ブログ150000アクセス記念 ジョン・M・シング著松村みね子訳 聖者の泉(三幕)
ブログ150000アクセス記念として、ジョン・M・シング著松村みね子訳「聖者の泉」(三幕)を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
僕は大方の評者が本作をどう捉えているかに興味はない。ただ僕はこのマーチンとメアリーの二人が好きである。それも舞台の前後の盲目の時の二人が、である。
眼の見えない彼らは見えないが故に、世界に触れているのだ。
開眼して汚れた現実の実体を見た彼らは急速に現実的な人間として魅力のない存在へと墜ちるが、それは同時に彼らを包む世界そのものの下落――即ち現実世界が如何に無常にして下劣なエゴイズムに満ち満ちているか――を洩らさず描き出している。盲いた二人の外界を表現する言葉の如何に詩的で美しいことか。いや、「詩的」なのではなく、これこそが神である自然を謙虚に紡いだ「詩」そのものなのである。
彼らの光明という「開明」は、実は逆に五体満足な人間の持つおぞましくも陳腐な精神の「晦冥」であったのだ。ウィトゲンシュタインが言ったように神は詩によって名指すことは出来ても、現前に示すことは出来ない。さすればこの「聖者」は名指してこそ見えない聖なるものであ得、示された現前の老いぼれの「聖者」はただの老いぼれ野狐禅ならぬ野狐呪医に過ぎぬのではなかろうか?
ご批判は、無用。僕はマーチンとメアリーと一緒に沼を越えてゆく。君たちは残ればよい。そこに――ウラジミールとエストラゴンのようにやってこない聖者とゴドーを永遠に待っていればよい――
ちなみに、本文冒頭の注に記載した芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」への影響等については琉球大学教育学部の小澤保博氏による2008年3月刊の琉球大学教育学部実践総合センター紀要第15号所収の「教材研究(芥川龍之介)」及び2008年8月刊の琉球大学紀要73集の「芥川龍之介研究ノート」に詳しい。そこでは、大正4(1915)年2月発表の坪内逍遙の、この「聖者の泉」の翻案小説である「霊験」と、そこで取り上げられた信仰の問題を更に深化させた翌5(1916)年9月発表の同じ逍遙の戯曲「役の行者」の二篇が、大正8(1919)年1月発表の芥川龍之介の「犬と笛」に結実する様が詳細に語られている。
芥川龍之介―鼻―芋粥―聖者の泉―片山廣子
今はただ、この運命の赤い糸、宿命的連関にこそ、僕は心打たれると言っておきたい――