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2009/04/25

無門關 三十五 倩女離魂

  三十五 倩女離魂

五祖問僧云、倩女離魂、那箇是眞底。

無門曰、若向者裏悟得眞底、便知出殻入殻如宿旅舎。其或未然、切莫亂走。驀然地水火風一散、如落湯螃蟹七手八脚。那時莫言、不道。

頌曰

雲月是同
渓山各異
萬福萬福
是一是二

淵藪野狐禪師書き下し文:

  三十五 倩女離魂(せんぢよりこん)

 五祖、僧に問ふて云く、
「倩女離魂、那箇(なこ)か是れ眞底。」
と。

 無門曰く、
「若し者裏(しやり)に向かひて眞底を悟り得ば、便ち知らん、殼を出て殼に入ること、旅舍に宿するがごとくなるを。其れ或ひは未だ然らずんば、切に亂走すること莫かれ 。驀然(まくねん)として地水火風一散せば、湯に落つる螃蟹(ばうかい)の七手八脚なるがごとくならん。那時(なじ)、言ふこと莫かれ、道(い)はずと。」
と。

 頌して曰く、

雲月 是れ同じ
溪山 各々異なれり
萬福 萬福
是れ一か 是れ二か

淵藪野狐禪師訳:

  三十五 倩女離魂

 五祖慧能が、僧に対して、問うて言う。
「倩(せん)ち女子(おなご)ん、そん離れた『倩』、そん魂(たま)が『倩』、どっちが本物(ほんもん)じゃ?。」

 無門、商量して言う。
「もし、こげなこつ、底んとこ、ばしっと分っとりゃ、何でん、分っとるち、の! とんでんなか殼出てよ、とんでんなか殼に入るちこつはよ、旅籠(はたご)に宿るちこつ と、おんなじ、じゃけ! そんでん、また、分らんちこつ、言うか? さったら、まんず、走ったら、あかんぜよ! さったら、じき、死(い)ぬじゃて! そったら、煮え たぎっちょる湯ん中へ、蟹(がに)っ子入れて、足ば、バタバタさせちょんがと、何あんも、変わらんが!――おまんさ、そん時、なって、言わんぜよ! 『聞いとりゃせん !』ち!」

 次いで囃して言う。

(黒板。左から現れた後姿の白衣の女がチョークをとると、書く)
「雲=月→アンドロイド=人」
(F.O.)
(黒板。右から現れた後姿の白衣の女がチョークをとると、書く)
「溪≠山→電気羊≠羊」
(F.O.)
(オフで)「ヨクデキマシタ!」「ヨクデキマシタ!」……(パソコンが壊れたらしい雰囲気で、デジタル音声でリピート。何回でもよい。)
(黒板。左右から現れた白衣の二人の全く同じに見える後姿の女が一人に重なってチョークをとると、書く)
「α=1 β=2 α=β」

(オフで。女の声で「以上が真であることを証明せよ」。)

[淵藪野狐禪師注:本則は人口に膾炙した唐代伝奇、陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を正面切って素材とした公案である。勿論、五祖慧能の意図は文学的鑑賞という那辺に留まるものではないにしても、そのドッペールゲンガーの解釈、というよりも原作のクライマックスに現れる真正の二重身、その存在様態に対する厳粛なここでの問題提起は、心理学的にも哲学的にも、更に、ここから引き出されるところの「一転語」なるものを考えた際にも、私は甚だ興味をそそられるのである。
 そこで、以下、その陳玄祐作「離魂記」の原典・書き下し文・拙訳を掲げる。これは私が二十年程前、本作を授業で講義した際に作成した授業案を一部手直ししたものである。原文は明治書院新釈漢文大系44「唐代伝奇」所収のものを用い、訓読及び現代語訳についても不審な箇所は当該書の訓読・訳注を一部参照させて頂いた。
 ちなみにこの編者の一人、乾一夫先生には大学二年の時に「詩経」の講義を受けた。その頃、現代文学にしか色気のなかった私は、自主休講を積み重ね(実際には彼が当時の学生運動を殊更に『嫌悪』し、最初の授業の際に、数分の発言を謙虚に求めた核マル派の女子学生を暴力的に教室から排除した姿に私が『嫌悪』したことがその最たる理由であるが)、美事に『不可』を頂戴した。実はこれは、私が4年間の大学生活でもらった二つの『不可』の一つであった(もう一つの『不可』は、その再履修であった。それは、かの、その人の『不可』で退学者・留年者続出、もらえても『可』という恐怖が伝説的な吹野安先生の「楽府」の講義であった。しかし、更にその翌年の同じ吹野先生の「唐詩」による再々履修で、好きな李賀の詩で食い下がり、奇蹟的に『良』を頂戴したので、私は吹野先生を勝手に師と仰いでいるのである)。今は、その両先生の、その優しき警策が懐かしく思い出されるのである。

天授三年、清河張鎰、因官家于衡州。性簡靜、寡知友。無子有女二人。其長早亡、幼女倩娘、端妍絶倫。鎰外甥太原王宙、幼聰悟、美容範。鎰常器重、毎曰、他時當以倩娘妻之。
後各長成。宙與倩娘常私感想於寤寐、家人莫知其状。後有賓寮之選者求之、鎰許焉。女聞而鬱抑。宙亦深恚恨、託以當調請赴京、止之不可。遂厚遣之。宙陰恨悲慟、決別上船。日暮、至山郭數里。夜方半、宙不寐。忽聞岸上有一人行聲甚速、須臾至船。問之、乃倩娘徒行跣足而至。宙驚喜發狂、執手問其從來。泣曰、君厚意如此、寢夢相感。今將奪我此志。又知君深情不易、思將殺身奉報。是以亡命來奔。宙非意所望、欣躍特甚。遂匿倩娘于船、連夜遁去。倍道兼行、數月至蜀。
凡五年、生兩子、與鎰絶信。其妻常思父母、涕泣言曰、吾曩日不能相負、棄大義而來奔君。向今五年、恩慈閒阻。覆載之下、胡顏獨存也。宙哀之曰、將歸、無苦。遂倶歸衡州。既至、宙獨身先至鎰家、首謝其事。鎰曰、倩娘病在閨中數年。何其詭説也。宙曰、見在舟中。鎰大驚、促使人驗之。果見倩娘在船中。顏色怡暢、訊使者曰、大人安否。家人異之、疾走報鎰。室中女聞喜而起、飾粧更衣。笑而不語、出與相迎、翕然而合爲一體、其衣裳皆重。其家以事不正、祕之。惟親戚閒有潛知之者。後四十年間、夫妻皆喪。二男並孝廉擢第、至丞・尉。玄祐少常聞此説、而多異同、或謂其虚。大暦末、遇莱萊蕪縣令張仲※。因備述其本末。鎰則仲※堂叔、而説極備悉。故記之。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「先」+「見」。]

淵藪野狐禪師書き下し文:

 天授三年、清河の張鎰(ちやういつ)は、官に因りて衡州(かうしう)に家す。性、簡靜にして、知友寡(すくな)し。子無く、女(ぢよ)二人有り。其の長は早くに亡じ、幼女倩娘(せんぢやう)、端・妍、倫を絶す。鎰の外甥(ぐわいせい)、太原(たいげん)の王宙、幼くして聰悟、容範美し。鎰、常に器重し、毎(つね)に曰く、
「他時、當に倩娘を以つて之を妻(めあは)すべし。」
と。
 後、各々長成す。宙と倩娘とは、常に私(ひそ)かに寤寐(ごび)に感想するも、家人、其の状を知ること莫し。
 後、賓寮の選者に、之を求むるもの有りて、鎰、許す。女、聞きて鬱抑す。宙も亦、深く恚恨(いこん)し、託するに當調(たうてう)を以て、京に赴かんことを請へば、之を止(とど)むれども可(き)かず。遂に厚くして之を遣る。
 宙、陰(ひそ)かに恨み、悲慟し、訣別して船に上(の)る。日暮、山郭の數里なるに至る。夜は方に半ばなるも、宙、寐ねられず。
 忽ち聞く、岸上、一人行く聲、甚だ速やかなる有るを、須臾(しゆゆ)にして船に至る。之を問へば、乃ち倩娘の徒行跣足(せんそく)して至りしなり。宙、驚喜發狂し、手を執りて其の從來を問ふ。泣きて曰く、
「君の厚意、此くのごときは、寢夢(しんぼう)にも相感ず。今、將に我が此の志を奪はれんとす。又、君の深情の易らざるを知り、將に身を殺しても奉報せんとするを思ふ。是(ここ)を以て亡命來奔す。」
と。
 宙、意の望みし所に非ざれば、欣躍(きんやく)すること、特(こと)に甚だし。遂に倩娘を船に匿し、連夜して遁れ去る。道を倍して兼行するに、數月にして蜀に至る。
 凡そ五年、兩子を生むも、鎰とは信を絶つ。其の妻、常に父母を思ひ涕泣して言ひて曰く、
「吾、曩日(なうじつ)、相負くこと能はずして、大義を棄てて君がもとへ來奔す。向今(かうこん)五年、恩慈、間阻たり。覆載(ふさい)の下(もと)、胡(なん)の顏もて獨り存せんや。」と。
宙、之を哀しんで曰く、
「將に歸らんとす、苦しむこと無かれ。」
と。
 遂に倶に衡州に歸る。既に至り、宙、獨り、身(み)、先づ鎰の家に至り、首(はじめ)に其の事を謝す。
 鎰曰く、
「倩娘は病みて閨中に在ること數年、何ぞ、其れ、詭説するや。」
と。
 宙曰く、
「見(げん)に舟中(しうちゆう)に在り。」
と。
 鎰、大いに驚き、促(すみや)かに人をして之を驗(けみ)せしむ。
 果して倩娘の船中に在るを見る。
 顏色怡暢(いちやう)して、使者に訊きて曰く、
「大人(たいじん)は安きや否や。」
と。
 家人、之を異とし、疾く走りて鎰に報ず。
 室中の女(ぢよ)は、聞きて喜びて起ち、飾粧・更衣す。笑ひて語らず。
 與(とも)に出でて相迎へ、翕然(きふぜん)として合ひて一體と爲り、其の衣裳も皆、重なれり。
 其の家、事の不正なる以て、之を祕(かく)す。惟だ親戚の間、潛かに之を知る者有り。後、四十年の間、夫妻、皆、喪す。二男、並びに孝廉に擢第(てきだい)し、丞・尉に至る。
 玄祐、少(わか)くして常に此の説を聞くに、異同多く、或ひは謂つべし、其れ、虚と。大暦の末、莱蕪(らいぶ)縣令張仲※(ちゆうせん)に遇ふ。因つて其の本末を備(つぶさ)に述ぶ。鎰は、則ち仲※の堂叔にして、説くこと、極めて備悉(びしつ)なり。故に之に記す。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「先」+「見」。]

やぶちゃん訳:

 則天武后の天授三年(:西暦692年。)のことである。
 清河(:現在の河北省清河県。)の張鎰(ちょういつ)は、役人であったため、赴任して衡州(:現在の湖南省衡陽県。)に居を構えていた。彼はもの静かな性格だったので、友も少なかった。息子はなく、娘が二人あった。長女の方は早くに亡くなったのだが、下の娘の倩娘(せんじょう)は、容姿端麗、たおたおとして、その美しさは喩えようもないほどであった。
 さて、鎰の甥に、太原(:現在の山西省太原県。)の王宙(おうちゅう)という者がいたが、彼も小さな頃から聡明で、端正な美少年であった。鎰は、たまたま身近にいたこの甥を、常日頃から優れた才力の持ち主としてかっており、しばしば、
「いずれ、この倩娘を、お主の妻として、やろう。」
と言うほどであった。

 その後、二人はそれぞれにまたとなく美しく成長した。宙と倩娘とは、実は、密かに寝ても覚めても思いを寄せ合っていたのだが、それはそれは、本当に人知れずのものであったので、それぞれの家人はそのことに全く気づいてはおらなかった。
 ところが、その後、鎰の勤める役所の同僚で、相応の才能と地位を持ち合わせた男が、この倩娘を妻に、と切に願い出てきたため、鎰は軽率にもこれを許してしまった。
 倩娘はこれを聞いて、すっかりふさぎ込んでしまう。宙もまた内心、深く恨み憤り、半ば自棄(やけ)になって、偶々、自身に京師(けいじ)への転任の話が持ち上がっていたのにかこつけ、都へ上りたいと申し出てしまった。鎰はといえば、彼の才能をかっていただけに、いろいろ慰留しては見たものの、宙の頑なな決心を変えられず――いや、その真意が倩娘にあることを鎰が全くもって知らなかったが故に――その上洛をとどめることは出来なかったのであった。ついに鎰は、仕方なく宙のために、手厚い旅支度を整えてやると、衡州から送り出すこととなった。
 ここに至っても宙の内心は、倩娘との別れという一時に対してのみの、恨みつらみに打ちひしがれており、その哀しみの故にこそ、本当は泣き悲しんだ涙の中で、張家の人々に別れを告げ、舟に乗ったのであった――

 ――その日の日暮れ時のこととなる。
 宙の船は、既に衡州から数里離れた山辺の村に着いていた。
 もう真夜中になろうという頃になっても、倩娘を思うあまり、宙はまるで眠れないのであった。
 と、その時である――岸辺の遙か向こうの方から、誰かが――たった、たった――と急いで走って来る不思議に柔らかな足音が――だんだんと速くなって――だんだんと大きくなって――だんだんと近づいてくるのが――聞える――かと思ったら――その足音が船のすぐそばに来て――とん――と止まる――
 宙は船中から、その影に向かって問いかける。
「誰(たれ)か!?」
灯りをかかげてその顔を見れば――
 何と倩娘ではないか!――
 そうして、また驚いたことに、彼女は裸足で走ってきたのであった――
 宙は驚きつつも、気が狂わんばかりに喜んで、彼女と手を取り合い、どうしてこんな! とその経緯(いきさつ)を尋ねた。倩娘は泣きながら答えた。
「あなたさまの私(わたくし)への熱い思い! それはね! ほら! 見ての通り! それを私、寝ても醒めても忘れたことは御座いません! 今、許し難い何ものかがこの私の誠心を奪い去ろうとしました! でもまた、あなたさまの深いお情けが、今も少しも変わらないということ! それも確かに知ったのです! だから、死んでもそのあなたの真心に報いねばと、とるものもとりあえず、着の身着のまま、我が家を出奔して参ったので御座います!」
 宙は思いもよらぬうれしさに、また、躍り上がって喜んだのであった――
 かくして倩娘を船に匿(かくま)うと、宙は、夜通し、逃げた。昼も夜も、普通の速さの倍で漕がせ、逃げた。数ヶ月の後、彼らは蜀に着いていた――

 ――それから五年の月日が経つ――二人には可愛い二人の子供さえ産まれたのだが、倩の父、鎰とは、全くもって音信不通のままであった。
 ――そんなある日のこと、倩は、いつものように父や母を思い出しては、涙ぐむと、
「――わたしはあの時、あなたの思いに背くことが出来ずに、――いいえ、でも、それはその時の確かな私の思いそのものでもありましたし、今もそのものであるのに違いは御座いません――そう、父や母の大きな恩を捨ててまでも、あなたの元へ参ったのでしたわ――そう、今まで、もう五年――かたや、私の親子の縁は、すっかり隔たれたたままで御座います――それを思うと、どうしてこの世にあって、どんな顔をして、どんな『私ひとり』が、生きておられましょう!――」
と言った。宙も可愛そうに思い、
「帰ろう! くよくよするのはもう、やめだ。」
と言った。
 かくして二人は手をとり合って一緒に衡州へ帰った。
 着くと、ことがことだけに、とり敢えず宙だけが、単身、鎰の家へと赴き、先ず初めにこれまでの経緯(いきさつ)を事細かに話して謝罪をしたのであった――
 ところが鎰は、
「おい! うちの倩娘は、数年の間、病いで寝室に臥したままだ。どうしてそんな嘘を言うか!」
と、けんもほろろ。
 宙は、吃驚りしながらも、
「いえ、だって、今、現に……私の舟の中に彼女はおりますが……。」
と応える。
 鎰は大層、驚くと、まずはとり敢えず、家の者を使いにたてて、調べさせる。
 すると、確かに、船の中に倩娘が居る――顔色も良く、楽しそう――それどころか、その使いに、
「お父さまは、ご達者ですか?」
とさえ尋ねるのである。
 使いの者は吃驚り仰天、飛んで帰ると鎰に告げる――
 ――その時である――
 ――奥の部屋に臥せっていた倩娘は、これを聞いて、喜ばんか、すくっと起きあがると、すっかり元気になったかのように、化粧を整え、衣を着替える――そうして、ただ、笑みを浮かべたまま、何も言わずに立っている――
 ――そうして、頃合いを見計らったように、家を出て行く
 ――出てゆく倩娘
 ――船からやって来る倩娘
 ――その二人は互いに迎え合った
かと思うと
 ――二人は、そのまま
 ――ぴたりと合って一つの身体(からだ)となり
 ――その着ている衣までもが皆、ぴたりと重なったのであった……

 ……さても……その家では、その出来事があまりのも摩訶不思議なことでもあり、世間体を考えて、これをずっと匿しておったのじゃが……ただ、な、鎰の親戚の中には、やはり、このことを知っておる者がおったのじゃな……その後(のち)、四十年程して、この宙と倩は……その不思議な縁(えにし)の夫婦は共に、とっくに亡くなったというんじゃが……言うておくと、な、その間に出来た二人の息子ちゅうのは、揃って美事、科挙の孝廉科に及第なさってじゃ、それぞれ、県丞(けんじょう)さまと県尉(けんじょう)さまにまでなったということなんじゃ……

 さて、私、玄祐(げんゆう)は、若い頃に、しばしばこの話を聴いたのであるが、その聴く話ごとに、どうも細かな部分に異同があったために、実は、内心、これは下らぬ作り話であろうぐらいにしか、思っていなかったのであった。しかし、代宗の大暦年間(:西暦766~779年。)の末のこと、莱蕪(さいぶ)県(:現在の山東省。)の県令であった張仲※(ちょうちゅうせん)なる者に、機縁の中で、出会った。その時、実は、この話の一部始終を、彼が私に語ってくれたのであった。この話に出てくる張鎰なる人物は、実に、実在したこの仲※の父方の叔父に当たる者であり、そこで語られた話は、真実(まこと)に、詳しいしっかりしたものであったのである。従って、私、玄祐は、今、確かに、これを真実(まこと)の話として、ここに記すものである。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「先」+「見」。]]

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