその男の方へ視線を向けてゐるのを感じると、本から顔をあげてちよつと私に笑ひかけて又本に眼を落してしまつた。
 静かな部屋の中で三時が鳴つた。
 さつと立ちあがつて部屋を出て行かふと思つてゐても思ひのままにならなかつた。
 そして煙草を吸ふ手つきなどもひどくぶきようになつて、額の皮がこはばつてしまつて私は平手でなでたりもんだりした。
 時計が三時をうつてからもしばらく経つて、私はやつとのことで立ちあがつた、そして、その男に近よらないやうにして部屋を歩いてみてから部屋のそとへころげ出た。
 私は書斎に帰つて机に肘をついて煙草をのんでゐた。肩がはつてゐた。そして日向の花のわきで静かに本を読んでゐる男の態を想つてゐた。
 妻がまるまげに結つてゐたといふ話を私にしたのはその男かしら、――三年も前に訪ねて来て、妻がろうそくをもつて玄関に出て行つた。――と私のうつかりしてゐるところを夢のやうな話をして驚かして置いて、自分はすまして本を読んでゐるとは……。

    ×

 だが、私はしばらくして、白い狐が私の書斎に来たのに気がついた。
 (白い私の客は細いやさしい眼をして肩のあたりの優雅な美くしい線をうねらして書斎の中を歩いてゐたのだ そして沈んだ調子で私に話しかける顔がなんとも云へない寂びしさを想はせ、銀紙をはりつけた額、薄い唇、絹のやうに細い足――。私は少し白すぎはしまいかと思った………まるで透きとほつて見えないやうにさへなつてしまふのだから。

(月曜第一巻第一号 大正15(1926)年1月発行)

[やぶちゃん注:最終段落の「書斎の中を歩いてゐたのだ」の直後の空欄はママ。また同じく最終段落の丸括弧(『(白い私の客は……』)の閉じる方は脱落している。というより、ここは以下全文が丸括弧で閉じるを設けず、余韻を持たせたと考えてよい。亀之助は昭和3(1928)年、この妻タケと離婚するが、彼女は亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている。年譜を見ると、この大正15(1926)年9月には大鹿卓詩集「兵隊」の出版記念会に出席している。この「白い昼の狐」が大鹿卓であったら、どきっとするところだが、大鹿とは草野心平の紹介で逢っており、心平と亀之助の邂逅は前年の十一月十日の「色ガラスの街」出版記念会でのことで、「三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに」からも、残念ながら「事実」としてはありえない。ありえないのだが……。]

猫――キャット・バロンに捧ぐ

昨日、アリスと散歩をして思い出した今年の夏の不思議なこと――

――夏も終わりの蜩の声(ね)の中、アリスと散歩に行った夕刻のこと。

裏山は造成されて、鎮守の森はすっかりなくなって造成地になってしまい、鬱蒼とした山陰にあった妖しい赤い鳥居と祠も、すっかり新造なったピカピカの日枝神社の小さな敷地の陰に、ちんまりと据えかえられてしまっていた。

アリスは相変わらず食い意地をはらして、不敬にも神社の縁の下に首を突っ込んではフガフガやっていた。

――と、そのお稲荷さんの背後から湧いてきたように薄いグレーのスマートな子猫が所謂キャット・ウォーク然として突如登場してきたのであった(突如というのがこの場合の言い得て妙と言うヤツだ)。

アリスが近寄っても、一向に平気の平左で、逆に肌をこすりつけてきたりしている。なぜてやると僕の足にも纏わりついて来る。雌である。抱いてもいやがらない。痩せてはいるが、野良とも思えぬ美形である。眼は深いブルーである。

初めは尻尾を振っていたアリスも、余りに馴れ馴れしいからか、暫くするとすっかり関心を失って、また一人神社の背後でフガフガやっている。

子猫は無限記号を描くように参道に坐っている僕の両の足を反復して体を擦りつけている――時が止まったような気がした。

日も落ちた。アリスと家に向かいつつも振り返ってみると、子猫は少し間隔を措いて、帰る僕らについてきていた。

それが電信柱の影に隠れては、半身を乗り出してこちらを見ては、ミャアと言い、チュチュと声をかけると、次の電柱まで駆けて来るので、昭和30年代の恋愛ドラマのワン・シーンを見るようであった――

僕は彼女をかえり見つつ、しきりにチュッチュを繰り返した。正直僕はこの時、この猫がこのまま家についてこないかなとさえ思っていたのだ――

――と、そう思った間際、無関心にさっさと先を歩いていたアリスが珍しく立ち止まって――こんなことは滅多にない――さっと振り返ると――これも異例――一声、高く、ワン! と確かに子猫に向かって鳴いたのであった――これも滅多にないことだ。彼女は滅多に吠えないのである――。

猫は始めて吠えられて、電信柱の下にきゅっとしゃがんで、日の経った黄な粉餅のように小さくうずくまってしまった。

夕陽に輝くアリスの眼は心なしか厳しいように見えた。彼女――アリスはきりりと前を向き直ると、僕のリードをずんずん引いて、もういっさんに家路についた。

僕はと言えば後ろ髪を引かれながら帰ったが、それきり、もう猫はついてこなかったのであった。

――それからもう半年になる……

僕はそれから一度として彼女に逢えないでいるのである――

僕は今も、この猫に逢いたくてたまらないのである――

あの電信柱に半身隠した如何にも人めいた妖しい「狐猫」に――

2008/12/30

牛乳屋の煙突と風呂屋の煙突 尾形亀之助

牛乳屋の煙突はあかさびてゐる 風呂屋の煙突は塗りたてのやうに黒い

雪どけのする明るい朝だ

    ×

牛乳屋にすばらしい浴槽があるやうな気がする

    ×      ×      ×

 年の暮から正月にかけての景色が私にはまぶしい。殊に雪どけのする日はあはれな感情に心を洗はれる。
 私が十八から十九に移る少年期の終る頃の出来事「ラブ」が、今にさうしたものを思はせるガラスのやうな季節である。
 私はクリスマスの夜、女のま白な体を見せられた。
 雪がよく降つた年であつた。私が東京から郷里に帰つた年の冬であつたらうと思ふ。私はそのときに、三週間の「ラブ」にとり残されてぼんやりしてしまつた。
 正月が過ぎると女は片々の手袋を忘れて行つたままそのままになつてしまつたのです。

(〈亜〉27号 昭和2年1月発行)

[やぶちゃん注:『私が十八から十九に移る少年期の終る頃の出来事「ラブ」』の年齢は数え年であるから、17~18歳の経験と考えられる。亀之助の学歴は幾分変わっている。喘息のために11歳の時に仙台から鎌倉へ転地療養させられ、宮城県立師範学校付属小学校尋常科五年から、明治45(1912)年4月に鎌倉尋常小学校(現在の市立御成小学校)尋常科五年に転入、五年生を再履修している。その後、逗子開成中学校入学(大正3(1914)年)するが、二年後の大正5(1916)年4月には明治学院中学校に転入、東京千駄ヶ谷の明治学院自習寮に転居している。ところが、翌大正6(1917)年5月には五年半ぶりに仙台の実家に戻り、私立東北学院普通部に転入、ここでまた中学三年生を再履修している。17歳は丁度、この時で、文中で「クリスマスの夜」がわざわざ示されるのも、この東北学院の前身が仙台神学校であったことと無縁ではあるまい。正津勉「小説尾形亀之助」でも、この頃尾形亀之助の文学への覚醒が生じたとし、同時に『いつとはなく彼も紅燈の巷を徘徊しはじめる。カフェー遊びをしたり仙台では有名な常磐丁遊廓に出入りしたり、そしてそのいつか童貞喪失にいたるのである。』として本詩を引用している。亀之助の記憶に誤りがなければ――人はこの時の記憶をそうそう錯誤するものではない。少なくとも僕は、そうである――それは大正6(1917)年12月25日のことである。序に言っておくと亀之助の誕生日は12月12日、彼の「私が十八から十九に移る」という謂いが疎かなものでないことが知れるではないか。]

僕はこの「詩」が尾形の中でも「すこぶる」附きで大好きだ。ところが、これは恐らく彼のアンソロジーには載りにくい。繰り返すが、これは思潮社版全集の「評論(映画評・詩集評・詩評/雑感・エッセイ)」に所収するのだ。どうしてこれが「拾遺詩」でないのか? 僕は大いに疑義を唱えたいのである。

2008/12/29

芥川龍之介 骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―

お待たせした。芥川龍之介「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

本テクストを2008年最後の本格的テクストの最後の公開とする。年の掉尾としては、悪くないパンチのきいたテクストと「附やぶちゃん注」であると思う。とりあえず第一ラウンドとして勝負しましょう、かかってきなさい!

なお、先に予告してある本テクストを基にした

「芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み」

という――僕の好きな、そうして近代文学史上最長の題名の一つとされる、かのPeter Weissペーター・ヴァイスの戯曲“Die Verfolgung und Ermordung Jean Paul Marats dargestellt durch die Schauspielgruppe des Hospizes zu Charenton unter Anleitung des Herrn de Sade”「サド侯爵の指導のもとにシャラントン精神病院の演劇グループによって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺」よりも――長い題名のテクストについては、ほぼ全景を整えてはいるものの(実際に訳を残しているのは「罪と罰」の項の野口寧斎謫天情僊の漢詩三首のみ)、あるスキル・アップの思惑があって、2月上旬の公開を予定している。

では、今年もお付き合いありがとう。

また、来年も、よろしかったら、お待ちしている――この、玄室で――

漫筆御免 尾形亀之助

 食べること飲むことが何よりも楽しみだ。此頃私は安心してさう思つてゐる。そして、私は日一日の経過にあまり不足を感じなくなつた。私の頭が麩のやうにふやけてしまつた。食物の夢を見るやうになつてからは、女や花の夢をちつとも見ないやうになつてしまつた。

 このやうな傾向はあまりよいことではなからう。自分でも気がついてゐるけれども、これには止むを得ない事情がある。世の中があまり結構な世の中でないためにこんなことになつてしまつたのだ。私はさう信じてゐる。詩といふものがどれほどに価値のあるものかを疑はずには居れないこの頃ではないか。詩に疑ひをもちながら詩作することや批評したりするのは愚かしいことではなからうか。詩といふものは作るだけのものお互いに批評するだけのものであるなら――唯それだけのものであるのなら、あまりにつまらな過ぎるのではあるまいか。お互に詩作はやめよう。誰がこんなことにしてしまつたのだ。と、言ひたくなるのは無理か。「詩には立派な生命がある。だが、君達の作品はなつてゐないではないか」と言はれながら、私達の詩作は一生無駄働きといふことになるのか。

 だが、不幸なことに私達は詩を信じないわけにはいかない。私は詩を捨てて鍬や犂を握ることは、悲しむべきことと思はずには居れない。――こんなことで私の頭は近頃麩のやうにふやけてゐる。

 それにしても、詩では食つてゆけないといふことは不思議でないのだらうか。どうしたわけで詩では食つてゆけないのだらう。詩や小説は米ではない。呉服屋や金物屋は米屋ではない。どうして彼等だけが食つてゆけて、詩人ばかりが金にならないのだらう。

 私はくそ真面目になつて。このやうな問題に触れてかれこれ言ふのをちよつと恥もする。又、あまり好きではない。又、私がこんなことを書いても誰が読むのだらう。頭がわるいのは頭が麩になつてゐるからだ。

    ×

 頭がわるい………で思ひ出すことがある。

 今詩壇は実に喧噪をきわめてゐる。小学校の昼休みである。ぼんやり立つてゐて突きあたられるのがある。出会がしらにぶつつかるのがある。じやんけんしてゐるのがある。さうかと思ふと妙に意地わるがゐたり、おとなしいのがゐたり、男の子が女の子を泣かしてゐたり。ナワトビやマリツキをしていたり――しかし、小学校の昼休みは五十分だ。やがて彼等のしんとした教室から本を読む声がもれて来るのだ。おくゆかしいと言はふか、うらやましいと言はふか――。それにひきかへて、詩壇の喧騒は何時になつたら鐘が鳴ることかわからない。私は知つてゐる。ちつとも無理だとは思つてゐない。しかし結構なこととも言へない。

 で、私は次のやうなことを案出した。それは、神経衰弱の者とはなるべく議論をさけることである。二人共に神経衰弱であるなら尚のことである。議論に負けさうになつたときも、この方法を用ひてもらいたい。「どうも変んだ変んだと思つたら、君は神経衰弱だ。だからもう議論はやめる」と言へばいいのだから用方は簡単である。

 この神経衰弱の者とはなるべく議論をさけることという案出は、決して論客にあてつけてゐるのではない。議論に負けさうになつて「君は神経衰弱だから……」もあまり人を食つた話だ。だから「神経衰弱の者とはなるべく議論をさけること」といふ考案は戯談である。

 戯談のついでになつてしかられては損だが――。

 大きく出るわけでもあるまいが、日本で詩を作つてゐたつてつまらない。と思つてゐる人はゐないだらうか。実際興味のない昨今、さうした考へをもつてゐる人もゐないこともなからうと思ふ。こんなことは私はよいことだらうと思ふ。それともたはけたことだらうか。誰かがそんなことを口に出したとしたら笑はれることだらうと思ふ。人にもよることだが、笑はなくともよいことだ。桜の国の詩人だ。さうひけめがあらう筈もないと思ふ。当然のこととして多くの詩人が彼地に於て奮闘すべきではなからうか。

 季節はまさに春である。実にうらやましいことだ。

 何んとかしなけれは詩は余技になつてしまふのだ。この余技といふ言葉をどんな意味に解して呉れてもいい。それでいいことにさへ思つて呉れなければそれで充分だ。勉強さへしてゐればその中によいことがある――と安心してはゐられないのだから困る。佐藤春夫氏は「お前の詩は余技だ」と言はれて「或ひはしからん」と答へてゐる。うらやましいことである。煙草をのむかはりに詩を作るといふやうなことが横行するやうになつたら私達はどうすればいいのだらう。路を歩いてゐる人達が皆、赤や青やの綺麗な小型の手帳をポケツトにしのばせてゐて

 今 私とすれちがつた美しい人よ

 あなたは薔薇のやうだ

 私はあなたを恋する 薔薇の花よ

といふやうなものを手帳に書きつけてこつちを向いてにやりとされたらどうする。

 私は眼先が暗くなるやうな気がしてならない。頭の髪ばかりがぼうぼうとよくのびることだ。この頭に生えてくる黒いものに、私達はリボンをかけやう。笑つてはいけない。

(詩壇消息第一巻第四号 昭和24月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。]

2008/12/25

早春雑記 尾形亀之助

 毎日のやうに隣りの鶏が庭へ入つて来る。

 鶏が書斎の前をいそいで通るので、いかにも跣足で歩いてゐるやうな恰好をする。羽や鳥冠が立派で、その上雄鶏などはすましてゐるやうな様子をしてゐるので可笑しい。

 彼等の中に一匹奇妙な鳴声をする雌がゐる。

 四五日前から地つづきに家主が家を建てゝゐる。今日は午後から曇つて、夕暮から雨になつた。

    ×

 又春が来る。なげつぱなしにして置いた季節が何処からか又帰つて来た。去年の春にまつはる不幸な感情を忘れたふりをして一年過ぎた。

 私はその人の写真をもつてゐない。見てゐる空いつぱいに広がる感情をどう縮めることも出来ない。

 細い月が出てゐる。一日西風が吹いて夜になつた。

 夢のやうな夕暮であつた。

 私はあなたに手紙を書かうとは思はない。はつきりした感情であなたを考へたくはない。

 私はただ夕暮を見てゐただけでいゝ。

 何時まで私はこんなことを考へてゐるのか。

 泣くと、ほんとうに涙が出る。今年はあと幾ケ月あるかといふやうなことをきいても誰もとり合つては呉れまい。

    ×

一、主人を除く家人は、午後十時、事の如何を問はず休息のこと。

一、主人の権威を以つても、休息中の家人を起すことを禁ず。

一、但し、地球の軸をまはす時はこの限りにあらず。

一、主人は、家人に対し、言語行動を丁重にすべきこと。

一、妹を尊敬すべきこと。

一、酒を節して、庭に樹木を植えること。

一、来客を選びて酒食を共にすること。

一、最も大切なるは女房を「おかみさん」と呼び、愛することを怠らざること。

 以上八ヶ条を主人心得として普九さんから頂戴した。

 昨夜、妻が私の欲しがつてゐた色々の家具を買つて来た夢をみた。部屋に飾つてみるとみなところどころ毀れてゐた、妻は「途中の運搬がわるかつたからで、買つたときは毀れてゐなかつた」と言つてゐるところであつた。

 私は、あてのない散歩はどうしても出来ないし、出来るだけ外出しまいと思つてゐるので、不機嫌な顔をして家にばかりゐる。

 庭には、隅に一本細い桐があるだけである。

    ×

 私の詩のあるものはこの頃一層短篇的なものになつた。さうした傾向は内容や形態から考へれば、事実詩から離れかけてゐることになるかも知れないが、それは言葉の上でのことで、私の持つてゐる詩から離れてゆかうとしてゐるのではない。

「短篇」と言つても、所謂短篇なるものの総称ではなくそれにふくまれるものの一つであつて、当然生れ出て来なければならないものである。

 わづかばかりの頁のところでこんなことを書くつもりではなかつたが、このことをながながと書いても興がない。又、私の短篇と自称する作品を詩であるとしか考へられない人達には、私の短篇が詩にふくまれるものであつて、その仕事が十分にしつくされてゐるのではないしその作品には何の変りもないのだからそれでよいことにしやう。たゞ私が詩よりも短篇の方が格が上だと思つてゐるのではないことや、夢を見てゐるのではないことだけは断つておきたい。

    ×

 又、雨が降つてゐる。昨日から私は部屋に白い蓮の掛図をかけてゐる。夜になつて雨が強くなつた。蓮の胡紛が昼月のやうに浮いてゐる。

 とよがまがつてゐるので、又壁に雨がしみてきた。雨の中に電車の走つてゐる音が時をりする。

 寝床に入つても雨の音が聞えるだらうと思ふと、なんだか床に入りたくない。

(一九二八・三―)

(全詩人聯合創刊号 昭和3(1928)年4月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。ここで尾形亀之助は詩と短篇(小説)の区別をしているように思われるが、その区別をしたがっているのは実は他者であって、彼の意識の中での『私の持つてゐる詩』は識別的世界ではなく、彼が「短篇」と呼んでいるものは、その『詩』『にふくまれるものの一つであつて、』その『詩』からのみ『当然生れ出て来なければならないもの』だと言っている点に留意すべきであろう。「去年の春にまつはる不幸な感情を忘れたふりをして一年過ぎた」とあるのは、この前年の昭和2(1927)年4月の吉行あぐりに対する一歩的な恋慕と失恋から信州諏訪に傷心旅行したこと等を指すものと思われる。拾遺詩の内の昭和3(1928)年1月発表の「恋愛後記」及び「春は窓いつぱい」等を参照されたい。「普九」は「全詩人聯合」のメンバーの中に見出せる詩人、宮坂普九のことと思われる。ちなみに彼は作家今東光の従兄弟である。「昨夜、妻が私の欲しがつてゐた色々の家具を買つて来た夢をみた」とあるが、尾形は同年3月には妻タケと別居をしている。本篇が書かれた頃には恐らく最早一緒に住んでいなかったと考えた方がこの夢の意味は深くなる気がする。「何の変りもないのだからそれでよいことにしやう。」の「しやう」はママ。「とよ」は「樋」(とい)の音が変化したもの。]

以前にも何篇かブログ掲載しているが、今後、思潮社版全集の「評論」「物語」のテクスト化もして行こうと思う。僕ははっきり言ってこの全集の分類を意味あるものと感じていない。何故これが拾遺詩ででなくて評論なのか? 何故これが拾遺詩でなくて物語なのか? 何故これが評論で物語でないのか? といった素朴な疑問を感じながら、いつも読んでいるのである……

2008/12/24

あの日

死 熱 小さな猫の死骸 見上げた干乾びた夕陽 雪の上の足跡の基準標本 鮮血に濡れたアナキストの愛読書 ドラキュラの虫歯 杭を挿した旧約聖書 国分浜の端の田圃の電柱の火花 蛍 蛍 蛍  二人っきりの木漏れ日下のボートの上の友人から略奪した恋人 日傘の下のあの二人 氷柱を僕の心臓に向ける優しい愛人 死んだ蝉 金魚の墓 小学生の夕焼の僕 あの日の富士の燃えカス 裏返った蛸の目玉 遠い日のうつけた狂人の老婆の眸……取り戻したいものは――ただそれだけ…… 

明日より帰省

明日よりアルツハイマーを発症している義母を訪ねる旅。

やるべきことはやっている。今年中にまず、芥川龍之介の原文の「骨董羹」はアップしたいのだが、このテクスト、なかなか一筋縄ではいかない。禁欲的につけている注でさえ、気がつくと爆発的に増殖してしまうのだ。しかし、半端じゃあ、ないゼ! ふふふ♪

2008/12/23

パソコン奇蹟の復活記念「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」

我が友AB氏の力により、辛くも死地よりパソコンが救助され、今夕、僕の書斎に戻ってきた。忙しい年末に最優先に僕の我儘をきいてくれたAB氏他、この10日程、メールで慰めてくれた諸氏に感謝したい。ご心配をおかけした。正直言うと、今回はかなりまとまったテクストの作業中でもあり、致命的なパソコンの損壊を思い、僕は妻の誕生日を失念する程に(過去に妻の誕生日を忘れたことは一度としてなかった)、実は激しい打撃を受けていたことを告白しておく。

そこで、その奇蹟の復活を記念して、本年中の公開を断念していた「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」を「心朽窩 新館」に公開し、また、このテクストを数少なき我が友AB氏に捧げたい。

ありがとう、ABちゃん

2008/12/21

パソコン死すとも小人閑居せずして不善を成す 《★父の書斎からのブログ》

パソコン死すとも小人は死せず、小人閑居せずして不善を大いに成しておる――さても今、僕が画策している無謀な芥川龍之介のテクストの一端を御紹介しておく。
彼の若き日(満28歳)の作品に三回に亙って雑誌に連載した「骨董羹」というアフォリズム風のものがある(ネット上には新字旧仮名のテクストが散見される)。例えばその一篇(僕の作成済の正字正仮名テクストから。底本は岩波版旧全集を用いている)。

       輕薄

 元の李衎、文湖州の竹を見る數十幅、悉意に滿たず。東坡山谷等の評を讀むも亦思ふらく、その交親に私するならんと。偶友人王子慶と遇ひ、話次文湖州の竹に及ぶ。子慶曰、君未眞蹟を見ざるのみ。府史の藏本甚眞、明日借り來つて示すべしと。翌日即之を見れば、風枝抹疎として塞煙を拂ひ、露葉蕭索として清霜を帶ぶ、恰も渭川淇水の間に坐するが如し。衎感歎措く能はず。大いに聞見の寡陋を恥ぢたりと云ふ。衎の如きは未恕すべし。かの寫眞版のセザンヌを見て色彩のヴアリユルを喋々するが如き、論者の輕薄唾棄するに足へたりと云ふべし。戒めずんばあるべからず。(一月二十三日)

底本はご覧の通り、ルビなしである。如何であろう。あなたにはこの擬古文、すんなり読めて意味が取れるであろうか? そこで、だ――

     軽薄

 元代の李衎(りかん)は、竹画の名手として知られた北宋の文湖州の手になるという竹の絵を数十幅観てみたが、正直言って、どれもこれも、その悉くが満足出来るものではなかった。蘇東坡や黄山谷といった文人の、湖州を激賞する文章を読んでみても、かえって、『これは彼らが李と親しく交際していたことによるエコ贔屓であろう』ぐらいにしか思っていなかったのであった。さて、たまたま友人の王子慶と逢い、話が文湖州の竹に及んだ。子慶が言うには、「それは、君がいまだ文湖州の真蹟を見ていないからに過ぎぬ。私の知人の府史の所蔵にかかる一本は正真正銘の湖州、明日私が彼から借りてきて貴君にお見せすることと致そう。」と。翌日、果してこれを観たところ――、風に揺れる疎らな竹の枝は、遠く望む山上の砦から立ち上る狼煙を拭うかの如くくっきりと鋭く、露に濡れそぼった寂寞たる竹の葉は、更に清々しい霜の気も帯びてしっとりとし、あたかも見ている自分が、竹の名所として知られる甘粛省渭川(いせん)と、そこから遠く離れた河南省の、「詩経」国風にも詠まれた、かの美しい名川淇水(きすい)との間の、別乾坤に座っているかのようであった――。衎は感嘆せずにはおられなかった。同時に自身の見聞の如何に狭隘(きょうあい)であったかを知って大いに恥じ入ったということである。衎のような人間はまだ許し得る存在である。近年、あの光の魔術師と呼ばれたセザンヌの絵の、粗悪なモノクロームの写真版を見て、そのヴァルール――色彩の微妙な度合いや調和を云々するかのような、無知蒙昧の評論家の唾棄すべき軽佻浮薄さに比べれば、遥かにましであると言うべきである。その噴飯たること、ここで戒めずにおくわけには、とてもいかない。(一月二十三日)
[やぶちゃん補注:「府史」の「府」は中国の行政区画の一。唐代から清代まで続いた。「史」は記録を司る役人の謂いであるから、ここは府の役所の書記官。
 「ヴァルール」はフランス語“valeur”で、色価と訳される。色の明度や色相互の関係を言う美術用語。前近代にあっては、専ら色の明暗度の違いによってパースペクティヴの違いを引き出すような空間的描出の様態を指して言ったが、印象派セザンヌ以降の近現代絵画では、単純な明度に加えて、色相互の色合いや配置・調和といった画面構成全般に及ぶ評言として用いられる。]

とせば、如何であろう?――
とりあえず既に「骨董羹」(「中華風ごった煮」の謂い)全篇の勝手自在やぶちゃん現代語翻案の素案を何とか成した。題して

芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づく
やぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した
「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」
という無謀不遜な試み

という。

未だ考察中である。しかしながら、僕にはこの愚劣な拙文を高めるための、秘中の秘がある。今を以てしかない秘中の秘だ……パソコンの回復(昨日奇特な友人が修理のために引き上げて、僕の書斎は明窓浄机である)と同様、気長にお待ち頂けるなら、恩幸これに過ぎたるはない。

2008/12/20

尾形亀之助拾遺詩全篇ブログ掲載終了《★父の書斎からのブログ》

    雨降る夜

一日降りとほしの夜だ

火鉢の粉炭のイルミネーシヨンが美しくともつてゐる

(〈亜〉26号 大正15(1926)年12月発行)

***

    月夜の電車

私が電車を待つ間
プラツトホームで三日月を見てゐると
急にすべり込んで来た電車は
月から帰りの客を降して行つた

(銅鑼9号 大正15(1926)年12月発行)

***

    羽子板

 黒足袋の男の子が新しい下駄をはいて女の子と追ひ羽子をしてゐる。

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

***

    ガラス窓の部屋

夢を見てゐるやうあな一日だ

朝から部屋に陽がさしこんでゐた
雲もないし風の音も聞かなかつた
茫つとして夕方になつた

夕方になつて
私は部屋の中に魚を泳がしてみたくなつてしまつた
一日中しめきつてゐた埃ぽいガラス窓の外は
くるくる落日が大きいたんぽぽを咲かせてゐる

(詩神第三巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

***

    花 (仮題)

電灯が花になる空想は
一生私から消えないだらう

(近代風景一月号 昭和2(1927)年1月発行

***

    曇天の停車場

停車場のホームに
赤い帽子の駅長さんが
ちやんと歩いてゐる

天気が悪いから
今日は汽車の速力を五哩ぐらひにして
旅客にゆつくり窓の景色を見てもらはふと
駅長サンは考へてゐる

(近代風景一月号 昭和2(1927)年1月発行)

[やぶちゃん注:「五哩(マイル)」と読む。一マイルは約1.6㎞で、ここは時速であろうから、大変な鈍足である。]

***

    夜は凍える

近所の家や路や立樹やトタン屋根を
風呂敷に包んで枕もとに置いてゐる

枕に耳をあてゝゐる

今夜
夜啼きの雞と犬の吠え声が暗やみの地べたに凍りついて
外は一面の原となつてゐやう

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

***

    風

庭へ来てぴいーぴい笛をならしてゐる人は
今日は来てゐない

冬陽がガラス戸に溜まつて
霜どけの庭は庇の下だけが白く乾いてゐる

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

***

    平らな街

風は旗をひるがへしてゐる
砂利の乾いた路は遠くでまがつてゐる

私は門に立つて
犬のそばを通つて行く友人の後姿を見送つた

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

***

    寝床と冬

寒むがりが
蒲団から顔と指を出して煙草をのんでゐる

ならんで寝てゐて
だまつて見てゐると
いつまでもしーーんとしてゐる

私も煙草に火を点けた

(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)

***

    落日

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐると
客はごく静かにそつと帰つてしまつて
私はさよならもしなかつたやうな気がする

部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる

粛々となごりををしむ落日が眼に溜つてまぶしい

(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)

***

    暗がりの中

    Ⅰ

僕の部屋の天井に鼠が一匹住んでゐる

昼は
僕も彼女も寝てゐる

    Ⅱ

夜は電燈の花を咲かせ
部屋は気球のやうに暗やみの中に浮いてゐる

彼女は何処からか新聞紙をひきずつて天井に帰つて来る

彼女の寝床はカサカサと鳴る
さびしければ
僕はさびしくなつてくる
僕は毛布に膝をつゝんで座つてゐる

    ×


彼女が台所へ来るのを僕は知つてゐる

彼女は正月になつて餅を天井裏へ運んだ

    Ⅲ

夜あけに寝床に入ると
もう彼女も寝床に入つてゐるのであらう
耳をすましても彼女は音をたてない

電燈を消すと
障子が白らんで静かに朝が来てゐる

(詩壇消息第四号第一巻 昭和2(1927)年4月発行)

***

以上をもって、思潮社版「尾形亀之助全集」所収の拾遺詩全篇を本ブログに掲載終了した。

これが僕に出来る今年最後の皆さんへのプレゼントである。

よいお年を。

2008/12/18

雨降る夜 尾形亀之助

一日降りとほしの夜だ

火鉢の粉炭のイルミネーシヨンが美しくともつてゐる

(〈亜〉26号 大正15(1926)年12月発行)

2008/12/17

随分 御機嫌よう

今朝、ソースネクストの驚速XPをインストールしたところ、パソコンが全く起動しなくなった。セーフモードでも起動せず、ディカバリもままならず、最早、僕の能力では復活不能となった。親しい友人の援助を求めるしかないが、彼も恐らく忙しく、それも何時になるか分からない。

従って、今後、恐らく数ヶ月に渡ってHPの更新は不可能と相成った。

まずは尾形亀之助拾遺詩集の本年中の公開は潰えた。

また、実は相応の覚悟を持って今とりかかっている芥川龍之介の無謀な注釈付きの或るテクスト――いや、それは芥川龍之介原作の僕による傲岸不遜翻案――も何時日の目をみるやら……。慚愧に堪えない――

これも天命。

暫くおとなしくしていろ、ということらしい。

本ブログは、隣に住んでいる父のパソコンを使わせてもらってからくも打ち込んでいる。時にはここでメールを見ることは可能であるが、メールのお返事は御容赦願いたい。まずは、御連絡まで。

では、皆さん、随分、御機嫌よう――

【12月23日奇蹟の復活!】

十二月 尾形亀之助

寒くなるとたくあんが塩からくなる

夢のやうな昨日の食卓に

たくあんが塩からくなつてゐる

(詩神第三巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。]

2008/12/16

火鉢のある部屋 尾形亀之助

毛布に膝をつつんで
天井から部屋のまん中に垂れさがつてゐる電燈の前に坐つてゐるので

夜が部屋にすれすれ凝つてゐるやうな気がする

煙草の煙はゆらゆらしてゐる
私の膝はやはらかい
大きな声さへ出さなければ何時まで起きてゐても誰も叱りはしないだらう

(〈亜〉26号 大正15(1926)年12月発行)

[やぶちゃん注:「凝つてゐるやうな」は「凝(こほ)つてゐるやうな」と読むものと思われる。]

2008/12/15

街風 尾形亀之助

雨の夜はいつもながら明るく賑ひ
僕も交つて歩いてゐる

(銅鑼9号 大正15(1926)年12月発行)

2008/12/14

美しい街 尾形亀之助

街よ
私はお前が好きなのだ
お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて帰るのはいやなのだ
妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乗るやうなことは堪へられなくさびしい
街よ
私はお前の電燈の花が一つ欲しい

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

2008/12/13

煙突と十二月の昼 尾形亀之助

演習帰りの飛行船が低くかつたが

風呂屋の煙突は捕ひやうともしないで立つてゐた

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

[やぶちゃん注:「捕ひやうともしないで」の「捕ひ」はママ。読みは「つらまひ」か「つかまひ」はたまた「とらひ」か? また、ここで言う「飛行船」は飛行機ではなく、文字通りの飛行船であろうと思われる。第一次大戦後、飛行機の急速な実用化に伴い、軍用飛行船の利用価値は著しく低下したが、日本でも一部は陸軍で運用されていた。ここは映像として飛行船でないと風呂屋の煙突が捕捉するというシチュエーションとしくりこないように思われるのである。]

ぶどう畑のぶどう作り ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 附やぶちゃん注

「ぶどう畑のぶどう作り ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 附やぶちゃん注」を「心朽窩 新館」に公開した。

今回のテクスト化と注釈作業の過程で、「博物誌」についての追加注釈の必要性を強く感じた。今回は、「ぶどう畑のぶどう作り」に所収する「博物誌」の初稿ともいうべき凡そ20篇について、非力を承知の上で注釈して見たのだが、そこでは素人が考えても、失礼ながら岸田氏の訳の腑に落ちない部分が見出され、ここには何かフランス語のウィットが、エスプリがあって、それが訳し切れていない、全く示されていないのではという思いがふっと掠めるのである。幾つかの後進の訳本及び注によってそれが目から鱗となることもあると同時に、それらによっても満たされない部分があることもまた、事実である。僕のルナールの「博物誌」のラビリンスの旅は始まったばかりなのだという感を、深くした次第である。そうして、それが僕の知的好奇心をくすぐっているということも、また、告白しておかねばなるまい。ありがとう! ジュール!

2008/12/12

COMMANDは出来てもLEADは出来ない

「リーダーたるもの自分がリードする人達を心から大切にせねばならない。さもなくば COMMAND(命令)は出来ても LEAD は出来ず、立派なリーダーとはなり得ない」(先日の真珠湾攻撃の12月7日、オバマ新政権退役軍人省長官に指名された日系人エリック・シンセキ将軍が、2003年に退役した際の退役送別式でのスピーチより。コラム配信ジャーナリズム「萬晩報」081211号篠崎晃氏執筆「オバマ政権と武士道」より引用)

夜が重い 尾形亀之助

    (笑つたやうな顔をして来る朝陽に袋をかぶせる)

私は夜の眠り方を忘れてゐる

ぱつとした電燈の下で
指をくはへるやうな馬鹿をして
風に耳をかしげ足を縮めて床の中に眠れないでゐる

乾いた口に煙草を嚙んで
熟した柿のやうな頸を枕におしつけてゐる

眼に穴があいてゐる

(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)

2008/12/11

受胎 尾形亀之助

三晩もつゞいて
『ねずみが蒲団にのつてゐて重い』といふので
私は何もゐない妻の蒲団の上をシイシイと追つた

それで妻は安心して眠るのだ
受胎して
妻はま夜中にねずみの夢を見てゐるのだ

(若草第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)

[やぶちゃん注:「受胎して」という表現から、この詩のイメージは前年大正15(1926)年12月22日の長男猟誕生より前のことと思われる。]

2008/12/10

越年 尾形亀之助

大晦日の夜は
銀座で酒を飲んでゐた

提灯に燈を入れて十二月が帰つて行つてしまつた

(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)

曇天の三月 尾形亀之助

三月の空は葛湯のやうに白つぽい

庭を見てゐて

ステイシヨンを思ひ出してゐる

ぶるきの旗のやうな平らかさに

顔をおしあてゝゐる

(文章倶楽部 昭和2(1927)年4月発行)

[やぶちゃん注:「ぶるき」は「ブリキ」(オランダ語“blik”)か。傍点「ヽ」は下線に代えた。]

2008/12/09

毒薬 尾形亀之助

 私は毒薬の夢を見たことがある。覚えてゐるのは小さな罎に入つてゐる毒薬を握つてゐるうちになくして、すつかり困つてしまつたのだつた。
 手にめりこんでしまつたのではないかといふ心配で、青くなつてゐるのであつたらしい。
  ×
 私は毒薬は見たことがない。(これは飲んだことがないといふ意味かも知れない)食卓の茶わんの底に水が拭きのこされてゐるのを、毒薬のやうな気味のわるさを感じる。

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

2008/12/07

春が来る 尾形亀之助

    春が来る

(服と帽子が欲しい)
私は酒ばかり飲んでゐたので
このひと月は何もしないでしまつた
二月は二十八日でお終ひになつてゐた

(太平洋詩人第二巻第四巻 昭和2(1927)年4月発行)

[やぶちゃん注:昭和2(1927)年は通常年で、翌昭和3(1928)年が閏年であった。推定であるが、この二月前後に吉行あぐりへの一方的な恋愛感情の高揚があったものと思われる(本作発表の4月には底本年譜によれば『ある女性への思慕やみがたく、信州上諏訪に約二週間の傷心旅行』とある。初出の編者による「太平洋詩人第二巻第四巻」はママ。「第四巻」の誤植でなければ、号数表記が変更され、二段階の巻数表記になったものか。]

芥川龍之介抄訳「レオナルド・ダ・ヴインチの手記」

芥川龍之介による抄訳「レオナルド・ダ・ヴインチの手記」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

翻訳ではあるが、芥川晩年のアフォリズムのルーツとすべき20代の作品として、味わうに足るものである。

実は最近、僕は、芥川の「侏儒の言葉」の直接の母源と思われるものを、ある作品に感じている。近々、それをアップしたいと思っている。

PAPAとその娘 尾形亀之助

娘が蠟シンコを達磨の白いせと型につめてはピンでぬいて遊んでゐる
「PA・PA ちゆめて」
PA・PA は白いのをせと型にぎつしりつめて娘に渡した。
「PA・PA 白いから取れない」
PA・PA は白の上の白を取れないと言つた娘に、
この娘が生れて初めての敬意を表した。
娘よ! PA・PA はお前をためしたのではない。
偶然であつたのだ。
(銅鑼8号 大正15(1926)年月不明)

[やぶちゃん注:「白いせと型」は白色の瀬戸物で出来た抜き型のことを言っているのであろう。]

今年最後のテクストは、このペースでいくと「尾形亀之助拾遺詩集」となる公算が強くなってきたことを予告しておく。 

2008/12/06

ユン・ドンジュ(尹東柱) ツルゲーネフの丘


 윤동주
(ユン・ドンジュ 尹東柱)の詩に「ツルゲーネフの丘」という詩がある。윤동주とは誰か?


尹東柱(
一九一七年十二月三十日~一九四五年二月十六日)は、朝鮮の詩人。日本の植民地支配下にあった朝鮮の「暗黒時代における民族の声」を詠じ、現在、大韓民国では国民的詩人として有名である。北朝鮮でも一定の評価を受けている。号は海煥(ヘファン 해환)。本貫は坡平尹氏。朝鮮独立運動(友人に朝鮮語・朝鮮史の勉強を勧めたり、朝鮮独立の必要性を訴え、また朝鮮文化の尊重、朝鮮文学における民族的幸福の追求などを主張するなど)の嫌疑により一九四三年に治安維持法違反とされ、逮捕され、一九四五年に九州で獄死した。(以上はウィキ「尹東柱」に拠る



 イワン・ツルゲーネフの「散文詩」のテクスト化の中で、僕は本詩「ツルゲーネフの丘」の存在を知り、その윤동주という『虐殺された詩人』を知り、そのように彼を死に至らしめた日本人に繋がる一人として、今の僕がなすべきこと、今の僕になしうることは何だろうというを、僕はこの数箇月、ずっとどこかで考え続けてきた。

 何よりまず윤동주に心からの敬意を表して、その原詩を掲げねばならない。

 出版物の複写は著作権に抵触する可能性があるのであるが、僕は正確にブラウザ上でハングルを転写する自信がない。韓国で出版された彼の選集から取り込んだ原詩の画像を以下に転載する。




Turugenefnooka_2  



 本詩は、朝鮮語が分かり、そうして既にイワン・ツルゲーネフの「散文詩」をお読みになった方には、一目瞭然であろう。あの「散文詩」の「乞食」をインスパイアした詩なのである。中山省三郎氏の訳を掲げる。


 

  乞食   イワン・ツルゲーネフ

 

 私は街を通つてゐた……。老いぼれた乞食がひきとめた。

 血走つて、淚ぐんだ眼、蒼ざめた脣、ひどい襤褸、きたならしい傷……。ああ、この不幸な人間は、貧窮がかくも醜く喰ひまくつたのだ。

 彼は紅い、むくんだ、穢い手を私にさしのべた。

 彼は呻くやうに、唸るやうに、助けてくれといふのであつた。


 私は衣囊(かくし)を殘らず搜しはじめた……。財布もない、時計もない、ハンカチすらもない……。何一つ持ち合はしては來なかつたのだ。

 けれど、乞食はまだ待つてゐる……。さしのべた手は弱々しげにふるへ、をののいてゐる。


 すつかり困つてしまつて、いらいらした私は、このきたない、ふるへる手をしつかりと握つた……。「ねえ、君、堪忍してくれ、僕は何も持ち合はしてゐないんだよ。」


 乞食は私に血走つた眼をむけ、蒼い脣に笑(ゑ)みを含んで、彼の方でもぎゆつと私の冷えてゐる指を握りしめた。


 「まあ、そんなことを、」彼は囁いた、「勿體ねいでさ、これもまた、有難い頂戴物でございますだ。」


 私もまたこの兄弟から施しを享けたことを悟つたのである。


            一八七八年二月



 訳はウェブ上にないことはない。しかし、それには訳者の著作権がある。また、そこにはそれぞれの訳者や評者の附言もある。

 最も素晴らしいと私が感じたものは、でじょん氏という方のサイト内にある『尹東柱を読む  「ツルゲーネフの丘」』である。僕はこの方の詳細な語りに大いに感動した。そこで、でじょん氏は氏の一九九一年筑摩書房刊の宋友惠(ソングヒェ著伊吹郷訳「尹東柱・青春の詩人」から女流作家宋友惠氏の痛烈なツルゲーネフ批判を引用されてもいる。そこで宋友惠氏は『ツルゲーネフの散文詩「乞食」がもたらす感銘や感動はニセの感銘、まがいの感動というほかない。ユンドンヂュはこのようなまがいものの兄弟愛に対して、おそまつな隣人愛に対して反発した。それで、「なんの損もなく感謝と人の心だけを得る」ツルゲーネフの「乞食」のごとき慈善がもっている、自己欺瞞性と不正直さをあばく作品を書き、表題さえも「ツルゲーネフの丘」とつけたのである。』とある。僕はしかし、素朴に思ったのである。ツルゲーネフの感懐は『まがいの感動』『まがいものの兄弟愛』『おそまつな隣人愛』であろうか? そうして、この윤동주尹東柱)の「ツルゲーネフの丘」が、果たして『慈善がもっている、自己欺瞞性と不正直さをあばく作品』であり(私に言わせれば「というだけのもので」である)、さればこそ詩人は確信犯として『表題さえも「ツルゲーネフの丘」とつけた』のであろうか? という疑義を、である。でじょん氏の続く語りは僕のような思いを、まさに心から受け止めてくれているような素晴らしいものである。是非、御一読をお薦めする。

 そこで、しかし僕は朝鮮語もハングルもまるで知らない。ましてやキリスト教徒でもない以上、ここで私の浅薄な感懐や疑問を述べることは控えたい。されど、多くの人に、このツルゲーネフの「乞食」と「ツルゲーネフの丘」を並べて、読んで、そうして考えて、いや、感じてもらいたい、とも思うのである……だが、それでは、このままでは、如何にも僕がなすべきこと、今の僕になしうることとは、転んでも言えないのではないか? そうだやはり和訳が必要だ――


 そうして――僕は教師であることを、この時ぐらい有難く思ったことはない――僕には最初期の教え子に、I君という朝鮮語を自在に使いこなせる人物がいることを思い出したのである。有難い! お願いしたところ、その日の内に、彼は勤務先の韓国から本詩を訳して送ってくれたのであった。


 以下はそのI君の
윤동주作ツルゲーネフの丘」の全訳である(掲載承諾済み)。I君に謝意を表し、ここに掲げる。




 

ツルゲーネフの丘   尹東柱

 私は坂道を越えようとしていた…その時、三人の少年の乞食が私を通り過ぎて行った。


 一番目の子は背中に籠を背負い、籠の中にはサイダー瓶、缶詰の缶、鉄くず、破れた靴下の片割れ等の廃物が一杯だった。


 二番目の子もそうであった。


 三番目の子もそうであった。


 ぼうぼうの髪の毛、真っ黒い顔に涙の溜まった充血した眼、血色無く青ざめた唇、ぼろぼろの着物、ところどころひび割れた素足。


 あぁ、どれほどの恐ろしい貧しさがこの年若い少年達を呑み込んでいるというのか。


 私の中の惻隠の心が動いた。


 私はポケットを探った。分厚い財布、時計、ハンカチ…あるべきものは全てあった。


 しかし訳もなくこれらのものを差し出す勇気はなかった。手でこねくりまわすだけであった。


 優しい言葉でもかけてやろうと「お前達」と呼んでみた。


 一番目の子が充血した眼でじろりと振り返っただけであった。


 二番目の子も同じであった。


 三番目の子も同じであった。


 そして、お前は関係無いとでもいうかのように、自分たちだけでひそひそと話ながら峠を越えていった。


 丘の上には誰もいなかった。


 深まる黄昏が押し寄せるだけ…

 



 僕は僕に、この如何にも惨めな非力な、まさにこの『同時に二つの詩の主人公であるところの僕』に、出来るであろうことを、少しだけ出来た気がしている。それはちっぽけな、取るにたらないことであるにしても――


追伸:本詩は、ツルゲーネフ「散文詩」中山省三郎譯の「乞食」の僕の注にも本日、追加した。



2009年8月16日追記:尹東柱の獄死については脳溢血という公称とは別に、獄中でわけの分からぬ妙な注射を何遍も打たれた事実から、生体実験として食塩注射を受けた結果の死という推定がなされていることをここに付記しておく。

さびしい夕焼の饗応 尾形亀之助

僕は君に何の饗応もないのですつかり困つてゐる

僕がさつきから口をつむつてしまつたのはそのためだ
部屋にこもつた煙草の煙を君が嚙んでゐるやうに見える

夕陽が落ちるのを待つて僕達は其処へ出かけやう
そうすれば君も煙草ばかり吸つて黙り込んでゐるのをやめて

「大変なご馳走だ――」と君は驚きながらそれを喰べるだらう

僕は君の喰べるのを見てゐるだけでいい

(〈亜〉25号 大正15(1926)年11月発行)

[やぶちゃん注:「そうすれば君も」の「そう」はママ。]

2008/12/05

西風 尾形亀之助

西風が吹いて窓をたたくので
書斎はさんざんにやられてゐる

私は冷めたい足をふところに入れて温めたくなつた

(〈亜〉25号 大正15(1926)年11月発行)

2008/12/04

蛙が鳴くので月の出がおそい 尾形亀之助

泉(い)子ちやんはもうねんねなの
小ちやい手だな

蛙がやかましく鳴いてゐる

    ×

窓を閉めて
カーテンをおろしてゐて
月の出を待つてゐると言へないが
さびしく
煙草に火をつけて座つてゐる

(銅鑼7号 大正15(1926)年8月発行)

2008/12/03

九月の半日 尾形亀之助

半日がながい

すつかり煙草にたよりきつてゐるやうな自分に気がつくと
私はさみしくなつてくわいてゐた煙草を捨てた
        ×    ×    ×
五つも六つも手ごろの石をポケツトに入れてゐて
思い出しては嚙みくだき口にふくんで青やうす肉色の味をすゝりたい

電車に轢きくづされた小石が美しい色をして葡萄のやうにこぼれてゐる
――それを急いで一口にすゝつて其処を立ち去れば私は決してこう不幸ではない 不幸ではない

(太平洋詩人第一巻第四号 大正15(1926)年12月発行)

[やぶちゃん注:「くわいてゐた」はママ。]

この後二連、何と素敵に慄っとすることか――

2008/12/02

夜店 尾形亀之助

ぱつと電燈を一つつるして一軒の店がある

電燈を一つづつつるして店がいくつも列んでゐる

どの店にもたつた一つの窓もない

(銅鑼8号 大正15(1926)年月不明)

これは先の「日本詩選集 一九二八年版」の昭和3(1928)年1月発行に所収したものに先行する違う一篇である。

2008/12/01

蜜柑 尾形亀之助

蜜柑がすつぱいので
蒲団の中へ手を入れてしまつた

あごをうづめて体をかたくすると寒い

眼をあけておとなしくしてゐると
あまやかしさいつぱいになった

(手を出すと冷めたいぞ)
泣くと蒲団の掛ゑりがしよつぱくなるのだ

蒲団の中で 私は
何時までも親父に叱られてゐる子供になつてゐた

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

[やぶちゃん注:「あまやかしさいつぱいになった」の「あまやかしさ」及び「なった」の拗音はママ。]

僕は、例えば、この尾形の詩に何も感じないか、痛恨のノスタルジアを感じるか(それはオール・オア・ナッシングである)で、人は宿命的に、永遠に分けられてしまうような気がする――

酒場から 尾形亀之助

四角の
せまい白い天井から垂れ下がつた燈の下で
ポケツトのほころびにまで
酒の香をしみこませ
皆んなは酔つてゐるのだ

そして
そこが自分の家庭であるかのように
テーブル、椅子、カツプや
しやじにまでなつかしみを感じ

黄色の服の男がぼやけ
体の中の血球がふくれ上つても
時計が労れて動けなくなつてゐる
たやすくは立ちあがらうともしない

すべてが密閉された部屋の中で
やさいや魚と一緒に腐つてしまつた
ダイ/\色の酔つぱらいだつた。

(上州新報 大正13(1924)年1月1日発行)

[やぶちゃん注:何故、ここで「上州新報」への寄稿なのかは不学にして不明。]

本詩をもって思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「拾遺詩」の内、「初期(1919-1924)」をすべて掲載したことになる。

手 尾形亀之助

俺に二本の足がはえ

ずるずるのびた

頭が大きくふくらんだ

俺はだんだんおとなになつた

二本の手は

顔をなでたり頭をかいたり

眼をこすつたりする

のみたくもない煙草を口にもつてゆくのも

この手だ

よく考へると

実際うるさい手だ

ぶきみにわかれた

五本の指

よく見ると

俺の手はきびがわるい

(詩人四月号 大正121923)年4月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。]

嵐のおばさん 尾形亀之助

ま黒に曇つた空から

嵐のおばさんがすたすた息を切らして

このまちに入つて来た

黒い短い腰巻が

びつしよりぬれてひらひらと風に吹かれ

男のようなばあさんのももにからまりついてゐる

赤髪をぼさぼさたばねた

やせ顔の気狂ひばあさんだ

あごを突き出し斜に空を見ながら

少しばかり腰をまげて

とりとめもないことを口走る

すぐ

あとからのひつそりとした

お寺臭いたそがれに押されて

そそくさと行つてしもふ

けもののようなばあさんだ

嵐のあとだ

     (一九二二、八)

(玄土第三巻第十二号 大正111922)年12月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。「ような」「しもふ」はママ。]

カフエーの一ところ 尾形亀之助

カフエーのすみに
何時も忘れられてゐるような白いテーブルと椅子がある

どんなに人がこんでも
そのテーブルはいつも空いてゐた

今度いつたらそこに座つてみようと思ひながら
ついぞ座つたことがない
淋しい みたされることのないようなテーブルだ

久しく人のけに接しない
全たく人と交渉のない
影のようなテーブルだ

白い しかしそこばかりは
うす暗い壁について
いつも黙りこんでゐる。

(玄土第三巻第十号 大正11(1922)年10月発行)

[やぶちゃん注:二箇所の「ような」はママ。]

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