さりながら「プルートゥ」のボラーとはあの「巨人」なり 又は エプシロンの魂(フォトン)は死にかけた僕のパソコンの夢を見る《垂翅PC余命連禱》
《垂翅PC余命連禱》に相応しい――
読み損なっていた「プルートゥ」の06と07を読む――
06――
最後にゲジヒトの最期がやってくる――
それは哀しく切なく透徹した美しさで僕らに迫る――
……何もかもが終わった後に――アントンの抱えた薔薇が雨に匂ってくる――
そうして僕にも――
確かなものとしてゲジヒトの(!)「喜び」と「悲しみ」が直感される――
07――
プルートゥ出現――僕には如何にもあっけない「出現」――
あっけなく現したその姿も手塚先生のプルートゥの「エヴァンゲリヲン」流――
でも、これはきっと確信犯だ!――もう、みんな気がついている!――僕らが本当に見たいのは、本当に知りたいのは――「感じたい!」のはボラーなんだ!――そうだ、ボラー、なんだ!
みんなで叫ぼう! あの孤児の少年たちと共に!
そうして気付く――
エプシロンは「サクリファイス」のアレクサンデルであり――
エプシロンは「ノスタリジア」のドメニコだ――
そうして――ボラーとは……誰か……
――「Act.49 サプライズパーティの巻」19下方のコマ……戦場の硝煙の中の巨大なもの……
――「Act.55 大いなる目覚めの巻」10+11上方のコマ……それは……あの「巨人」なり……
………………
Goya y Lucientes, Francisco José de
“The Colossus”
1808-12; Oil on canvas, 45 3/4 x 41 1/4 in; Museo del Prado, Madrid(画像元:“the WebMuseum,Paris”)
エプシロンへの追伸:どうかエプシロンよ、そのフォトンでもって、僕のPCを葬送してくれ給え――
*
「プルートゥ」を我に教えし教え子Y.O.へ。
これは僕の勝手な印象を綴ったものに過ぎない。「Act.48 六十億の偏りの巻」の22の伝馬博士の「そ………その顔は……」というコマからは、プルートゥやボラーの『内実としての本当の』60億の偏りの顔とは、我々の誰もが知っている顔でなくてはならないように思われる。さて、我々の誰もが知っている顔は――人類に最も知られた顔と言えば――善悪の彼岸の顔――全人類の罪を一身に受ける者――ナザレのイエスか?……また語り合いたいものだ。
* *
因みに、昨年、この有名な“The Colossus”はゴヤの真筆ではなく、彼の弟子の筆になるものという鑑定が専門家から提出されているということを、今日、この画像を探しに行って初めて知った。巨人の顔や下界の人物や馬の描写が粗雑なんだそうだ――ちょっと寂しい気がした――