人生興奮(その二) 尾形亀之助
彼の話。
彼は私のやうな男である。よく同時に同じことを言ひ出したりして、気味のわるい思ひをするので、私は彼と毎週同じ映画を見てゐることを彼にかくしてゐる。例へば、彼が私に「ブラツド・シツプ」を見たかを聞くやうな場合に、私はきまつて未だ見ないと言ふことにしてゐる。なぜなら、二人共必ず毎週見に行くので時には実につまらない映画を見てしまふ。そんなときに、彼から「××××」見たかと言はれて見たと答へれば、如何につまらない映画を彼が見に行つたかを私が知つてゐることになつて、彼に気の毒な思ひをさせなければならない。又、私が見たと言つてしまへば、彼はにやつと笑つただけで何も話さないにきまつてゐる。彼は又、こんな迷信をもつてゐる。彼の経験によれば、人を誘つて見に行くときまつて映画がわるいのださうである。そして誘つた人に気の毒な思ひをするだけで頭がいつぱいになつてしまふのだと彼が言つてゐる。で、私は一度も彼と一緒に行つたことがない。彼がどんな顔をしてラブシーンなどを見てゐるか知らない。彼の話は「赤ちやん母さん」から始まる。
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先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた。アメリカはあまり好きではないが、クララ・ボーは好きだ。若し彼女がアメリカ風であるのなら、他の人達から受ける嫌味はほんとのアメリカ風ではないのだ、と思つた。
彼女が毒を飲んで(「赤ちやん母さん」で)死ぬといふやうな筋でなく、テツトといふ良人に簡単に別れて、そして彼女も楽しく彼等も泣き笑ひをしてゐるやうに楽しく、そしてENDになる方が向きであつたらう。私はクララ・ボーのために、「赤ちやん母さん」の筋を自分の好き通りに直しながら、何時ものやうにS駅の上で酒を飲んで、その晩は郊外の家へ帰る電車をなくしてしまつた。
クララ・ボーはただのハネツカヘリではない。ただのと言つては可笑しい。ハネツカヘリならハネツカヘリでいいが、コーリン・ムアーの演技よりもしつかりしてゐる。より性格的である。彼女の芸風がほんとの意味のモダンである。このモダンは、アメリカ以外の国ではあり得ない。そして、そのアメリカでも今のところクララ・ボー一人である。私は、レイモンド・グリヒスとクララ・ボー共演の映画を見たい。二人でふざけるだけふざけて、息のはづんでゐるやうな映画が見たい。
ムサシノ館の喫煙室にクララ・ボー(素顔?)のポスターがある。あのポスターを見て、スクリンの彼女を見ると、如何に苦心してゐるかがわかる。
(このポスターに誰かがチヨコレートで髭を描いてしまつた。)
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女知事閣下――アデール・フエンウエー夫人――ポーリン・フレデリツク。もと私はポーリン・フレデリックが好きであつた。女知事閣下位ひのことは一二年前の日本の人にも出来さうだ。ポーリン・フレデリツクの映画は当分見まい。
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「除夜の悲劇」先づ難のない映画、と言ふべきか、又はよい映画だと言ふべきか。たつた三人での芝居であり、三人の中のオイゲン・クレツパー一人の芝居であつた。あの酒場以外に、上流社交界の除夜の有様が不用であつたと同じやうに母一人での演技が不用であらう。要はその間眠つて(?)ゐたので幸ひにも私の悪口を逃れてゐる。
そして、字幕のかはりに波がよい効果を出してゐた。波のうねりがよかつた。やはり字幕がはりであらう「街」の有様は波ほどの効果がなかつた。それはその夜の上流社交界の態を入れたことが、「街」の気分をこわしてゐたかも知れない。
エミール・ヤニングスを大変わるくいふやうではあるが、エミール・ヤニソグスはオイゲン・クレツパーの比ではない。退屈もさせず、ぶちこはしもしなかつた酒場の人達のまねは日本では出来まい。くどいやうではあるが、母の役の女優がいいために、あんなことをさせなけれはならないのなら、臨時雇の婆さんを使つてほしい。妻の役のエデイツト・ボスカのことを何も書かなかつたが、書き忘れをしたのではない。
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「電話姫」
主役といふものの使ひ方がよかつた。筋はつまらないものであつた。マツヂ・ベラミーの演技はくせがなくつてよかつたが、トム・ブレークのローレンス・グレーがじやまであつた。ジム・ブレークに息子がなくとも立派に筋が立つだらうと思つた。ラブシーンのない映画になりさうな映画であつた。
主役の使ひ方が「人生興奮(一)」のそれに大変近い。で、この映画に深く興味をもつた。
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「マンダレーへの道」
ロン・チアニー。この人の演るものは何時も、ストーリーがわるいやうな気がする。この人一人だけの芸風は他にないものがあるのに、不思議によい映画をもつてゐない。
ロイズ・モーラン。子役がそのまま大人になつたのを、年頃の娘として使つてゐる。この女優にはまだ(?)十五六の娘のいい役がある筈だ。それに、ここでは親の悪の対象としてせと人形のやうな娘になつてゐた。
オーエン・ムーア。酔つばらひの名人の一人である。が、真面目になつたりするとあまりよくない。
上山草人。この人に、この人の好きなシナリオですきなやうにやらしたい。如何に奇妙な支那人のまねが出来るかといふだけではつまらない。ロン・チアニーの相手役には不向きである。ロン・チアニー式のものすごいものにではなく、もつとぼんやりしたものに彼の悪役をひそめたものの中に草人を見たい。同時にもつと気を大きくもつてもらつて、あまり芸が細くなつてもらひたくない。髭もいいし、手の使ひ方なども面白い。
日本にも彼位ひの演技をする人が一人や二人はゐると思ふ。
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ひとりごと。(其の一)
館の中の飲物がうまくなさすぎる。
館の外で十せんのものは十五せんにしてものどが渇いてもがまんしてゐなくともいいやうにならないものかしら。チヨコレート(?)なども、クララ・ボー愛用のものといつた調子でやることは出来ないことであるだらうか。な――。
がまんが出来なくなるとチユーインガムを嚙むことにしてゐるけれど、あれを何時までも嚙んでゐると胃が変になつてくるし、人前であの桃色の紙をむくのが如何にも恥かしい。暗いところで、人知れずそつと紙をむいて口に入れる苦心に同情してはしい。もうけやうとばかりしてゐるやうに見える売店のおばさんは何時まで存在してゐるのだらう。なんとか沢山の賛成者を得て、是非彼等の頑強な根を掘りおこしたい。
ひとりごと。(其二)
プログラムの内容のわりに入場料が少し高いやうな気がする。勿論これは特等の料金である。つまらなくなつて半分見て出るやうな場合は殊にその感が深い。
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ガウチヨウ。
この映画は、気がつかなかつたけれども米国聖書会社(?)の宣伝映画なのかも知れない。ダグラスは次にダビデになつてゴリアテをまかす映画を作るかも知れない。日曜学校推称、聖書オトギバナシである。
ガウチヨウでダグラスは遺憾なく煙草ののみぷりを私達に見せて下れた。殊に獄屋の敷石の下から煙草をくはいて出て来るところなどは如何に彼が大胆であるかを示してゐる。
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拳闘屋キートン。
こんなことを言ふのはあまり真面目過ぎてゐるかも知れないが、今のところ彼の映画に何も言ひたくないと言ひたい。
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注意。(其一)
この頃市場につまらない映画が大変多い。で、十人或ひは二十人づつ組んでその中の一人だけが探険的に映画を見に行つて、その報告を聞いてからよかつたら残りの人達が見にゆくやうにしてはどうだらうか。さうすれば悪宣伝にかからずにすむのだし、これを大勢のフアンで実行すれば青くなる人がゐるのだから今までのうらみを晴らすには最も面白い方法である。券売場の前などにて随時に組をつくつて実行するのも面白い。
注意。(其二)
真面目な映画フアンが集まつて、映画フアンとしてだけの(内容が)雑誌を出したいと思ふ。(東京府下世田ケ谷山崎一四一四私宛)にお手紙がいただきたい。色々ご相談したい。
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クララ・ボーとそのブロマイド。
凡そ彼女ほど顔が変る女はちよつとない。で、私の持つてゐる密蔵の三枚のブロマイドは、皆何処かに(?)彼女らしいところを匂はせてゐるだけで別人のやうに写つてゐる。―― 大体曖昧な言ひまはしになつてしまつたが、私は彼女のブロマイドに一枚もよいのがないので悲観してゐる。
ブロマイド屋さん。もつと注意して下さい。
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悲恋の楽聖。
悲恋の楽聖。――とはずいぶん思ひ切つた題である。が、The Music Master を「その Master Master」と私訳するとは何んとも言へない味がある。よい映画であつたと記覚してゐる。
アレツク・ピー・フランシスがよかつた。ロイズ・モーランも少しよかつた。ただ、下宿屋にラツパを吹く若い男がゐて下宿屋の娘に恋をするのはよいが、あまりタチマハリが大袈裟であつた。つまるところは、若者のかついでゐたラツパが大きすぎたのである。
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べテイ・プロンスン。
ちよつと可愛いゝなと思ふけれども、映画女優としてのそ質がまるでない。彼女をピーターパン以後ひきつづいて映画の女優にしてしまつたのは誰れだ。不愉快な世相の一つである。
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鯨。
私はあまり感心しなかつた。目茶苦茶なテンポが気に入らなかつた。もつともの静かなものでありたかつた。同時にもつとオトギバナシ的でありたかつた。又どうしても鯨といふ題が付いてゐるのか、わからなかつた。船がひつくりかへるまでが見てゐて頭が痛くなるほど長かつた。男達ばかりが漫画的で女はさうではなつた。題材が可笑しがらせるものではないだけにむづかしいものである。私は「カリブの鶴」のよかつたことを思ひ出す。かうしたものはすべての点に技巧が誠に大切である。
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(映画往来第四巻第三十八号昭和3(1928)年2月発行)
[やぶちゃん注:『ひとりごと。(其の一)』」の次の行『館の中の飲物がうまくなさすぎる。』は表記通り、一字下げとなっていない。さて、「人生興奮(一)」に引き続き、やはり私は彼がここで挙げている無声映画の一本だに見ていない。俳優もクララ・ボーはさすがに知らないでかではあるものの、後は二大怪優たるロン・チャイニーと、上山草人(「七人の侍」の盲目の琵琶法師――あれが彼の最後の演技である)しかピンと来ない。再三言うようだが、私は映画館で(ここが肝心)見ていない映画を云々することが大嫌い、従って、やはりここでも注はせず、底本の秋元氏のマニアックな作品及び俳優についての編注を是非お読みあれ。――私は見たことのない尾形の俳優談義より何より、今度はこの冒頭の「彼の話」に昔の自分を思い出して激しく共感、そうして今はなき武蔵野館の臭いを思い出すのだ――]
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尾形亀之助作品集『短編集』最後の注のために急遽テクスト化した。拙速に過ぎ、誤字脱字があるやも知れぬ。その時はお教え頂きたい。