朝馬鹿〔①底本準拠版〕
夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。
羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。
一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。
彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。
………にわとりが鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにわとりの頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふおかしな田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。
そして、まるでにわとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつこうまで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだかりで赤子を跨いだ。蒲団がおかしいほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。
×
にぎやかなにわとりの鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。
おこうは不気嫌であつた。
羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはいて便所へ行かふとする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにおかしいのがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。
そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこらいてきた、喉につかいてゐたおかしさをはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩めた。おこうがどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどおかしくなつた。今日も暑いんだな海へ行たいなんて云つて居たが、おこうも中々楽くではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。
おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。
ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。
今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんとうになぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふくわい心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。
羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。
羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。
そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。
だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。
おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこうのために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。
おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがおかしくなつてしまつた。
羊吉はそのまま眠つてゐた。
おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いておかしくなつてしまつて……」…と、こんなことも云ひまいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。
又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来そうもなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。
羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。
今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出つたのだらう。と、少しおかしなりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。
封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりそうな企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじないをすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはいてあつた。
「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。
「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。
ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんとうに自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。
もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはふ。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出駄らめを自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。
もう蝉がさかんに啼いてゐた。
それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。
何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。
羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。
(一九二五・九・――)
(月曜第一巻第四号 大正15(1926)年4月発行)
* * *
朝馬鹿〔②誤記誤用補注版〕
夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。
羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。
一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。
彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。
………にわとり〔→にはとり〕が鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにわとり〔→にはとり〕の頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふおかしな〔→をかしな〕田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。
そして、まるでにわとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつこう〔→かつかう〕まで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだかり〔→はだけ(り)〕で赤子を跨いだ。蒲団がおかしい〔→をかしい〕ほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。
×
にぎやかなにわとり〔→にはとり〕の鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。
おこうは不気嫌であつた。
羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはい〔→くはへ〕て便所へ行かふ〔→行かう〕とする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにおかしい〔→をかしい〕のがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。
そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこらい〔→これへ〕てきた、喉につかいて〔→つかへて〕ゐたおかしさ〔→をかしさ〕をはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩《やす》めた。おこう〔→おこう〕がどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどおかしく〔→をかしく〕なつた。今日も暑いんだな海へ行[き]たいなんて云つて居たが、おこうも中々楽く〔→「く」削除〕ではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。
おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。
ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。
今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんとう〔→ほんたう〕になぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふくわい〔→会〕心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。
羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。
羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。
そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。
だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。
おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこう〔→おこう〕のために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。
おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがおかしく〔→をかしく〕なつてしまつた。
羊吉はそのまま眠つてゐた。
おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いておかしく〔→をかしく〕なつてしまつて……」…と、こんなことも云ひ〔→云ふ〕まいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。
又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来そう〔→さう〕もなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。
羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。
今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出〔→行〕つたのだらう。と、少しおかしく〔→をかしく〕なりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。
封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりそうな〔→さうな〕企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじない〔→まじなひ〕をすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはい〔→くはへ〕てあつた。
「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。
「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。
ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんとう〔→ほんたう〕に自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。
もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはふ〔→しまはう〕。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出駄らめ〔→出鱈目〕を自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。
もう蝉がさかんに啼いてゐた。
それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。
何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。
羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。
(一九二五・九・――)
(月曜第一巻第四号 大正15(1926)年4月発行)
* * *
朝馬鹿〔③補正修正版〕
夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。
羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。
一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。
彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。
………にわとりが鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにはとりの頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふをかしな田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。
そして、まるでにはとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつかうまで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだけで赤子を跨いだ。蒲団がをかしいほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。
×
にぎやかなにはとりの鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。
おこうは不気嫌であつた。
羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはへて便所へ行かうとする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにをかしいのがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。
そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこれへてきた、喉につかへてゐたをかしさをはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩《やす》めた。おこうがどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどをかしくなつた。今日も暑いんだな海へ行きたいなんて云つて居たが、おこうも中々楽ではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。
おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。
ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。
今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんたうになぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふ会心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。
羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。
羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。
そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。
だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。
おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこうのために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。
おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがをかしくなつてしまつた。
羊吉はそのまま眠つてゐた。
おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いてをかしくなつてしまつて……」…と、こんなことも云ふまいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。
又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来さうもなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。
羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。
今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出〔→行〕つたのだらう。と、少しをかしくなりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。
封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりさうな企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじなひをすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはへてあつた。
「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。
「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。
ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんたうに自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。
もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはう。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出鱈目を自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。
もう蝉がさかんに啼いてゐた。
それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。
何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。
羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。
(一九二五・九・――)
(月曜第一巻第四号 大正15(1926)年4月発行)
[やぶちゃん注:表記・表現の誤用と思われるものが本篇に限っては異常に多いので、三種のテクストを用意した。①底本準拠版、次に②誤記誤用補注版を配し、以下の記号を用いて文中で補正を指示した。本篇にはルビがないので《 》は私のつけたルビであることを示す。〔→ 〕内は直前の字の書き直し又は補正した字及び文字列を指す。脱字と思われるものは[ ]で補った。最後に③補正修正版を参考に附した。但し、これは私なりに正しい、詠み易いと考える読み・補正であって、尾形亀之助の表記は方言の要素も多分に加わっており、勿論、絶対の補正というわけでは毛頭ない。そのつもりでお読みになりたいものでお読み頂きたい。さて、この「おこう」はタケである。繰返しになるが、亀之助は昭和3(1928)年、この妻タケと離婚するが、彼女は亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている。年譜を見ると、この大正15(1926)年9月には大鹿卓詩集「兵隊」の出版記念会に出席している。さすれば、この「K」はどう見ても「大鹿卓」である可能性が高くなってくるように思われるが、これも繰返しになるが、大鹿とは草野心平の紹介で逢っており、心平と亀之助の邂逅は前年の十一月十日の「色ガラスの街」出版記念会でのことなので、それほど短期間に、急速にタケと大鹿が接近したというのも不自然には思われる。思われるのではあるが……。]