月と手紙――花嫁へ―― 尾形亀之助
A
私はあなたと月の中に住みたいと思つてゐる。でも、雲の多い日は夕方のうちに街に降りて噴水の沢山ある公園を散歩しよう。
夕飯は何処かのホテルで、肉のものを少しと野菜と丸パン一ツと少し濃いコーヒーとネーブルを、薔薇を飾つた食卓で静かに食べよう。スープはほんの一口すゝつただけにしてフライには手をつけまい。
夜の散歩は露が降るから十分位にして、あなたさへ眠くなければ……少し眠ければ私に寄りかゝつて私の作つたお伽噺をしよう。
そして、ぬるい風呂にかはるがはる入つて私達はちよつと風邪きみのやうな気持になつてゐよう。暗くなつた窓の外を黒い壁と思ひながら、三四日このまゝホテルにゐようといふ話をしたり、こんなときは白い猫が一匹ゐるといゝと話しあつたり、淋しくなつて一緒に列らんで腰をかけたりしよう。
私がテーブルにもたれて首を少しまげて、煙草を右手に持つてゐると……あなたは疲れたやうに恰好を崩して私の煙草の煙がサンデリヤまで昇つては消えてしまふのを見てゐる。――そんな風にして二分間も話がきれてゐる。と、どっちかが「さ、寝よう」と言へば、返事をするかはりに元気よく直ぐ立ちあがつて床に就く仕度にとりかゝるにちがひない。でも、二人ともそんなことを言ふ言葉を惜んでゐる。で、もしもこのときにドアーの鍵の穴から私達の部屋を覗いて見る人があつたなら、私達が今日一日何も話をせずにゐたのではないかと思ふだらう。そして、私が煙草を灰皿に入れてお前のそばへ行く前に、鍵の穴から眼を離して足音を忍んで、私達の部屋の前から行つて仕舞へば、その人は何で私達が喧嘩をしたのかと色々想像してみたりするだらう。そしてその人が色々考へたあげく、も一度覗きに来るかも知れない。私達は夜になつたら鍵穴は香水をうんとふりかけたハンカチか何かでふさぐことにしよう。
B
何故あなたがゆうべ泣いたのか私は知つてゐる。でも、私は何も知らないふりをしてあなたが悲しさうに泣くのを宥めてゐた。もしあなたがあのとき急に顔をあげて私の顔を見たなら、あつ! といふ間に私はにこにこしながらうれしさうにあなたの肩をなでてゐたのを見つけられたでせう。
私はあなたが泣くのを初めて見たのです。
夕飯を食べ過ぎてゐたので、そんなことから妙に悲しくなつてゐるところへ「あなたはいくつだつたかしら」と言つたりしたのがわるかつたのです。それにしても、私がさう言つてから三十分もしてから急に泣き出したので、私はどうしたのかと思つたのでした。
そして、どうかしたのですかと聞くと頭をふる。何処か痛むのですかと聞くと頭をふる。悲しいことがあつたらお話なさいと言ふと頭をふる。ソフアーに腰かけてゐる私の胸のところに顔をあてゝゐるので、あなたが頭をふる度に私もゆれるのでした。だから、私は散歩へ出たいのですか……何か食べたいのですか……ブドウ酒を飲んでみませんか……明日活動へ行きませんか……眠いのですか……、……、……、……、と言つて幾度もあなたに頭をふらした。
あなたを泣かして喜こんでゐるといふと、大変わるいのだけれども、私はあなたを軽く抱へて陶酔してしまつたのです。時間の過つのさへ忘れてゐると、あなたは「私がわるかつたの……」と言つて、ぬれてゐる顔を私の顔へすりつけた。
あなたの泣き方が好き(?)でたまらなかつた。あなたが笑ふのが好きで、つまらないことを言つてはあなたを笑はせてゐたけれども、あなたの泣き方があんなにいゝとは気がつかないでゐたのです。泣くといふことが悲しいことでないなら(言ひ廻しがをかしいけれどもしかたがない)ときどきあなたの泣くのを見たい。
昨日は火曜日であつたから、私達は毎週火曜日の夕飯を食べ過ぎることにしませんか。
今日の月は丸い。雲が一つもない。
C
私は手紙の中へ月を入れてあなたへ贈つたのに、手紙の中に月がなかつたとあなたから知らせがあつた。
あの晩、私が床に就いてどの位過ぎたのか、眼がさめてみるとガラス窓に月の光りがさしてゐたのです。
あんなに曇つてゐたのに何時の間にか晴れて。
D
あまり遅く窓をあけてゐたので、私は風邪をひいてしまつた。尖つた三日月の端が胸に刺つたのです。先月だつたかその前の月だつたか、あなたと夕方散歩へ出てそのまゝRの海岸へ行つた晩も三日月が出てゐましたね。私は今胸の中にゐる風邪を着物の上からそつとおさへてゐます。
あなたが、この前私から月を贈られたお礼だと言つて、今度は私から月を封じこんで贈ります。と、いふ手紙の中には月がどこにも入つてゐなかつた。もうだめだから月を手紙の中へ入れるのはよしませう。
蛙が啼いてゐる。月は屋根の上へ行つてしまつた。風邪をひくといけないから早く窓をおしめなさい。アスピリンを一個封します。
E
望遠鏡を一つ買ふことにしました。
明日天気だつたら一緒に買ひに行つてみませんか。
F
梟が鳴いてゐる。
兵隊がラツパを吹いてゐる。
あなたと別れて来て、まだ三十分しかたたない。
(電報)
カゞミニツキヲウツセ
G
いくら待つてゐても月が出ない…と、いふあなたの手紙を見ていそいでこの手紙を書いてゐます。
*
(文芸第六巻第三号 昭和3(1928)年3月発行)
[やぶちゃん注:Bパートの「時間の過つ」は「過(た)つ」と読ませるのであろう。Fパートの「カゞミ」はママ(カタカナの繰り返し記号なら「ヾ」である)。]
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本日までに、復元版『短編集』の校正を終え、過去にブログで公開した部分についても訂正を加えた。万一、僕のブログのカテゴリ「尾形亀之助」や単品での最近の尾形亀之助作品を保存している方は、全て再保存されることを強くお勧めする。 「朝馬鹿」等は、三種類のテクストに置き換え、分量が三倍に増えている。