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2009/04/29

無門關 二十三 不思善惡

  二十三 不思善惡

六祖、因明上座、趁至大庾嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信。 可力爭耶、任君將去。明遂擧之如山不動、踟蹰悚慄。 明白、我來 求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善、不思惡、正與麼時、那箇是明上座本來面目。明當下大悟、遍體汗流。泣涙作禮、問曰、上來密語密意外、還更有意旨否。祖曰、我今爲汝説者、即非密也。汝若返照自己面目、密却在汝邊。明云、某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。今蒙指授入處、如人飲水冷暖自知。今行者即是某甲師也。祖云、汝若如是則吾與汝同師黄梅。善自護持。

無問曰、六祖可謂、是事出急家老婆心切。譬如新茘支剥了殻去了核、送在你口裏、只要你嚥一嚥。

頌曰

描不成兮畫不就
贊不及兮休生受
本來面目没處藏
世界壞時渠不朽

淵藪野狐禪師書き下し文:

  二十三 善惡を思はず

 六祖、因みに明(みやう)上座、趁(お)ふて、大庾嶺(だいゆれい)に至る。
 祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲(な)げて云く、
「此の衣(え)は信を表す。力をもちて爭ふべけんや、君が將(も)ち去るに任す。」
と。
 明、遂に之れを擧ぐるに、山のごとくに動ぜず、踟蹰(ちちう)悚慄(しやうりつ)す。
 明曰く、
「我は來たりて法を求む、衣の爲にするに非ず。願はくは行者(あんじや)、開示したまへ。」
と。
 祖云く、
「不思善、不思惡、正與麼(しやうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目。」
と。
 明、當下(たうげ)に大悟、遍體、汗、流る。泣涙(きふるい)作禮(されい)し、問ふて曰く、
「上來(じやうらい)の密語密意の外、還りて更に意旨(いし)有りや。」
と。
 祖曰く、
「我れ今、汝が爲に説く者は、即ち密に非ず。汝、若し自己の面目を返照(はんせう)せば、密は却りて汝が邊(へん)に在らん。」
と。
 明云く、
「某-甲(それがし)、黄梅(わうばい)に在りて衆に隨ふと雖も、實に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入處(につしよ)を指授(しじゆ)することを蒙(かうむ)りて、人の水を飮みて冷暖自知するがごとし。今、行者は、即ち是れ、某甲の師なり。」
と。
 祖云く、
「汝、若し是くのごとくならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自(おのづ)から護持せよ。」
と。

 無門曰く、
「六祖、謂ひつべし、是の事は急家(きふけ)より出でて老婆心切なり、と。譬へば、新しき茘支(れいし)の殼を剥ぎ了(をは)り、核を去り了りて、你(なんぢ)が口裏(くり)に送在して、只だ你(なんぢ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するがごとし。」
と。

 頌して曰く、

描(ゑが)けども成らず 畫(ゑが)けども就(な)らず
贊するも及ばず 生受(さんじゆ)することを休(や)めよ
本來の面目 藏(かく)すに處(ところ)沒(な)し
世界の壞時(えじ) 渠(かれ) 朽ちず

淵藪野狐禪師訳:

  二十三 善惡を思はず

 六祖慧能が、慧能自身が五祖弘忍から嗣(つ)いだ法灯をそのままに、蒙山恵明(けいみょう)に嗣いだ時の話である。
 慧能は、ある日、ぷいと自分がそれまでいた寺を出てしまった。
 当時、未だその同じ寺で上座を勤めていた恵明は、機縁の中で、慧能の後を追いかけて行き、遂に大庾嶺(だいゆれい)の山中で追いついたのであった。
 慧能は、恵明の姿が見えるや、即座にその袈裟を脱ぎ、鉢(はつ)もろともに、傍にあった岩の上にぽんと投げて、
「この袈裟は、拙僧が五祖弘忍さまから真実(まこと)の伝法を受けた証しとして、受け嗣いだもの――臂力権力を以って、争い奪い去る如きものでは、ない――あなたが、勝手に持ってゆかれるがよろしいかろう。」
と言って、穏やかな表情で恵明に対した。
 恵明は、形ばかりの礼を示して、慧能の膝下に跪いていたが、その言葉を聞くや、かっと見開いた鋭い眼を上げると、慧能を凝っと見据えた。そうして、即座に躍り上がるや、慧能を見つめたまま、すぐ脇の石の上の衣鉢(いはつ)に手を伸ばして、荒々しくそれを取り挙げようした。
 ――動かない!?
恵明は恐懼(きょうく)して、黙ったまま、思わず衣鉢をきっと見つめるや、今度は両手でそれをぐいと摑むと、渾身の力を込めて持ち上げようとした。
 ――動かぬ!
薄くぼろぼろになった袈裟と粗末な鉢と――それが、如何にしても、山の如く微動だにせぬのであった。
 恵明は、諦めて手を離すと、再び、慧能の前に土下座し、余りの恥かしさから、とまどい、また、恐れ戦(おのの)き、へどもどしながらも弁解して言った。
「……私めが、ここまで行者(ぎょうじゃ)を追いかけて参りましたのは、その『法』そのものを求めんがため……袈裟のためにしたことでは、御座らぬ……どうか、行者! 私めのために、悟りの真実(まこと)を開示して下されい!……」
 すると慧能は、優しい声で問いかけた。
「遠く遙かに善悪の彼岸へ至り得た、まさにその時、何がこれ、明上座、そなたの本来の姿であるか?」
 ――その言葉を聴いた刹那、恵明は正に大悟していた。
 恵明の体じゅうから汗が噴き出したかと思うと、瀧のように下り、涙はとめどなく流れ落ちた――暫らくして、身を正した恵明は、慧能にうやうやしく礼拝すると、謹んで誠意を込めて訊ねた。
「只今、頂戴し、確かに私めのものとし得た密かな呪言、聖なる秘蹟以外に、もっと別の『何か深き秘儀』は御座いませぬか?」
 慧能は、ゆっくりと首を横に振りながら、穏やかに答えた。
「拙僧が今、あなたのために示し得たものは、総てが、秘儀でも、何でもない。あなたが、自分自身の本来の姿を正しく振り返って見たならば、きっとその『秘儀なるもの』は、かえって、あなたのの中にこそ、あるであろう。」
 恵明は、莞爾として笑うと、
「拙者は、黄梅(おうばい)山にあって、かの五祖弘忍さまの下(もと)、多くの会衆とともにその教えに従い、修行に励んで参りました――しかし、実のところ、一度として、己(おのれ)の本来の姿を『知る』ということは、出来ませなんだ――ところが今、あなたさまから『ここぞ!』というお示しを頂戴し――丁度、人が生れて初めて水を飮んでみて、初めてその『冷たい!』ということ、また、『暖かい!』ということを、自(おの)ずから知ることが出来た――それと全く同じで御座いました――今、行者さま! あなたはまさしく、拙者の師で御座いまする。」
と言って、地に頭をすりつけた。
 すると慧能は、ゆっくりとしゃがんむと、その両手で、土に汚れた恵明の両手をとり、諭すように言った。
「あなたが、もし言われた通りであられるなら、則ち私とあなたと――この二人は、共に黄梅の五祖弘忍さまを師としようとする者――どうか心からその法灯を堅くお守りあられよ。」
 ――恵明には、その慧能の声が、あたかも大庾嶺の峨々たる峰々に木霊しながら、遠く遙かな彼岸から聞こえてくる鐘の音(ね)のようにも思われたのであった――

 無門、商量して言う。
「ヒップな六祖、言うならば、『やっちまたぜ! 老婆心! 有難迷惑! 至極千万! 小ずるい恵明に法灯を、渡してどないするんじゃい!』。喩えて言えば、新しい、茘支(ライチ)の殼を、剥(む)き剥きし、核(たね)までしっかり取り去って――『坊ちゃん、お口を、はい、ア~ン! 後は、自分でゴックン、ヨ♡』――」

 次いで囃して言う。

描(か)いても描いても成りませぬ 彩(いろど)ってみても落ち着きませぬ
当然 画讃も書けませぬ だから礼には及びませぬ
生れたマンマのスッポンポン
壊劫(えこう)にあっても朽ちませぬ

[やぶちゃん注:「大庾嶺」は、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺にまたがる山。「頌」の訳で用いた「壊劫」は、仏教で言う四劫(しこう)の第三期。四劫とは仏教での一つの世界の成立から存在の消失後までの時間を四期に分けたもので、その世界の成立とそこに生きる一切衆生(生きとし生ける総ての生物)が生成出現する第一期を成劫(じょうごう)、その世界の存続と人間が種を保存して生存している第二期を住劫、世界が崩壊へと向かい完全に潰滅するまでの第三期を壊劫、その後の空無の最終期を空劫(くうこう)と呼ぶ。この四劫全部の時間を合わせたものを一大劫(いちたいこう)と呼ぶ。]

★  ★  ★

今回の訳は、調子こいて、小説風に潤色してある(当初はシナリオ風にしようと思ったが、五祖の台詞が静謐でありながら重いため、思いの外、難しく、断念した)。正直、この則、すこぶる映像的である上に、ロケである点、開放的で、大好きな則なのである。本当は最後のところ、大庾嶺を小さくなってゆく慧能の後姿と、それを何時までも見送る恵明の後姿を超広角で撮った映像を、もってきたかったなあ――

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