牡蠣の殻 蒲原有明 《2バージョン》
牡蠣の殼〔「草わかば」バージョン〕
牡蠣の殼なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨りあやふく限りある
その思ひこそ悲しけれ
身はこれ盲目すべもなく
巖のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮のみちひをおぼゆめり
いかに黎明あさ汐の
色しも淸くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼
たとへ夕づついと淸き
光は浪の穗に照りて
遠野が鴿の面影に
似たりとてはた何ならむ
痛ましきかなわたつみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど
されど一度あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎けざるべき
*
牡蠣(かき)の殼(から)〔「草わかば」バージョン ルビ附〕
牡蠣の殼なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨(ひと)りあやふく限りある
その思ひこそ悲しけれ
身はこれ盲目(めしひ)すべもなく
巖(いはほ)のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮(しほ)のみちひをおぼゆめり
いかに黎明(あさあけ)あさ汐(じほ)の
色しも淸くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼
たとへ夕づついと淸き
光は浪の穗に照りて
遠野(とほの)が鴿(はと)の面影に
似たりとてはた何ならむ
痛(いた)ましきかなわたつみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど
されど一度(ひとたび)あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎(くだ)けざるべき
*
牡蠣の殼〔「有明詩抄」バージョン〕
牡蠣の殼なる牡蠣の身の、
かくも涯なき海にして、
生のいのちの味氣なき
その思ひこそ悲しけれ。
身はこれ盲目、巖かげに
ただ術もなくねむれども、
ねざむるままに大海の
潮の滿干をおぼゆめり。
いかに黎明朝じほの
色靑みきて溢るるも、
默し痛める牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼。
よしや淸しき夕づつの
光は浪の穗に照りて、
遠野が鳩の面影に
似たりといふも何かせむ。
痛ましきかな、わだつみの
ふかきしらべに聞き恍れて、
夜もまた晝もわきがたく、
愁にとざす殼の宿。
さもあらばあれ、暴風吹き、
海の怒の猛き日に、
殼も碎けと、牡蠣の身の
請ひ禱まぬやは、おもひわびつつ。
*
牡蠣の殼〔「有明詩抄」バージョン ルビ附〕
牡蠣(かき)の殼(から)なる牡蠣の身の、
かくも涯(はて)なき海にして、
生(なま)のいのちの味氣(あじき)なき
その思ひこそ悲しけれ。
身はこれ盲目(めしひ)、巖(いは)かげに
ただ術(すべ)もなくねむれども、
ねざむるままに大海(おほうみ)の
潮(しほ)の滿干(みちひ)をおぼゆめり。
いかに黎明(あさあけ)朝じほの
色(いろ)靑みきて溢(あふ)るるも、
默(もだ)し痛(いた)める牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼。
よしや淸(すが)しき夕(ゆふ)づつの
光は浪の穗に照りて、
遠野(とほの)が鳩の面影に
似たりといふも何かせむ。
痛(いた)ましきかな、わだつみの
ふかきしらべに聞(き)き恍(ほ)れて、
夜(よ)もまた晝(ひる)もわきがたく、
愁(うれひ)にとざす殼(から)の宿(やど)。
さもあらばあれ、暴風(あらし)吹き、
海の怒の猛(たけ)き日に、
殼も碎(くだ)けと、牡蠣の身の
請(と)ひ禱(の)まぬやは、おもひわびつつ。
[やぶちゃん注:有明はこの一篇のみでも永劫に記憶される詩人であろう。
しかし、有明は自選の「有明詩抄」でやらずもがなの改作をしてしまった。今回は、その両方を示す。
まずは、何も考えずに声に出して朗読してみる。何も考えずに、である。その音の響きを味わう。
「有明詩抄」バージョンは、一切の淀みや立ち止まりが、ない。洗練されたシンフォニーである、いや、でしか、ない。
対する「草わかば」の真正の牡蠣は、己が蠔山(僕の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「牡蠣」を参照)の如、己の殻を砕かんとする怒濤の如、声調は詰屈にして聱牙、内と外、波とあらゆる自然に律動を伝えて、ポリフォニックである。
そこには、ほと走らんとする若き血の生々しい匂いが、する。それは流浪する悲劇の若き騎士のサーガの響きだ。
しかし対する「有明詩抄」バージョンは、僕には、既に館を構え、王となってしまった老いさらばえた彼の、最早帰らぬ若き日への痛ましい自己幻想のようにさえ感じられるのである。
詩人は永遠に若い。魂の若い時にのみ真に詩人であることが出来る(俳人はその逆である)。ミューズは、老いた魔羅を愛さない――]

