硝子戸に虻がとまつてゐた 尾形亀之助
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春のま昼に軟らかい風が吹いて、街では旗をたてゝ楽隊が通つてゐた。
春になつてりぼんをかけずに歩いてゐるやうな者は一人もゐなかつた。
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楽隊はさかんにラッパを吹きならした。
笑ひ薬をのまされた娘は足のうらがかゆくなつた。そして楽隊が心ぼそいほど低く聞えたり。踊つてゐてふらふら眠りかけたりした。
娘は惰いほど花の匂ひや蜜のやうな甘さにとざされた。しつとりねばみをふくんだ空気は沼のやうにそこによどんだ。娘の鼻のさきや耳たぶにもいろいろと花が咲き初めた。
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夢のやうに春の日がながい。
昔の恋人は笑つて帰つて来た。そして、娘のやうに走りまはつた。
虹も出てゐたし、見たこともないやうなお菓子もあつた。
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ゆらゆら煙草の煙が指に纏はりついてのぼつてゐた。
娘らは街を歩くのをうれしがつた。
雲雀は何か美しい衣裳をつけて空高く飛んだ。
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花火は絶えまなくあげられて、まるい空が花簪をさしたやうになつた。
いろいろに仕組まれた花火の中には長い尾をひらひらなびかせてそのまゝ天へ昇つてしまふのもあつた。
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硝子にとまつてゐる虻はときどき羽ばたいた。硝子戸から庭が透いて見えてゐる。
虻は僕の顔を見ない。縁側の下だけが土が白く乾いてゐる。
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(文芸レビュー第一巻第三号 昭和4(1929)年5月発行)
[やぶちゃん注:第二連三段落目の「惰いほど」は「惰(けうと)いほど」又は「惰(だる)いほど」と訓じているか。「ねばみ」は「粘味」である。]