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2009/04/30

無門關 四十二 女子出定

★★★これは是が非でも注の最後まで見て下さい。私のエノケンへの思いの長けを、どうかお読み頂きたいのです。他にも面白いところがあると思いますよ、キット!★★★

  四十二 女子出定

世尊、昔、因文殊、至諸佛集處値諸佛各還本處。惟有一女人近彼佛坐入於三昧。文殊乃白佛、云何女人得近佛坐而我不得。佛告文殊、汝但覺此女、令從三昧起、汝自問之。文殊遶女人三帀、鳴指一下、乃托至梵天盡其神力而不能出。世尊云、假使百千文殊亦出此女人定不得。下方過一十二億河沙國土有罔明菩薩。能出此女人定。須臾罔明大士、從地湧出禮拜世尊。世尊敕罔明。却至女人前鳴指一下。女人於是從定而出。

無門曰、釋迦老子、做者一場雜劇、不通小小。且道、文殊是七佛之師、因甚出 女人定不得。罔明初地菩薩、爲甚却出得。若向者裏見得親切、業識忙忙那伽大定。

頌曰

出得出不得
渠儂得自由
神頭并鬼面
敗闕當風流

淵藪野狐禪師書き下し文:

  四十二 女子の出定(しゆつじやう)

 世尊。昔、因みに文殊、諸佛の集まる處に至りて諸佛各々本處(ほんじよ)に還るに値(あ)ふ。惟(た)だ一の女人有りて、彼の佛座に近づいて三昧に入る。
 文殊乃ち佛に白(まう)さく、
「云-何(いかん)ぞ、女人(によにん)は佛座に近づくことを得て、我は得ざる。」
と。
 佛、文殊に告ぐ、
「汝、但だ此の女を覺(さま)して、三昧より起たしめて、汝自から之れを問へ。」
と。
 文殊、女人を遶(めぐ)ること三帀(さんさう)、指を鳴らすこと一下(いちげ)して、乃ち托(たく)して、梵天に至りて、其の神力(じんりき)を盡くすも、出だすこと能はず。
 世尊云く、
「假-使(たと)ひ百千の文殊も亦た、此の女人を定(じやう)より出すことを得ず。下方一十二億河沙(がしや)の國土を過ぎて、罔明(まうみやう)菩薩有り。能く此の女人を定より出ださん。」
と。
 須臾(しゆゆ)に罔明大士、地より湧出して世尊を禮拜す。世尊、罔明に勅す。
 却りて女人の前に至りて指を鳴らすこと、一下す。女人、是に於いて、定より出ず。

 無門曰く、
「釋迦老子、者(こ)の一場の雜劇を做(な)す、小小を通ぜず。且らく道(い)へ、文殊は是れ、七佛の師、甚(なん)に因りてか、女人を定より出だすことを得ざる。罔明は初地(しよぢ)の菩薩、甚としてか、却りて出だし得る。若し者裏(しやり)に向かひて見得して親切ならば、業識忙忙(ごふしきばうばう)として那伽大定(ながだいじやう)ならん。」
と。

 頌して曰く、

出得するも出不得なるも
渠(かれ)と儂(われ)と自由を得たり
神頭(しんづ)并びに鬼面
敗闕(はいけつ) 當に風流たるべし

淵藪野狐禪師訳:

  四十二 女の出定

 昔、お釈迦さまが説法を開いておられた。機縁の中で、文殊菩薩は、その説法が終わってから、諸仏が集まっていたその会堂に辿り着いたのであったが、諸仏は続々とそれぞれの在るべき本来の居所へと還ってゆく。言わば、その時に文殊は逆に会堂へと入ったのであった。
 ところが、ふと見ると、ただ一人の女人がそこに未だ居て、それも、あろうことか、お釈迦さまのすぐ近くに座を占めて、完全な深い三昧(さんまい)境に入っているのであった。
 文殊菩薩は、即座に、お釈迦さまに申し上げた。
「どうしてこの、穢れた女人如きがあなたのご尊座に近づくことが出来、私には出来ないのですか!」
その口吻は、如何にもな不服の意を含んでいた。
 お釈迦さまは、文殊に命じて言った。
「我が智慧第一たる文殊菩薩よ、そなたがその無上の智を持って、ただ、その三昧からこの女を目覚めさせ、そなた自身が、直接、女にそれを訊ねてみるがよかろう。」
 そこで文殊菩薩は、女の周囲を右回りに三度巡って、指をパツンと鳴らすやいなや、忽ちのうちに、巨大になり、その女を掌の上に載せると、欲界を遠く離れた梵天の高みにまで至って無類の清浄の気を女に含ませることに始めて、その智慧の、ありとあらゆる神通力を使い尽くして、女の覚醒を試みたのであった――ところが、である――女は三昧から、いっこうに抜け出る気配がない――いや、文殊菩薩とあろう者が、卑しい女一人をその定(じょう)から抜け出させることさえ、出来ないのであった。
 途方に暮れている文殊を尻目に、お釈迦さまは、おもむろに言った。
「たとえ百人の文殊菩薩――いやいや、千人の文殊菩薩が総手で取り掛かったとしても、この女人をこの恐ろしく深い定から目覚めさせることは――出来ぬ――しかし、この極楽の遙か下(しも)つ方(かた)、十二億恒河沙(こうがしゃ)の距離を数える、遠く、暗い地に、罔明(もうみょう)菩薩という修行者がおる――この男ならば――いや、この男だけが、この女人を、この恐ろしい定から目覚めさせることが出来るであろう。」
 すると、言うが早いか、あっという間に、今、名を呼ばれた壮士罔明が、颯爽と、十二億恒河沙の地の果てより湧き出でたかのように現れ、お釈迦さまに、うやうやしく礼拝した。
 お釈迦さまは、罔明菩薩に、黙って女人を指し示された。
 罔明菩薩は、すぐに女人の前に進み出、指をただ一度だけ、パツンと鳴らした――ただ、一度、ただそれだけ――女人は、その時、已に恐ろしいその定から救い出されていたのであった――

 無門、商量して言う。
「老いぼれてオシャカになったか、お釋迦さま? 衣装は無花果(いちじく)、葉が一枚、キャスト・スタッフ、総勢一名、一人芝居もいいところ、幼稚園児の学芸会、言葉に出来ない、低次元、大根役者も中毒死。――《お釈迦さま》「プロンプター! ちょっと台詞言ってみて!?」《お釈迦さまの独白》『あっ、そうか、俺一人しかいないんだった……』――ともかく、何とか言ってみな! 文殊菩薩と言うた日にゃ、過去七仏の一人だぜ!? 文殊の知恵だぜ!? 何たって! そいつがどうして変生男子(へんじょうなんし)、女如きを三昧から、救い出すこと出来ないの!? 罔明何て名前から、してから如何にも、どんクサク、ね? こいつは罔(くら)いどころじゃない、この「罔」の字は「無」の意だぜ! おいおい聞いたことがねえ! 無明菩薩たぁ、何の謂いじゃい? ドン暗、盆暗、ドン底の、菩薩のケツのその下(げ)ケツ、得体の知れぬ菩薩の骨、名前ばかりの菩薩じゃん!? ソイツがどうして女など、救えたのかをシャウトしろ! もしこの、クライ・マックス、バッチリと、スポット・ライトで照らせたら――そん時ゃ外見(そとみ)は、前世の、業(ごう)に縛られ、あちこちと、引き回されて、いっかな惨め、だけどその実内実は、清浄寂滅、透明の、ホントにホントの三昧境。」

 次いで囃して言う。

『出せる』様(さま)にあることも 『出せない』様にあることも
どちらも自由のただ中に 活殺自在の中に『在る』
思い出すのは あのお面
 ――笑っちゃいけない九品仏(くほんぶつ) 来迎(らいごう)してきた菩薩面
 ――息がつまって慄っとする 能「道成寺」般若面
舞台復帰大記念! 喜劇「エノケンの文殊菩薩危機一髪!」――『満員御礼』!

[淵藪野狐禪師注:この公案には、以下の注で記した以外にも、私には多くの、一見、杜撰な設定が見られるように思われる。それは確信犯なのかのしれないし、そうではなく、ただ創作者の力不足の故なのかも知れない。それ自体が、公案のブービー・トラップなのかも知れない。
・「出定」の「定」は、精神を集中して心を乱さない精神状態を言う。三昧・禅定に同じ。
・「文殊」文殊師利(もんじゅしゅり)菩薩のこと。通称の文殊菩薩は略称である。梵語(サンスクリット語)の“maJjuzrii”マンジュシュリーの漢訳。一般には菩薩中の智慧第一、釈迦(仏法)の智慧そのものを象徴する存在である。
・「文殊、諸佛の集まる處に至りて諸佛各々本處に還るに値ふ」この前提そのものが、如何にも意味深長ではなかろうか。その辺りを、私なりの解釈で、現代語訳してある。これはこの公案の一つの鍵ではなかろうか。
・「女人を遶ること三帀」の「三帀」は正しくは「右繞三帀(うにょうさんそう)」という最高の礼法。仏や神聖な対象に一礼、右側回りに三回巡る。ここで文殊がこの女人に対して、いくら釈迦の傍に居られるからといって、その作法を行っているのは、異例なことではなかろうか。これもこの公案の一つの鍵か。
・「梵天」梵語(サンスクリット語)“Brahman”の漢訳。本来は古代インドの世界観の中で創造主・宇宙的原理の根源とされたブラフマンの神格化されたもの。仏教に取り入れられて仏法を護持する仏となり、色界の初禅天の王を言う。そこから、その色界の空間である初禅天そのものを指すようにもなった。初禅天(梵天)自体は更に大梵天・梵輔天・梵衆天の三天からなるが、特に「梵天」と言った場合は大梵天をさす。色界十八天の中の下から第三番目の天に当たるが、そもそもがこの色界に住む天人自体が、食欲・淫欲・性別がなく、光明を食べ物としている(但し、情欲・色欲はあるとする)、極めて清浄な天である。
・「罔明」は、まさに超マイナーな菩薩らしい。いくら調べても、正体が分らない。筋書きから見ても、とりあえずは最下級の菩薩ととってよかろう。
・「恒河沙」数の単位。一般的には10⁵²(または10⁵⁶)とする。「恒河」はガンジス川を示す梵語(サンスクリット語)“Ganga”の漢訳。ガンジス川にある総ての砂の数を言う。本来は、無限を意味するものとして古くから仏典で用いられた。
・「雜劇」とは、中国の宋代に始まる演劇の一種。宋代にあっては主に滑稽な風刺劇という内容、元代にあっては「元曲」とも呼ばれる、高度な音楽性を持った歌劇風のものを言った。「頌」に現れる「神頭」及び「鬼面」というのは、そうした宋代の雜劇の演目に登場する神仙鬼神の面を指している。
・「変生男子」とは、仏教に於いて、現世で女である場合は成仏することが出来ず、後世(ごぜ)で男に生まれ変わることで、成仏が可能となるという女性差別思想。「法華経」の提婆達多品(だいばだったぼん)に由来とすると言われるが、実際には釈迦の思想自体には、このようなはっきりした体系(業の意識)はなかったと思われる。
・「過去七仏」とは、釈迦以前に存在した7人の仏陀(修行の果てに悟道に達した人)をいう。我々の一般的な歴史認識は釈迦を仏教の始点とするために奇異な感覚が生じるが、仏法は普遍の真理として当然それ以前から、否、時空を超えて永劫に『在る』わけであり、この過去仏が居なければ、逆に論理的でないとも言えよう。最も古い過去世の仏を毘婆尸仏(びばしぶつ)と呼び、以下順に尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・倶留孫仏(くるそんぶつ)・倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)、そして釈迦仏である。
・「業識忙忙」は、幾つかの注釈を参考にして総合的に考えると、『前世の業によって、永劫、六道を輪廻転生せねばならないのか』という認識に人が囚われてしまうことを言う語と思われる。
・「那伽大定」の「那伽」は梵語(サンスクリット語)の“Nāga”で、本来はインドの神話上の蛇神であったが、釈迦が菩提を得た際に守護したとされることから、仏教では中国の竜王に習合し、仏法の守護神となった。また、龍は常に空に静止し、そこで深い思慮に入っているという伝説からであろうか、先に注した三昧・禅定と同義的となり、僧が悟道に達することを「那伽大定」と呼ぶようになった。従って、ここの「業識忙忙として那伽大定ならん」は極めて逆説的なことを、圧縮して表現していることに注意しなくてはならない。西村注ではここに『苦しみの真っ只中にいて、しかも寂滅の心境に住すること』とある。
・「九品仏」「来迎してきた菩薩面」というのは、浄真寺二十五菩薩来迎会(らいごうえ)の私の印象である。浄真寺は東京都世田谷区奥沢にある浄土宗の寺。東急大井町線の駅名「九品仏」は本寺の通称である。上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生までの九品(くぼん)往生の印を結んだ阿弥陀仏九体を祀る(但し、この印は手印ではなく、唇の端の部分で示しているため、視認による判別は至難)。この寺には通称『お面かぶり』、二十五菩薩来迎会という祭儀がある。三年に一度行われるもので、本堂と上品堂との間の空中に渡された橋を、阿弥陀如来を先頭に、二十五菩薩が渡御するものである。この如来・菩薩面はフル・フェイス・マスクで、実際の僧侶らが被って行う。ご存じない方は、「NPO法人無形民俗文化財アーカイブズ」の「浄真寺の二十五菩薩練供養 東京都指定無形民俗文化財」の動画を是非、ご覧あれ。稚児達は可愛いいんだけど……。
・「エノケン復活」小さな頃、私はエノケン、榎本健一(1904~1970)が大好きだった(すでに本『無門關』では、第七則と第二十六則に登場しているのだが)。1962年に再発した脱疽のために彼は右足を大腿部から切断した。私はその後、奇跡の復活を果たして、当たり役「エノケンの孫悟空」の舞台に復活登場した彼を映像で見たことがある。涙が止まらなかった――「エノケンの文殊菩薩危機一髪!」――そんなエノケンで、こんなのがあったら見てみたいと思った、これは勿論、架空の演題である。因みに、私の一番好きなエノケンの主演映画は1954年佐藤武監督の「エノケンの天国と地獄」に止めを刺す。笑えて泣ける!]

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