旅をしたあと 尾形亀之助
おれは旅に出て幾回となくホームシツクにおそはれた
帰つたところで面白くない思ひをするばかりなのにひしひしとねばり強く俺の心をついた
家までに二晩もかゝるところに来て居ておれのその気もちには間に合はないたまらないもどかしさを感じた
実際何の得るところもなくすつかり予想をうらぎられて帰つて来た
旅に出なかつたのと何のかはりもなくおれは自分の部屋に腰をかけてゐるのだ
暑い夕陽のさし込むところに額いつぱい汗をかいてカアテンも引かずにゐるのだ
いつものように妻をしかりつけて最もいやな思ひをして一人ぼつちでわいわいでたらめになきさはぐ蝉にあきあきしてゐる
外も部屋も部鼻のものも自分も全く平凡にすつかり透きとほつて一つものになつてしまつてゐるのだ
妻がひつそりとかげの部屋にひつこんでゐてやはり同じようにいやな思ひをしてねばねばしたあぶら汗を流してゐるかと思ふともうやりきれないほどいやだ
そしておれは動けなくなり口もきけなくなつてゐる
蝉が自由におれの顔にたかつてなめてゐる
うるさい蝉だ
正面からよく見ると馬の顔のようなかつこうをしてゐる
羽のあるのをよいことにしてうまく飛び廻つてゐる
だが
おれの顔をなめてゐることを思ふと何処かになつかしみもある
上京したくなつた
(一九二二、八、一二)
*
(玄土第三巻第九号 大正11(1922)年9月発行)
[やぶちゃん注:秋元潔氏は「評伝 尾形亀之助」の中で、この詩の一部を引用し、亀之助が、この年の春には「若いふたりもの」「春のある日」「死」で見せた愛妻ぶり(「尾形亀之助拾遺詩集」参照)と打って変わって『気むづかしいさうに妻のことを書いている』と記し、同時期に『玄土』に妻タケがたった一度だけ投稿した詩を掲げている。一方的な亀之助サイドからばかりでは、不公平である。大鹿長子(再婚後のタケの本名)女史の著作権は消滅していないと思われるが、対等な視点から、その詩を引用する。
曇朝 尾形長子
寢まきのまま
窓に腰を掛けて
ぼんやり
眼をあいてゐた
その時
私のくちびるに
何かつめたいものが
觸れた
いつの間にか
むしり取つた
朝顏が
ふるへてゐる
私は
目茶苦茶に
もみつぶして
ほうり出した
ちなみにこの急激な亀之助のタケに対する変節について、秋元氏は、この時期、生まれて始めて自立的な自由な未来派の画家としての活動を始めた亀之助であったが、彼の美術界への導師であった未来派の画家木下秀一郎氏は妻タケの叔父であり、亀之助が寄ったところの未来派美術協会会長となった高山開治郎は、亀之助の祖父安平の甥で、兜町で株や商品相場の仲買いをやっていた極めて生臭い人物であった。『姪の連れ合いだから引き立てててやろうという木下氏の態度、亀之助を利用して尾形家から金を引き出そうとする高山開治郎――駆け引き好きな、この二人の身内の人物は、亀之助の心のわだかまりとな』り、『亀之助のプライドにさわったろう。その吐け口が妻タケへの八つ当たりである。』として、先のタケの詩を引用後、『亀之助は人一倍、優越欲求や認知欲求が強かったのに、幼児期から少年期にかけてそれは一度も満たされなかった。ようやく、絵を描きはじめたとき、それは妻のお蔭であり、木下氏の引き立てによるという、劣等感からくる』悪感情のはけ口が妻へと向かい、その行き違いの中で、相互不信を引き起こす何か決定的な出来事が生じ、ひいてはそれが6年後の離婚という破局へと繋がっていると推論されている。秋元氏当該書の「第4章 結婚、美術活動」は裏面史も含めた大正期前衛美術史の美事な一幅となっているのであるが、そこで当時の美術運動の政治的駆け引きの中で、尾形亀之助は自分がいいように使われたことに気づき、それが絵筆を折る原因となったとする分析に、以前から亀之助の美術からの離反に不審を抱いていた私は、大いに賛同するものである。末尾の「(一九二二、八、一二)」は底本ではポイント落ちで、最終行行末にインデント。]
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