悪い夢 或ひは「初夏の憂欝」 尾形亀之助
私はあなたを愛してゐる。私のすべてはあなたに捧げてゐます。
と、私はほとんど泣きかけて女の袖に追ひすがつたが、女はじやけんにふりちぎつて行つてしまつた。
「かまきりよ。お前は情け知らずですましてゐればいいのならいいけれども、それにつけても私はさみしい」
と、私は女に書き送つた。
すると、女からこんな返事が来た。
「私はあなたのあの手紙を見るとたゞもうをかしくつてふき出してしまつた。私を愛するあなたの心に大に同情する。世はあわれである。」
私は涙をのんだ。
なまじ泣いたつて笑はれるばかりであつた。それからは、私は昼を恥じて夜はなるのを待つてこつそり泣いてゐた。
私は青くやせた。
待つともなく待たれてならない女を待つて、私は幾度か窓ガラスを嚙みくだこうとさへした。血に染めた口をゆがめて
「フフフフフ、あいつ奴未だ来ぬわい」と、やりたい発作を幾度かあやうくさけた。
夏が来た。
私はこと更に好ましいかの女の夏の姿を思ひ慕つた。そして一夜こんな夢を見た。
――ふと、私を捨てたかの女の後姿をみかけてすぐ追ひつこうとしたが、そんなことをしてはわるいと思つて立ちどまると、女は街の中にまぎれ込んでしまふのであつた。
×
朝になつて、かの女の後姿を茫然と見てゐた夢を見た自分が不愉快であつた。
起きたあとで枕を見るのはいやだ。
(〈亜〉24号 大正15(1926)年10月発行)
[やぶちゃん注:「なまじ泣いたつて笑はれるばかりであつた。それからは、私は昼を恥じて夜はなるのを待つてこつそり泣いてゐた。」の「夜はなる」は「夜離る」や「夜放る」では意味が通らない。「夜になる」の単純な誤植と見たい。この女は誰か? それは「かまきり」ではある。――しかし、この笑い、私には、「評伝 尾形亀之助」の中で、著者秋元潔が、吉本あぐりに亀之助とのことを直撃インタビューした際の、『含み笑い』と美事にダブる――。]
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ではごきげんよう――