無門關 習庵序
(習庵序)
説道無門、盡大地人得入。説道有門、無阿師分。第一強添幾箇注脚、大似笠上頂笠。硬要習翁贊揚。又是乾竹絞汁。著得這些哮本。不消習翁一擲一擲。莫教一滴落江湖。千里烏騅追不得。
紹定改元七月晦、習庵陳塤寫
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
(習庵が序)
道は無門と説けば、盡(じん)大地の人得入せん。道は有門と説けば、阿師(あし)の分(ぶん)無けん。第一、強いて幾箇の注脚を添ふるは、大いに笠上(りふじやう)に笠を頂くに似たり。硬く習翁が贊揚せんことを要す。又、是れ、乾竹に汁を絞るなり。這些(しやさ)の哮本(かうほん)を著得(ぢやくとく)す。習翁が一擲、一擲するを消(もち)ひず。一滴をして江湖に落さしむること莫かれ。千里の烏騅(うすゐ)も追ふを得ず。
紹定(ぜうてい)改元七月晦(みそか) 習庵陳塤(ちんけん)寫す
*
淵藪野狐禪師訳:
(習庵陳塤による序文)
仏門に入る門は『ない』という謂いをすれば、このあらゆる大地の在りと在る全ての人々は、既にその門に残らず入っている、ということになる。逆に、入るべき門は『ある』という謂いをすれば、門に入(い)っているはずの僧も、悉く門を入(い)っていないということになり、尊(たっと)い禅師も形無しだ。何より、無門慧開という生臭坊主如きが、得体の知れない公案に、無理をして幾つもの注釈・商量を附けるということからしてが、被った笠の上に笠を被るようなものじゃ。それに加えて、笠の上の笠の笠、この有名無能の習庵陳塤糞進士に、讃仰した序文を書けとやかましくもほざきおる。その事自体が、無理の無理、すっかり乾いたかりかりの竹を絞って、汁を出そうとするようなもんじゃ。さても、こげなそれなりの冊子の本が出来上がって手にしてみた――いや、この俺だって投げ捨てる――いやいや、投げ捨てるほどの価値もねえ――いやいやいやいや、何より、穢れ汚れたこの一滴の序文さえ、この澄み渡った美しい世間の水面に落としてはならぬ!……もしもこれが公になれば、この世の道理は悉く壊滅へと向かうのである――その瞬時刹那の崩壊には、一瀉千里の項羽の愛した、あの駿馬の誉れ高い烏騅でさえ、追いつくことはできまいよ――。
紹定改元の年(:西暦1228年)七月三十日 習庵陳塤 寫す
[やぶちゃん特別補注:西村注によると、この「陳塤」なる人物は、号は習庵、『陳は姓、塤は名、字は和仲。宋の寧宗年間(一二〇八―一二二四)の進士。累官して太常博士・枢密院編集官・国司司業に至る。』とある。「国司司業」は現在の国立大学教授に相当する。寧宗は次の「表文」で讃えられる南宋の今上皇帝の先代第4代皇帝(但し、後の理宗、本名・趙昀(ちょういん)は北宋の太祖趙匡胤(きょういん)の長子趙徳昭8代の孫の子であった)。]