無門關 二十五 三座説法
二十五 三座説法
仰山和尚、夢見往彌勒所、安第三座。有一尊者、白槌云、今日當第三座説法。山乃起白槌云、摩訶衍法離四句、絶百非。諦聽、諦聽。
無門曰、且道、是説法不説法。開口即失、閉口又喪。不開不閉、十万八千。
頌曰
白日晴天
夢中説夢
捏怪捏怪
誑謼一衆
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
二十五 三座の説法
仰山(ぎやうさん)和尚、夢に彌勒の所に往きて、第三座に安ぜらるるを見る。
一尊者有り、白槌(びやくつい)して云く、
「今日、第三座の説法に當る。」
と。
山乃ち起ち、白槌して云く、
「摩訶衍(まかえん)の法、四句を離れ、百非を絶す。諦聽(たいちやう)、諦聽。」
と。
無門曰く、
「且らく道(い)へ、是れ説法するか、説法せざるか。口を開けば、即ち失し、口を閉づれば、又、喪す。開かざる、閉じざる、十万八千。」
と。
頌して曰く、
白日晴天
夢中に夢を説く
捏怪(ねつかい)捏怪
一衆を誑謼(かうこ)す
*
淵藪野狐禪師訳:
二十五 三座の説法
仰山(ぎょうさん)慧寂和尚は、ある日、兜率天で説法修行をしている弥勒菩薩の元に行き、その会堂の空いていた第三座に座らせられた夢を見た。
暫くすると、一人の高僧が会堂に進み出て、説法の始まりを知らせる清浄な槌を打ち鳴らして言った。
「東西東西(とざいとーざい)――本日の説法ぅ――相勤めまするぅ――第三座の説法ぅ――」
すると仰山はすくっと立ち上がり、その同じ白槌を執って、鮮やかに打ち鳴らすと、次のように言った。
「東西東西――大乗の仏法ぅ――相対を離れぇ――全ての非の彼方にありぃ――心して聴かれぃ――審らかに聴かれよぉ――」
無門、商量して言う。
「さあ! 言うてみよ! 仰山慧寂、説法するか? 説法しないか? 口を開(ひら)くと大間違い! 黙ったままじゃ、分からねえ! そうかと言うて、口開(あ)けないで、口閉じない、それじゃ、尊い仏の教、十万八千、虚空の彼方、飛び消え去って悟達なし!」
と。
次いで囃して歌う。
幻日のハレーション 慄っとするほど青い空
夢 見つつ 夢 語る
奇怪怪怪 鬼気怪怪
会衆 ぎょうさん 騙されよった
[やぶちゃん特別補注:
・四句:「四句分別」のことを指す。これは、ある一つの基準(若しくは二つの基準)に基づき、この世界の存在の在り方を四種の句=命題に分類することを言う。例えば、善(若しくは善と悪)の基準を例にとれば、
第一命題=善なり=非善に非ず=善
第二命題=非善なり=善に非ず=悪
第三命題=善にして亦非善なり=善にして悪なり=善而悪
第四命題=善にも非ず非善にもあらず=善にも非ず悪にも非ず=非善非悪
の四種を引き出すこと。基本的には相対性に縛られた論理と言える。西村恵信氏の注では、ここから100句に至る計算が示されているが、これは私にはよく分からん。
・百非:徹底的に否定し尽くすことを言う。古代インドのウパニシャド哲学では、全非定に徹することで相対認識を超えた絶対認識に到達できると考えたが、仏教ではそれを受けて龍樹が、有無の相対性を、弁証法のように止揚(アウフヘーベン)するように非定に非定を重ねた論法で「空(くう)」の真意を説いたとする(以上の二つの注は、1988年平凡社刊の岩本裕著「日本佛教語大辞典」のそれぞれの記載を参照にした)。
・摩訶衍:本来は8世紀の中国の禅僧摩訶衍(マハヤーナ)を指し、チベットに無念・無想・無作意の悟入を説いた禅を伝えた人物として知られるが、西村恵信氏の注によれば、これは大いなる乗物、という意味で「大乗」と意訳する、とある。]