無門關 孟珙跋
(孟珙跋)
達磨西來不執文字。直指人心見性成佛。説箇直指已是迂曲。更言成佛郎當不少。既是無門因甚有關。老婆心切惡聲流布。無庵欲贅一語又成四十九則。其間些子※訛、剔起眉毛薦取。淳祐乙巳夏重刊。
檢校少保寧武軍節度使、京湖安撫制置大使兼屯田大使、兼夔路策應大使、兼知江陵府漢東郡開國公、食邑二千一百戸、食實封陸佰戸、孟珙跋
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「言」+(「淆」-「氵」)。]
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淵藪野狐禪師書き下し文:
(孟珙(まうきやう)の跋)
達磨、西來して、文字を執らず。人心(にんしん)を直指(ぢきし)して、見性(けんしよう)して成佛す、と。箇(こ)の直指と説くも、已に是れ、迂曲なり。更に、成佛と言ふも、郎當(らうだう)少なからず。既に是れ、無門、甚(なん)に因りてか關有る。老婆心切にして、惡聲(あくせい)流布す。無庵、一語を贅(ぜい)せんと欲して、又、四十九則と成す。其の間、些子(さし)の※訛(がうか)あらば、眉毛を剔起(てきき)して薦取せよ。淳祐(じゆんいう)乙巳(きのとみ)の夏、重刊す。
檢校少保寧武軍節度使、京湖安撫制置大使 兼 屯田大使、兼 夔路(きろ)策應大使、兼 知江陵府漢東郡開國公、食邑(しよくいふ)二千一百戸、食實封(しよくじつふう)陸佰戸、孟珙、跋す。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「言」+(「淆」-「氵」)。]
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淵藪野狐禪師訳:
(孟珙(もうきょう)の跋)
達磨大師が、西來して、彼は文字を用いることなく法を説いた。それは――人の心そのものを直(じか)に指さし、それで、己にもともと備わっている真実(まこと)の本性をその人自らに見究めさせて、自ら煩悩を解き放ち、自ら無上の悟りを開く――というものであった、という。しかし、考えてもみるがいい! この『直指――直に指さす』というもの謂いそのものが、既に已に、まわりくどいではないか! 更に、『成仏――煩悩を解き放って、無上の悟りを開く』などと『言うこと』自体が、如何にもだらしがない! だいたいがだ、無門と言っているのに、どうして関所がある? 関所など、あるはずがない! 無門慧開め、いらぬ老婆心でおせっかいをしよったからに、今ではすっかり悪名が高まっておる。拙者無庵の、この一言も、その「いらぬ老婆心のおせっかい」に加えた、疣(いぼ)のような無駄な一言(ひとこと)くっつけてしまったな、そうして、はてさて、この疣で、更なる「いらぬ老婆心のおせっかい四十九則」と成してしまうこととはあいなった。……この拙者の謂いの裏(うち)に、もしも僅かでも誤りがあったならば、その時は、眉毛を逆立て、眼を抉り出さんがばかりに見開き、声も高らかに『孟珙野郎が間違った!』と、どうか厳しく「ご推挙」のほど、願いたいものである――それが私の最後の肩書きとも、なろうほどに――。
淳祐乙巳(きのとみ:淳祐五(1245)年。)の夏、「無門関」再刊に際して。
檢校少保寧武軍節度使
京湖安撫制置大使 兼 屯田大使
兼 夔路(きろ)策応大使
兼 知江陵府漢東郡開国公
食邑(しょくゆう)2100戸 しかし
食実封は600戸でしかない
孟珙が跋を記す
[淵藪野狐禪師注:
・「孟珙」(1195~1246)は南宋の武将で、列強の隣国金及びモンゴル帝国を相手に劣勢の南宋を美事に守り通した名将である。字は璞玉(ぼくぎょく)、号は無庵居士、諡(おくりな 諡号)は忠襄公。1234年に江陵府副制置使となり、1232年の三峰山の戦いではモンゴル軍と共闘し、金を滅ぼした。その後、協定を破ってモンゴルに背信した南宋に対し、モンゴルは南伐を開始、一時期、宋は窮地に陥るが、ここでも孟珙の働きにより、防衛される。この功により彼は京西湖北路安撫制置使(京湖方面に於ける方面軍総司令官)に昇進、以後も巧妙な戦略により戦線を安定させ、遂にはモンゴルのオゴタイをして南伐を諦めさせた。一方、戦乱で荒れ果てた四川や京湖に屯田を導入、難民対策と生産力回復にも心を砕き、国境守備軍の再編成による各戦区の相互支援システムを確立する等、極めて優れた戦略家であった。晩年は民衆はもとより、皇帝からも国家守護神の崇敬を受けたとされる。孟珙は易経や仏典にも通じており、「警心易賛」という自書もある(以上はウィキペディアの「孟珙」の内容と西村注を参照にして略述した)。本跋は孟珙が亡くなる前年のものであるが、激戦の勇士、狡猾たる戦略、累々たる屍を見てきた末の彼の言葉として考えた時、この跋は決して軽くない。
・「薦取」の部分を西村氏は『おおいに目くじらを立てて捉えて頂きたい』と、「捉える」と訳しておられるのであるが、私には日本語としてすんなり落ちてはこない。通常この「薦取」なる語は、優れた人材を推挙することをではないかと思われる。ここは所謂、禅語の皮肉めいた逆説的用法の部分ではなかろうか。とりあえず私はそのようなものとして一部の表現を補って訳してみた。識者の御批評を乞う。
・「少保」は官位。
・「寧武」は地名と思われる。現在の山西省の忻州(きんしゅう)市にこの地方名がある。
・「夔路」現在の四川省の地域名。現在、四川と呼んでいる地域は、最初、この宋代に川峡路(路は道と同じく方面・地方の意)という地域呼称がなされ、それが西川路・峡西路に分轄、後、更に西川路が益州路(成都)と利州路(漢中)に、峡西路が梓州路(三台)と夔州(奉節)に分轄された。この益・利・梓・夔の4つの路を「川峡四路」と呼び、それが簡略化されて「四川」という呼称になったとされる(以上は、「中国情報交換広場」の「四川の名前の由来について」の書き込み(投稿者SixiangBaniu 時間04-07-28 4:42)を参照にした。該当頁は掲示板なのでリンクは広域別情報交換のトップのみとした)。
・「開國公」は爵位。正二品の極めて高い位である。
・「食邑」は治めている領地のこと。平均的には太守や将軍は1000戸であるから、孟珙の評価の高さが知られるが、これは公称であって、次に「食實封」(これは実際の「食封」はという意味で、「食封」は「食邑」と同義である)とあるので、実際に所行していた領地は600戸分の土地しか実封されていなかったことが知れる。中国に於いて、このような公称と実数の数値を示すのが文書において普通だったものかどうか、私は不学にして知らないが(日本では有り得ない)、皮肉めいた暴露署名として読むと如何にも面白い。そのようなものとして訳してみた。識者の御教授を乞う。]
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この人、すごい人なんだな。ウィキで調べてびっくらこいた。再刊の際の跋とはいえ、あなどれません! さすが「無門關」!……で、岩波文庫の訳注者の西村恵信先生、これはやはり、もう少し彼の事蹟を注で記すべきであると思います、ハイ。
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