白い昼の狐 尾形亀之助
「何時だつたかしら、三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに奥さんがまるまげに結つておいででしたね。そして、その時、前にろうそくをもつて玄関に出て来なさいましたよ」
×
ねが正直な男なのだから嘘を云ふわけはないし、又そんな風な作り事で相手を変な気もちにおとし入れて面白がるといふやうなわるさを楽しむ種類の男でもないので、「妻がまるまげに結つてろうそくをもつて………」と云ひかけられて私はびつくりした。そしてあまり不意だつたのでほんとうにそんなことがあつたのかどうかを自分に問ひただすのにあはてたぐらいだった。
私は、まるまげとろうそくなどの組み合せが気恥かしいやうな気持になつて、「さあそんなことがありましたかね、あなた、見違ひではありませんか……」と簡単に口がきけなくつて、そこに居るうちはうつかり顔があはされない気がした。で、心もち眼をふせるやうに背を曲げて動かないでゐた。そして妻がまるまげに結つた事があつたらうか――ろうそくなんかもつて、とそれをたしかめるのに懸命になつてゐた。
それに、「そんなことはなかつた」と云ひ切るのには少し私には弱みがある。妻はまるまげを二度ほど結つたことがあつた、がそれは郷里にゐる頃で東京へ来てからはたしかに覚えがなかつた。私が気づかずにゐる間に妻がこつそりまるまげに結つてゐやう筈がない。あのつよい油の匂ひを嗅ぎのがすわけはないし、私がうまくごまかされて初めて訪ねて来た男が、その晩停電してゐる玄関に入いつて来てろうそくを持って出た妻のまるまげを見つけたといふやうなことがあらうか。
それに、私はこの男が三年前に私の家へ訪ねて来たといふことを聞くのが初めてであつた。
私はかすかにまるまげにつける油の匂ひがしたやうな気がした。
ちよつと相手の肩でもたたいて「何か聞違ひだよ、そんなことは一ぺんもないんだから」と云ふより他はないと思つたが、かうしばらく黙つてゐた後で又妻のまるまげのことを云ひ出すのは、いかにもこだはつて考へてゐたやうに思はれるのがいやだつた。
その男は、とぬすみ見ると、すまして何か本を読んでゐるのです。日向の黄色い大きい花を三つもさしこんだ花びんのそばに腰をかけて――、そして私がその男の方へ視線を向けてゐるのを感じると、本から顔をあげてちよつと私に笑ひかけて又本に眼を落してしまつた。
静かな部屋の中で三時が鳴つた。
さつと立ちあがつて部屋を出て行かふと思つてゐても思ひのままにならなかつた。
そして煙草を吸ふ手つきなどもひどくぶきようになつて、額の皮がこはばつてしまつて私は平手でなでたりもんだりした。
時計が三時をうつてからもしばらく経つて、私はやつとのことで立ちあがつた、そして、その男に近よらないやうにして部屋を歩いてみてから部屋のそとへころげ出た。
私は書斎に帰つて机に肘をついて煙草をのんでゐた。肩がはつてゐた。そして日向の花のわきで静かに本を読んでゐる男の態を想つてゐた。
妻がまるまげに結つてゐたといふ話を私にしたのはその男かしら、――三年も前に訪ねて来て、妻がろうそくをもつて玄関に出て行つた。――と私のうつかりしてゐるところを夢のやうな話をして驚かして置いて、自分はすまして本を読んでゐるとは……。
×
だが、私はしばらくして、白い狐が私の書斎に来たのに気がついた。
(白い私の客は細いやさしい眼をして肩のあたりの優雅な美くしい線をうねらして書斎の中を歩いてゐたのだ そして沈んだ調子で私に話しかける顔がなんとも云へない寂びしさを想はせ、銀紙をはりつけた額、薄い唇、絹のやうに細い足――。私は少し白すぎはしまいかと思った………まるで透きとほつて見えないやうにさへなつてしまふのだから。
*
(月曜第一巻第一号 大正15(1926)年1月発行)
[やぶちゃん注:最終段落の「書斎の中を歩いてゐたのだ」の直後の空欄はママ。また同じく最終段落の丸括弧(『(白い私の客は……』)の閉じる方は脱落している。というより、ここは以下全文が丸括弧で閉じるを設けず、余韻を持たせたと考えてよい。亀之助は昭和3(1928)年、この妻タケと離婚するが、彼女は亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている。年譜を見ると、この大正15(1926)年9月には大鹿卓詩集「兵隊」の出版記念会に出席している。この「白い昼の狐」が大鹿卓であったら、どきっとするところだが、大鹿とは草野心平の紹介で逢っており、心平と亀之助の邂逅は前年の十一月十日の「色ガラスの街」出版記念会でのことで、「三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに」からも、残念ながら「事実」としてはありえない。ありえないのだが……。]