蕗 芥川龍之介
坂になった路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊も少くない。兩側には古いこけら葺の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人の中學生は、その路をせかせか上つて行つた。すると赤ん坊を背負つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、靜に坂を下つて來た。少女は袖のまくれた手に、莖の長い蕗をかざしてゐる。何の爲めかと思つたら、それは眞夏の日光が、すやすや寢入つた赤ん坊の顏へ、當らぬ爲の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり靜に通りすぎた。かすかに頰が日に燒けた、大樣の顏だちの少女である。その顏が未にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)
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芥川龍之介「點心」より。「點心」は大正11(1932)年2月及び3月発行の『新潮』に掲載されたが、その後半の掉尾を飾るのが本篇である。底本は岩波版旧全集を用いた。
これは、芥川龍之介の、美しい、彼の「忘れ得ぬ人々」である。最後の如何にも芥川龍之介らしい「里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。」という売文的虚飾に富んだ作文を除けば――