待つ 片山廣子
ふるき家(昭和十八年――十九年)
待つ
待つといふ一つのことを教へられわれ髪しろき老に入るなり
あまざかるアイルランドの詩人らをはらからと思ひしわか夢は消えぬ
世をさかり寡婦(ひとり)のわれにうらやすく人の洩らしし嘆きもあはれ
脚折れし玩具の鹿を箱によせかけ痛むこころに立たせて見つつ
動物は孤食すと聞けり年ながくひとり住みつつ一人ものを食へり
まどふ吾に一つ示教(をしへ)たまひける或るひの友よ香たてまつる
地獄といふ苦しみあへぐところなどこの世にあるを疑はぬなり
*
歌集『野に住みて』より、「ふるき家」の「待つ」全篇。
――あなたは感じないか?
――廣子が「待つとい」うことを「教へられ」たのは誰か?
――「嘆き」を「うらやすく」「洩らし」た「人」は誰か?
――「脚折れし玩具の鹿」は誰かに似ていないか?
――既に亡くなった「まどふ吾に一つ示教たまひける或るひの友」とは誰か?
……そうして思い出さないか?
地 獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。