「検温器と花」私評 尾形亀之助
私は北川君のこの詩集を気ままに批評をしたい。それに私としても、しなければならない立ち場にゐるやうな気がするのです。私はうまい、うがつた批評とは離れて、むしろうまいうがつた批評にその不足な部分を反省してもらはふとするのです。(又は、私のこれをうまいうがつた批評の一つに数へてもらつてもいゝのです)
この詩集「検温器と花」を大変いゝ又は大変わるいと言ふべきではないと私は思ふ。なぜならば、この詩集は批評されるために出版されたものではなかりさうに私には考へられるからです。初めからこんな自分かつてのことを言つて、この幾分かを諒としてもらつて「批評したつていゝではないか」といふ仲間にも時々少しばかり入るのです。そして、作品一つゞつに私は自分の態度を自分の許すだけ変へてみたいのです。
批評家はこの種の詩集が十も廿も出版されるのを待つてから……といふ気がするだらう。そして、批評家はこんな意味で手かげんしなければならない不幸を感ずるであらうと思ふ。
短詩型の作品が大変多くなつて来ても、私はこれを流行などと言はない方がいゝと思つてゐる。私は流行でもなんでもないと思つてゐるのです。時代的欲求として流行性をもつてゐるとしても、てんでにすましてゐればいいのではないかしら。
この間私は、尾の太いパラソルをそれに実に似やはしくない女がもつてゐるのを見て苦笑したのです。これはあきらかに流行が彼女を恥かしめてゐるのです。私は、ハイカラなパラソルを短詩型に彼女を詩人に例へたくはありません。
「表現の単化的欲求として必然的に詩型を短化する」時代的な傾向はあるとしても、多少でも「対象を消化して、次第にその主宰する独自の世界へつれてゆく」べきものであれば、長くなつても短かくなつても恨みはないわけと思つてゐるのです。
私は、おしやべりさへしなければ詩はさう長くなるものではないと考へることが出来ます。そしてどんなすはらしい形容語でも、詩そのものが受けつけない場合が多いといふやうな考へ方、或るひはその何んとかゞ詩を大変短かくしてしまふだらうと思ふのです。こんなのが「表現の単化的欲求としてかなり自然に詩型が短化された」ことになるのでせう。完全に詩が、必然的に短化されたときもほとんどこれに同じだと云つてもよいと思ふのです。必然といふやうな意気はあつてもそれが特別にどうなるものとも考へられない。勿論このことは色々議論になる問題であらうし、自分としてももう少しはつきりした言葉を使ふことが出来るが、こゝではそれを必要としない。友人が遊びに来て「検温器と花」を見て「こんな立派な装幀の詩集を出すのは横暴だ。短詩型の殿堂を建てようとする努力はわかるが今はそんな時でない」と言つたのです。私はこの言葉を北川君の耳に入れて置いてもよいと思ふのです。又、後記にも色々非難の声を聞くけれども、私はことさらにいやみに解釈しなくもよいのではないかと思ひます。
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「昼の月」で北川君は巧みに昼の月を書いてゐる。この種の作品は読んだ後で見なければなるまいと思ふ。この見るといふことは、終始批評的な眼で読まないことです。
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「秋は豊かなる哉」赤や青や黄の横木細工で門や家をつくつたときの感じを受けた。よい文章であつた。少年と老婆のあやしげなしなが表面に浮び出すぎてゐて、それを見ないふりをするのにすくなからず骨が折れた。私は一つの型として読んだのですから、作者の「秋は豊かなる哉」として十分感銘出来なかつたやうな気がします。
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「豚」もしも、これは何が書かれてあるかと聞かれたとき「これは北川君の詩だ」と言はふ。これが一番間違ひない。をかしいやうですが、この場合当然なことゝして私は更に恥ぢません。実にうらやましい文章でした。
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「なめらかな球の変色」いゝ主題だ。詩の方はたゞ眼を通すやうにして読みました。こんな見方も作者に失礼だといふことにならなけれはよいと思ふのです。
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「椿」
女子八百米リレー。彼女は第三コーナーでほつくり倒れた。
落花。
或る場合一つの詩の中に読者にも相談するやうな意をふくんでゐることも面白いと思ひます。私は「椿」をそれにあてはめることが出来る。つまらない詩ではあるが、結局いゝ詩であることを拒むことは出来ないと思ふのです。
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「体温表」かうした温みは好きです。簡単に或ひは複雑な意味で作意をどうかう言ふことはいけないと思ふ。作者に対しての礼として好きなら好き嫌ひなら嫌ひ、わからなければわからないと言ふべきだと思ひます。私はこのやうな温みはめつたに見ることが出来ないと思つてゐます。(このやうな詩はある人々にはかなり危険な型であることは云ふまでもないでせう)
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「落日」落日のもの足りないやうな静寂。ちよつとの間すべての喧騒は消えてしまつてゐる。先の「体温表」のどこかに華かさがあり、これには部屋のすみのやうなうす暗い不安がある。夕暮の川である。好きな詩でした。
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「平原」三篇の中で最初のが凡ての点すなほであるのが好きでした。このすなほといふ言葉もぶつ議をかもす性質をもつてゐるでせうけれども、出来るだけ了解し易い詩を好んでゐる私の願ひなのです。
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「花の中の花」「爛れた月」兎に角、批評の言葉を入れるすきがないのです。その意味で面白みのすくない詩でせう。きまりすぎてゐるといふことも出来ると思ひます。然し、私達はこのやうな「面白くない詩」に注意しなければならぬと思ひます。「花の中の花」――港。彼は船のデッキにゐる。彼の女はそれを見送くる。船が動き出す。遠く離れてゆく。ああ――離別。(こんな面白味のないことを北川君は巧みに詩にしてゐる)
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「春」は二篇ともごくせばめられた春、例へば作者が冬以来胸に何ごとかを蔵して来ての春であらうと思ふ。それだけ強くはあるが何か表現の不足も感ぜられる。作者がこれがいゝんだと言へばそれまでのことで、私がよけいなことを言つたことになるのです。
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「桜」は好きでした。
「赤いレンガ窓」も好きでした。
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「楽園」(2)は好きでなく「楽園」(3)が好きでした。が、さう思つた後に私は前者と後者に大変な異ひを知つた。それは後者には匂ひがあるが前者にはそれがない。前者から匂ひをかげばこの作品に対する観照をあやまるものではあるまいか。
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「爪」はしつかりしてゐる。そして「青ざめたW・C」は清いし、美しい。「検温器」全般にわたつてもさうであるが、殊にこの二つの詩のやうな作品から深みや暗示を受けようとすることはやめたいと思ふ。読む態度からさうしたものを取り去りたいものと思ふのです。
(1)と(2)と(3)の一部とでこんなに長くなりました。あと(4)と(5)が残つてゐます。私は平面を愛してゐる。そして立体といふことをあまり考へてゐないのです。「深刻な立体」の反対の意味で「薄い立体」といふ言葉があれは私はそれを愛してゐるのです。
後、「秋」「海」「煤けた街」「楽器」(4)の二つ目の「朝」「女と雲」「ラッシュ・アワア」「硝子の破片」「庭」「呆けた港」の好篇を読むことが出来ました。
書き終つてぼんやりしました。「検温器と花」は
色々問題にされる詩集 と思ひますが、問題とし
て、取扱はれないでそのまゝにして置かれるので
はないかと思はれます。私もその方がほんたうだ
とも思ひます。気ままに 書いたのでしたが書き
にくかつたやうな気がします。読者の寛大な処置
を願ひます。
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(太平洋詩人 第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)
[やぶちゃん注:「検温器と花」は、大正15(1926)年ミスマル社刊の北川冬彦の第二詩集。北川の詩人としての評価を高めた詩集である。]