無門關 開錠状況
現在迄に、全48則中、37則及び本文前に附帯する「(習庵序)」・「(表文)」・「禪宗無門關」及び「(後序)」・「禪箴」・無量宗壽の偈「黄龍三關」・「(孟珙跋)」・「(安晩跋)」安晩に成る「第四十九則語」の9篇を淵藪野狐禪師訳注で収載済であるが、既に、
清税弧貧
洞山三頓
國師三喚
雲門話墮
兜率三關
の4篇は訳注を完了している。また、現在、
女子出定
の訳注作業を始めている。
さても、ここいらで、残っている則が、何故、残っているかが、僕の中ではっきりしてきたので、それを述べて、最後の難関絶壁に非力の登攀を試みようと思う。残っているのは、以下の4則である。
趙州狗子
徳山托鉢
離却語言
趙州勘婆
最初の「趙州狗子」は当初より、最後にすることに決していた。第一則として人口に膾炙したものであるが、それだけにある厳しさを感じる。無門の商量も、特異的に長い。そもそも彼はこれを月林師観から与えられ、何と6年かかっても応えられなかったという、いわくつきの則であるから、敬意を表して。
第十三則の「徳山托鉢」。これは僕にとって難問であったからである。この退屈なシチュエーション全体が、当初はよく分らなかった。今も、はっきりしているとは言えない。これを読んだのが1994年だから、かれこれ、12年経つから、無門にとっての「趙州狗子」ぐらいの難しさが僕にはあるということだろうか。それでも先週のこと、満員電車の中で、この頁を睨みながら、ギュウと化粧臭い若い女に押された瞬間、何だか、分ったような気にはなった。何だ――という感じであった。それでも分っては、きっといないのだ。だから残った。
第二十四則「離却語言」。これは極めて明快。この則に用いられている杜甫の詩なるものが見つからないから。僕が馬鹿なのか。インターネットがおかしいのか。検索をかけても詩聖杜甫の詩のはずなのに、全然、引っ掛かってこないのだ。いろいろな「無門關」のサイトも調べてみたが、杜甫の詩とするばかりで、よく見ると、どの注にも詩題が示されていない。「長憶江南三月裏 鷓鴣啼處百花香」この幻の詩は、何? ご存知の方、御教授を乞う。勿論、分らなくても訳は出来るが、如何にも気持ちが悪いのだ。
第三十一則「趙州勘婆」。これも敢えて言うと、応えが難しいのだ。言わんとすれば、それこそ語るに墜ちたことしか言えないように見えるし、洒落た匕首で肚を抉るという熱意が更に沸いてこない。更に言うと、格好いい「趙州」のネームなんだけれど、それに、この「勘婆」という響きが如何にも回虫が肛門の口に産卵に来たようなムズ痒い印象の悪さを持っているのである。
さてこの、3つ何処からてを附けていいものやら――「ここが思案のしどころぞ。」だな、ハムレット!?