無門關 黄龍三關(無量宗壽偈)
黄龍三關
我手何似佛手。摸得枕頭背後。不覺大笑呵呵。元來通身是手。
我脚何似驢脚。未舉歩時踏著。一任四海橫行。倒跨楊岐三脚。
人人有箇生縁。各各透徹機先。那※折骨還父。五祖豈藉爺縁。
佛手驢脚生縁。非佛非道非禪。莫怪無門關險。結盡衲子深冤。
瑞巖近日有無門。掇向繩床判古今。凡聖路頭倶截斷。幾多蟠蟄起雷音。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
請無門首座立僧。山偈奉謝。
紹定庚寅季春。無量宗壽書。
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
黄龍(をうりやう)の三關
我が手(しゆ)、佛手(ぶつしゆ)と何-似(いづ)れぞ。枕頭の背後を摸(さぐ)り得たり。覺えず、大笑す、呵呵(かか)。元來、通身、是れ手(しゆ)なり。
我が脚(きやく)、驢脚(ろきやく)と何似れぞ。未だ歩(ほ)を舉(こ)せざる時、踏著(たふぢやく)す。四海に橫行するに一任す。倒(さか)しまに楊岐が三脚に跨(また)がる。
人人、箇の生縁(しやうえん)有り。各各、機先を透徹す。那※(なた)、骨を折(さ)きて父に還す。五祖、豈に爺(や)の縁に藉(よ)らんや。
佛手と驢脚と生縁と。佛にあらず、道に非ず、禪に非ず。怪しむこと莫かれ、無門關の險なることを。衲子(のつす)の深冤(じんゑん)を結盡す。
瑞巖、近日、無門有り。繩床(じやうしやう)に掇向(てつかう)して古今を判ず。凡聖(ぼんしやう)の路頭、倶に截斷(せつだん)す。幾多の蟠蟄(ばんちつ)、雷音を起こす。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
無門首座(しゆそ)を請じて立僧とす。山偈(さんげ)をもつて謝し奉る。
紹定(じやうてい)庚寅(かのえとら)季春。無量宗壽書す。
*
淵藪野狐禪師訳:
黄龍の三關
私の手は仏の手と比して、どうか?――私は枕の後ろを手探りして分かった。思わずカッカッと大笑いをしてしまった――もともと、体自体が手そのもの。
我の脚(あし)は、驢馬の脚と比して、どうか?――それを見比べるための上げ脚を未だにちっともしていないうちに、最早、ど~んと大地を踏み据えてしまっていた――この世界を股にかけて余すところ無く歩く。そのためには、かえって楊岐禅師の三本脚の驢馬に跨るのが何より。
人にはそれぞれ、生れついての因縁がある。そのそれぞれが、鮮やかな機先の働きへと玄妙に通底している。――那※(なた)太子は、己が肉体の骨を抜き取って元の父に還したというではないか。どうして今更、わざわざ老爺(ラオパン)五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁(えにし)をわざわざ必要とすることがあるであろうか、いや、全く以って無用である。
黄龍慧南禅師が示した、仏の手と、驢馬の脚と、生れつきの縁(えにし)と――それらは、「仏ではなく」、「道ではなく」、「禅ではない」――咎めてはいけない、『無門関』が険しいことを、いや、その険しさ故に、多くの修行者が、深い恨みを、収縮したブラック・ホールのように、『無門関』の空間に出現させていることを。
私の居るこの瑞巖寺では、最近、無門和尚が来て居る。繩で編んだ説法の腰掛けにどんと座り込んで、真っ向を向くと、今は昔のエピソードを、一つ一つ、商量している。商量とは言うものの、その実、それがたとえ凡であろうが聖であろうが、一刀両断にしてしまうのである――さても……それを聴いて、どれだけのトグロを巻いた有象無象の蛇ぐさどもが、美事、昇龍となって、天空に雷音を轟かすことが出来るか。
[やぶちゃん字注:「※」=「口」+(「托」-「扌」)。]
無門慧開禅師をお招きして会衆に法を説く立僧首座となって頂いた。その御礼にこの如何にも田舎臭い偈(げ)を以って感謝の意を表し、奉りまする。
紹定(じょうてい)庚寅(かのえとら:西暦1230年。)三月 無量宗寿書
[やぶちゃん注:以上は、最後に記されているように、当時の宋の名刹、浙江省丹丘にあった瑞巌寺の僧、臨済宗大慧派無量宗壽(むりょうそうじゅ:生没年未詳)の偈である。ここにしめされた「黄龍の三關」という公案は、北宋の禅者、臨済宗黄龍派始祖黄龍慧南(おうりょうえなん:1002~1069)が常に参禅した会衆に出したものとして有名なものである。「楊岐禅師の三本脚の驢馬」と訳した部分は、北宋の臨済宗楊岐派の始祖(無門もこの派)楊岐方会(993~1046)の公案に基づく。西村注によれば、『僧が楊岐方会(ようぎほうえ)に「如何なるかこれ仏」と問うたのに対し、楊岐が「三脚の驢子、踵を弄して行く」と答えた(『古尊宿語録』楊岐方会章、『卍続蔵』一一八―三九八下)ことから、楊岐の宗風を三脚の驢子と称する。』とある。「五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁」の「五祖大満」とは禅宗第五祖弘忍大満(602~675)で、西村注によれば『前世に栽松道者という老人であったが、四祖道信の法を聴くためにみずから死んで一女の胎内に入り、この世に生まれて五祖となったという』、ここはその故事に引っ掛けたもの謂いである。「紹定庚寅三月」とあるが、無門慧開が先の後序を書いたのが、紹定改元の1228年の7月であるから、それより1年8箇月後のこととなる。「那※(なた)」[「※」=「口」+(「托」-「扌」)]は道教の神仙の一人。nalakuubaraナラクーバラで、本来はインドの神話の神。後に仏教の主護神として中国に伝えられ、更に道教に取り入れられて那※三太子等とも呼ばれる。中国に於ける毘沙門天信仰が高まると、毘沙門天は唐代初期の武将李靖と同一視され、道教でも托塔李天王の名で崇められる様になった。それに伴い、その第三太子という設定で那※太子も道教に取り入れられた。現在は「西遊記」「封神演義」などの登場人物として人口に膾炙する。分りやすい「西遊記」の出自では托塔天王の第三太子(「封神演義」では陳塘関の、後に托塔天王となる李靖将軍の第三太子)。生後三日で海中の水晶宮で蛟龍の背筋を抜く凄まじい臂力の持ち主であったが、その非道ゆえに父が彼に殺意を抱いたため、自ら身体を切り刻み、その肉を父に、骨を母に返したとする。後、その魂はその行為に感じた仏性により再生し、父とも釈迦如来の慈悲により和解したという設定で、例の天界で大暴れする孫悟空の討伐に出陣するが敗れる。後半の三蔵法師取経の旅にあっては、悟空の仲間・取経の守護神に一変、何度か見舞われる危機を救う好漢として登場する。]