身体軋轢または「評伝 尾形亀之助」の不審
先週一週間、秋元潔氏の「評伝 尾形亀之助」(冬樹社1979年刊)を再読していた。
すると、拾遺詩をテクスト化した僕には如何にも不審な箇所が見つかるのである。
詩集「色ガラスの街」刊行以前、亀之助が雑誌等に発表した詩篇を、秋元氏は数え上げており、その中の大半を占める「玄土」に発表されたものについて、「玄土」の所載号数及び詩題をすべて掲げている。ところが、その掲げた題名には思潮社増補改訂版尾形亀之助全集に所収しないものが11篇も含まれている。
「無題詩」(「玄土」大正11(1922)年5月)
「散歩」(「玄土」大正11(1922)年6月)
「ある詩」(「玄土」大正11(1922)年8月)
「無題」(「玄土」大正11(1922)年9月)
「無題」(「玄土」大正11(1922)年9月)
*上記「無題」とは異なることが明記されている。
「夏の夜」(「玄土」大正11(1922)年10月)
「老婆」(「玄土」大正11(1922)年11月)
「妻」(「玄土」大正11(1922)年11月)
「影」(「玄土」大正11(1922)年11月)
一見、「色ガラスの街」に所収しているかのように見える「散歩」「無題」(実際には「色ガラスの街」には「題のない詩」「無題詩」はあっても「無題」はない)ものも、秋元氏ははっきりと、別な詩であると断言している。しかし、これらについて、秋元氏は思潮社版全集では一言も言及していない。また、同書には詩集に再録した五篇(「無題」「昼」「さびしい路」「颶風の日」「曇天」)は、『きびしい自己裁断のもと、見事な推敲がなされている(付録参照)。』とあるが、この「付録」とは何か。「評伝 尾形亀之助」には付録はない。思潮社版旧全集には「付録」があって、そこに「玄土」初出形が示されていたということか? 分からない――ギシ
それらしい記述は全集の「尾形亀之助年譜考」の「三、初恋、習作時代」の「玄土」の註なのであるが、そこで氏は、「玄土」は現在、創刊号と第一巻第四号の『この二冊しか発見されて居らず、終刊・号数とも不明である。亀之助がこれに詩を発表していた可能性もなくはない。』と記している。これはまた、如何にも不可解である。何故なら、全集には「玄土」所収の拾遺詩が実際に11篇掲げられているからである。但し、これらは全て「玄土」第三巻第四号~第十二号で、大正11(1922)年4月から12月のものである。従って『この二冊しか発見されて居』ないというのは、何か言葉足らずなのではあるまいかと思わせる。前回の全集編集時の不完全さと、その後の第一級資料の決定的散逸といった最悪の事態が襲ったのであろうか? 分からない――ギシギシ
先に掲げた「30篇」と全集の拾遺詩の決定的な齟齬は何なのか。ここで標題だけの詩群について、秋元氏には全集でせめて一言欲しかった。何らかの誤解であってこれらの詩群は存在しないということが分かったということなのか? 分からない――ギシギシギシ
全集の書簡12通の少なさも気になる。書簡が置かれている位置も、(資料)のほとんどどんずまりにあり、失礼ながら書簡収集がなされたのだろうかと疑われる。いや、相応な収集が行われたけれど、亀之助のこと、名誉毀損にでもなりそうな実名ボコボコ言いたい放題で、とっても書簡に載せられないのかしらん、と邪推したくなるのである。分からない――ギシギシギシギシ
秋元潔氏は、しかし、既に昨年、他界されていた。――
本評論は、尾形亀之助を中心に大正期の芸術思潮をある種「政治的に」俯瞰するに、美事な論である。そこで僕らは、どこかで超然として不定形な稀代のトリック・スターとしての尾形亀之助ではなく、いいように使われ踏みつけられながら自律的にムクムクと起き直ってきた誠実な芸術家尾形亀之助を見るであろう――
*
といった記述を金曜日にはし、「評伝 尾形亀之助」から得られた新知見(全集にない)をテクストかしようと思っていたのだが、金曜午後より寒気と咳と全身の関節の痛みが襲い始め、昨日と本日午前中一杯、床に伏せるはめと相成ってしまった。生徒小論文を添削しなくてはならず、午後になってパソコンを立ち上げたが、どうにも体調は上手くない。一週間もブログを書かなかったことは、右腕の手術の時にもなかったことで、何としても書かねばなるまいという使命感で、ここまで書いたが……
……身体軋轢、身体がギシギシいうという言葉が、実に言いえて妙、である。