《垂翅PC余命連禱》詩集「半分開いた窓」私評 尾形亀之助
この詩集の表紙の装幀が素敵によかつた。渡辺君はこの詩集を小野君からキタナラシクつくつて呉れとたのまれたと私に話して聞かした。そして、出来上りがキクナ過ぎたと小野君が言つた……と。
私は小野君の心持がわかるような気がする。私はこんなに紙のわるい詩集はめつたにないと思ふ。私は小野君に君の詩集は素敵です。――と言ひたい。詩集出版の際に、その装幀をどうしようかと思案しない詩人はゐないだらうと思ふ。立派に気のきいたものをと望むであらう。しかし、立派すぎることはちよつとをかしいし、気のきいたといふことは詩集の装幀にはあまりうれしくない。だが、著者が詩集を出版する際に立派でなく、気がきかないやうにとは中々さう思へないことにきまつてゐる。
きのきいた装幀は、けつきよくアクのぬけきらぬことを思はせるだらう。あまり綺麗すぎ立派すぎるのは、詩を飾り菓子のやうなものにしてしまふきらひがある。私は、詩集の装幀はどつちかと言ふと間のぬけたものをうれしく思ふ。(そして又、特別の場合以外は著者自身で装幀する方がよいと思ふ)――こんな意味ばかりではないが、詩集「半分開いた窓」の表紙装幀は私は非常に好ましく思つた。くどくどと言ふやうではあるが、私は詩集の装幀は著者が胸にかゝげてゐる花であると言つてもいゝと思つてゐる。世の全部の詩人にくれぐれも装幀に注意していたゞきたいと思ふ。私にもどうすれば装幀に失敗しないのかははつきりわかつてゐるのではない。いたづらに失敗した装幀を見ては痛歎する阿呆であるが、私は如何にも苦心したらしい……如何にもこちて印刷したものと思はせる多くの表紙にくらべて、この詩集の表紙は紙の裏からしみ出してゐるやうに少しの無理もひそんでゐないことを実にすばらしいと思ふ。小野君がキタナラシクと言つてたのんだことに、私はこの意をはつきり知ることが出来る。私はこの詩集を読む前に小野君は実によいものを持つてゐる詩人であると言ふことが出来る。この詩集は経費を多くかけてゐない。と思ふ前に諸君は以上私の述べたことを知らなければなるまい。すくなくもそれだけの観察をしなけれはなるまいと思ふ。
私は先に大鹿君の「兵隊」と北川君の「検温器と花」の愚評をして恥かしい思ひをした。私は又ここで小野君の「半分開いた窓」で恥かしい思ひをするのか。
批評といふことを、ほんたうに知つてゐない私には当然の結果であらう。そして、だいそれたそんなまねの出来るだけの自分ではないこともよく知つてゐる。けれども、喜びを述べ私だけの意見を述べ、又、かうした機会を得て注意深く著書を読むこともよいことであらう。
諸君よ。どうも私はくどく言ふくせがある。くどく言はないと不安心でたまらない。幸に私のあはれなくせを許して、私の言はふ言はふとして言ひあらはし得ない中から、私の言はふとするものをつかみ取つてもらひたい。
『小野君は小学校の五年生で、成績はよい方でずつと優等をもらつてゐる。昨日綴方の時間に詩を書いて一緒に列らんでゐる私に見せたので、私はそれを大に批評した』……と、こんなやうな邪気の無い態度で批評することを、小野君あなたは喜こんで呉れるか。何ごとかを言はふとする素人の批評を――。
×
『この秋』
女の悲鳴がする
枯蘆の中から
――さうかしら
静かだ
×
小野君はこんな詩を書いてゐる。だが、この一篇で小野君の詩を代表してゐると言へない。唯、このやうな心境をもつてゐる詩人といふことを知ることが出来る。
×
『盗む』
街道沿の畑の中で
葉鶏頭を盗もうと思つた
葉鶏頭はたやすくへし折られた
ばきりとまことに気持のいゝ音とともに
――そしてしづかな貞淑な秋の陽がみちてゐた
盗人奴! とどなるものがない
ぼくはむしろその声が聞きたかつたのだ
もしもそのとき誰かが呼んでくれたら
ぼくはどんなに滑稽に愉快に
頭に葉鶏頭をふりかざして
晩秋の一条街道をかけ出すことが出来ただらう
しかしあまりにたやすく平凡に暢気に
当然すぎる位ゐつまらなく盗んだ葉鶏頭を
ぼくはいま無雑作に
この橋の上からなげすてるだらう
×
「街道沿の畑の中で葉鶏頭を盗もうと思つた」詩である。実際は、葉鶏頭を折り取つたのか取らなかつたのかを知らうとするとひどい目に逢ふことでせう。
「半分開いた窓」を通読して小野君は詩が下手だと思つた。うまいといふ感じは受けなかつた。
(私は詩が上手なのを別に尊ぶことではないと思つてゐるが、詩は洗練されていゝものだと思つてゐる)しかし、いゝ詩を見つけることはたやすく出来た。私はみんないゝ詩だと思つた。詩そのものがいゝのであつた。たゞ感じたもの見えたものをそのまゝ詩に書き入れてゐるために、小野君のそのときの錯綜した色々の空想や幻想をそのまゝ読者に強ひるので、かなり無理なことになつて自然その間の説明の不足などのために、或部分を駄足と思はせる結果となるのであらふと思ふ。(小野君はわざとさうしてゐるのであらう。面白いことと思ひますが、このまゝではいけないと思ひます)こんなことで、詩の多くはわざはひされてゐるやうであつた。
私は短い詩にいゝ詩がうまく作られてゐるのを読むことが出来た。又、詩の多くは奇妙なユーモアをもつてゐた。私を好きがらせた。詩の一部分だけをどうかう言ふのはわるいことだが「十一月」「急止」「白昼」……等の終りの数行がその奇妙なユーモアで終つてゐる。活動写真の場面で、歩いてゐる人や自動車が急にそのまゝ静止した恰好になつたときの面白味、不思議味、不安定でゐて安定なといふやうなことに興味をもつてゐる――或ひはそこをねらつてゐるところが、「街道」 にも「無蓋貨車」にも「風船と機関車」にも「中空断層」にも「十一月」「急止」「白昼」……にもある。そしてこれ等の諸篇はたいてい同じやうな型で書かれてゐる。困難とする所以であらうと思ふ。
私は言葉の節約といふことをずゐ分以前から考へてゐる。節約といふ言葉にうまくあてはまらない点もあるが、今の短詩型の詩の中には詩をあやまるものもある。自分は残念なことだと思つてゐる。これとは関係がないが、十二月の太平洋詩人の三瀬雄二郎氏の「詩月評」に小野君のところに節約といふ言葉を見つけた。私は小野君の詩に三瀬雄二郎氏と同じやうな考へを持つことが出来るが、小野君の詩の多くが説明の不足からさうした感じを読者に思はせるのであるとすれば、そのむだと見なされる箇所は作者にとつて大切なものであらう。小野君に一考を煩はすべきである。私は詩を丁寧に書くやうにと小野君にたのみたい。
「野の楽隊」「或る恐怖」「産」は好きであつたが、三瀬雄二郎氏はこゝでも言葉の節約を望むであらう。私もさうだ。
×
『野鴨』
僕はあの蘆間から
水上の野鴨を覗ふ眼が好きだ
きやつの眼が大好きだ
片方の眼をほとんどとぢて
右の腕をウンとつゝぱつて
引金にからみついた白い指をかすかにふるはして
それから蘆の葉にそつと触れる
斜につき出した細い銃身
あいつの黒い眼も好きだ
僕はあの赤い野鴨も好きだ
やつの眼ときてはすてきだもの
そして僕は空の眼が好きだ
あの冷たい凝視が
野鴨を悲しむのか
僕は僕の眼を憎む
この涙ぐんだ僕の眼だけを憎む
覗ふ眼 銃口の眼 鴨の眼 空の眼
静かに集ひ
鴨を打つ
×
カンガールは極めて迅く走つた●然しながら私は尚一層迅く走つた●カンガールは肥つてゐた●私は彼を喰べた●カンガルーカンガルー……といふ土人の歌を小野君は知つてゐる。そして、この歌が大好だと書いてある。読者はどんなふしなのか聞きたいと思ひませんか。
「3」の無題が、面白かつた。「爆破作業」に不思議な力を感じて陶酔した。「断崖」も好であつた。「夕暮」も好であつた。「食欲の日」も「快晴」も好であつた。
私は詩に好き嫌ひが多い。それはわるいことだと思つてゐるが直せないものだ。私以外の人はこの詩集から私よりも沢山のよい詩を見出すであらうと思ふ。
「巨人と死神」其他七篇――私はこのやうな詩篇を読むと非常に疲れる。一つにはもつと散文化して書いてある方が読みやすいのかも知れない。
*備考……表紙装帳を大変ながながとほめたのはけなすかはりにほめ
たのではありません。この次に野村君の「三角形の太陽」を日本英
傑伝抄を中心にして何か書いてみたいと思つてゐますが、私のを読
んでも面白くないと思つたら注意して下さればたゞちにやめます。
*
(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)
[やぶちゃん注:これは小野十三郎(おのとうざぶろう 明治36(1903)年~平成8(1996)年)の第一詩集『半分開いた窓』(大正15(1926)年ミスマル社刊)の評である。『大鹿君の「兵隊」と北川君の「検温器と花」の愚評』の前者は『詩集「兵隊」のラッパ』(大正15(1926)年12月発行の「詩神」に掲載)を指し、後者は『「検温器と花」私評』(昭和2(1927)1月発行の「太平洋詩人」に掲載)を指す(どちらも前掲)。「駄足」はママ。最後の「*備考」は底本では全文がポイント落ち。『野村君の「三角形の太陽」』は構成派詩人を自称した野村芳哉がミスマル社から大正15・昭和元(1926)年に出版した詩集。「日本英傑伝抄」は同詩集中の詩篇名かと思われる。]
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