片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》47首追加計220首 その記念としての「軽井沢にありて」全篇掲載
第二歌集『野に住みて』の入手により、「片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》」に47首を追加、計220首とした。年代推定・注記等も多くをやり直した。この際、ついでにカテゴリに「片山廣子」を創始した。
私の注を排除したすっきりした「軽井沢にありて」歌群全篇をここに掲げてその記念とする。
軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)
(以下は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の全篇である。)
日中
信濃追分にて
はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし
しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ
風あらく大空のにごり澄みにけり山山に白き巻雲をのこし
板屋根のふるび静かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり
さびしさの大なる現はれの浅間山さやかなりけふの青空のなかに
影もなく白き路かな信濃なる追分みちわかれめに来つ
われら三人影もおとさぬ日中(につちう)に立つて清水のながれを見てをる
しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ
土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり来てみればのびろし畑は
明るすぎる野はらの空気まなつ日の荒さをもちて迫りくるなり
日傘させどまはりに日あり足もとの細ながれを見つつ人の来るを待つ
日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ
四五本の樹のかげにある腰掛場ことしも来たり腰かけてみる
しろじろとうら葉の光る樹樹ありて山すその風に吹かれたるかな
われわれも牧場のけものらと同じやうに静かになりて風に吹かれつつ
友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな
をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま
はじめて六里ヶ原にあそぶ
わがさきに夕だちすぎけむ溶岩のくづれたる路のいちめんの露
わが上をひとむらの雲流れゆく村雨をはりいま青きそら
のぼりこし山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄ろき日のひかり
小瀬渓にこの松山はつづくといふ松の葉光りどこまでも松の山
山あひの空のあかるき日だまりにわれらの煙草のけむり尾をひく
赤砂の浅間のやまの山ひだに光るすぢあり陽にふるへつつ
尾のひかる白き白きけもののかたちして雲一つとほる浅間のおもてに
雨遠くすぎ日の透きとほる草丘は一めんにほそき芒の穂ばかり
草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする
青くさの傾斜のむかふ大ぞらに光る山山は荒浪のごとく
生きものはわれのみと思ひゐたる野原の遠くに牛群れて立てり
とほくて顔もみえざる野うしども野のところどころに時どき動く
八月の空気の中の一ところわが心のまはり暗きかげあり
わがむすめそばなる母を忘れはて野原のなかにさびしげなるかな
雲を見るわが子の瞳くろぐろとこの野のなかに静かなるかな
野のひろさ吾をかこめり人の世の人なることのいまは悲しき
野の遠くに雲の影うごき一ぽんの樹の立つところも曇りたるかな
碓氷
見晴台にのぼりて
一ぽんの木もなき山のたひらなりねぼけたる鴉うへを鳴きゆく
山も山も霞の中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山
しめり風いちめんの熊笹に音を立つこの山も今かすみの中ならむ
遠みねのほのかなるいろの山ざくら散りつつやある山つちましろに
しろき蛾
つるや旅館、もみぢの部屋にて
白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに
亡き友のやどりし部屋に一夜寝て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ
あさ暗きねどこに聞けばこの部屋をとりまく樹樹に雨降りてをり
午前九時庭樹あかるし茶をいれてわが飲む音をきけばをかしく
湯上がりのわが見る鏡ふかぶかと青ぐらき部屋の中に澄みたり
せと火鉢湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の来たり畳にとまる
雨
昭和十三年六月、軽井沢愛宕の奥に堀辰雄氏を訪ふ
風まじり雨降る山に杉皮の家ぬれてゐたり君はいますや
栗鼠なりしや雨ひかり降る前庭をはしり過ぎたる小さきものは
雨つゆの降りかかる木の間くぐり来て君が家の庭に栗鼠のはしる見たり
そらおほふ木の葉に雨のあたるおと樅の木肌を流れおちる水
むすめらしくほそき姿のわかづまは黒き毛いとの上衣を着たり
フランスの新聞をこまく裂きて堀辰雄暖炉の火をもす
大き炉にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ
山すその町
かれ葦はら青葦すでに育ちゐてあめつちの動き頼まるるなり
山すその町はひそかに灯をかくし屋根屋根くろく月も曇りたる
七月
七月の青きいのちはすさまじく馬越(まごえ)の原に葦さやぐなり
葦はらの中の砂地に立ちとまり人がうしろから来るやうにおもふ
わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり
苔庭
軽井沢の町のちかき室生犀星氏の庭にて
洞庭の湖(うみ)かたどりし苔庭にゆれ映る日を見ていましけり
初冬
かれ葦と枯木かさかさ音たつる野みちを過ぎて友が家に来ぬ
夏庭に影をひろげし大木なり一葉も保(も)たず風にふかるる
ふと薪と白樺の枝(え)も古板も大き炉に燃しあたたまる部屋
霜つよく草枯れはつる夜もひるも炉をあかく燃す野のひとつ家
冬来たる野なかの家に炉をもして熱きあづきをもてなされつつ
家ゆする山かぜはげし朴の葉も紅葉も捲きてふきとばさるる
山おろし木の葉吹きちらす野を越えてまさやかに濃く浅間がみゆる
こがらしに雲ちぎれ浮く野に来たり見むとおもはぬ浅間に遇へる