無門關 安晩跋 + 第四十九則語(安晩作)
(安晩跋)
無門老禪、作四十八則語判斷古德公案。大似賣油餠人、令買家開口接了、更呑吐不得。然雖如是、安晩欲就渠熱爐熬上、再打一枚足成大衍之數、却仍前送似。未知老師從何處下牙。如一口喫得、放光動地。若猶未也、連見在四十八箇、都成熱沙去。速道、速道。
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淵藪野狐禪師書き下し文:
(安晩の跋)
無門老禪、四十八則の語を作(な)して古德の公案を判斷す。大いに似たり、油餠(ゆべい)を賣る人、買家をして口を開かせて接し了(をは)り、更に呑吐とすることを得ざるに。是くのごとく然ると雖も、安晩、渠(か)の熱爐熬上(がうじやう)に就き、再び一枚を打ちて、大衍(だいえん)の數を足し成し、却りて前に仍(よ)りて送似(さうじ)せんと欲す。未だ知らず、老師、何れの處より牙(は)を下さんかは。如(も)し一口(いつく)に喫(きつ)し得ば、光を放ちて、地、動く。若し猶ほ未だせざるがごとくんば、見在の四十八箇を連ねて、都(すべ)て熱沙と成し去らん。速やかに道(い)へ、速やかに道へ。
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淵藪野狐禪師訳:
(安晩の跋)
無門慧開老禅師は、四十八則の話を編集され、古えの幾多の優れた禅師の公案について商量なされた。それはあたかも、油餠(ユウピン)を売る人が、突如、目の前の買い手の口を無理矢理こじ開けて、今、揚げたての、それこそ油がジュウジュウ撥ねているそれを、ぐいと突っ込み、そうしたその上に、それを呑み込むことも、吐き出すことも出来ないようにさせるのと、極めてよく似ている。このように私はそれをよく理解しているけれども、それでも、私、安晩は、かの熱くカンカンに灼(や)けている鍋を用いて、もう一枚の油餠(ユウピン)をパパンとうち焼いて、これに一(いち)足(た)し、「易経」で言うところの神聖なる大衍(だいえん)の数、即ち四十九則に足し成した上で、無門禅師の最初の版行にならって、再び同様に新生『無門關』として世に送り出そうと思う。――勿論、皆目分からぬ、無門老師が、この私の新しいアツアツの油餠(ユウピン)を瞬時に嚙み裂いてしまう時、一体どこに、その最初の鋭い牙(きば)をお下しになるかは――。
さて、この私のアツアツの油餠(ユウピン)一枚――
お前!
もしこれを、一口で喰らうことが出来たなら、天は眩しく輝き、地も激しく鳴動する――
しかし、もし一嚙みすることも出来なんだら、これまでの四十八枚の油餠(ユウピン)総てが、カンカンの鍋の中で、虚しく雁首揃えて、すっかり細かな熱い砂粒と化してしまうであろう。さあ、早く、答えよ! さあ、さっさと答えんか!
[淵藪野狐禪師注:
・「安晩」は本名、鄭清之(1176~1251)。南宋の政治家。1217年に進士に及第、峡州教授、1223年には国子学録となる。史弥遠(しびえん:1164~1233。南宋の政治家。南宋の第四代皇帝寧宗の礼部侍郎として実権を伸ばし、1208年に宰相に就任、寧宗の死後は理宗を擁立して、権力を恣にした。しかし民衆には重税が課せられ、表向きの文治主義が重んじられる一方、軍事力が著しく低下、南宋滅亡の遠因を作ったとされる)らによる理宗擁立工作に協力したため、順調に昇進し、紹定三(1230)年には参知政事(参政とも。宰相職である同中書門下平章事の補佐に当たる副宰相)に昇る。史弥遠の死去後も、右丞相兼枢密使・左丞相となり、申国公・衛国公に封ぜられている。淳祐七(1247)年に越国公に封ぜられたが、まもなく辞任して湖山を流浪、僧寺に寓居した。その後、淳祐九(1249)年には、再び左丞相として復帰している。著作に『安晩堂集』がある(以上は主に「中国史人物事典」の記載を参考にした)。その経歴を見ると、エリート・コースを順調に登り詰めて、怜悧な知性で権力闘争をも難なく渡って来た、なかなかの海千山千の男の姿が髣髴としてくる。それでも、次の「第四十九則語」の最後のクレジットを見ると、本跋の執筆は淳祐六(1246)年6月、西湖の畔でのことであることが分かる。少しばかり世渡りに飽いた彼の視線の彼方には、最早、美しい西湖の映像ではなく、すでにその後に流浪することとなる幾山河の幻が掠めてでもいたのかも知れない。
・「油餠」は中国音“youbing”ユウピンで、揚げパンのような感じの食物を言う。
・「大衍の數」とあるが、西村注では「易経」の『繫辞伝上に「大衍の数五十、其の用四十九」とあり、五十は天の数と地の数の合計。この天地の数からあらゆる天地間の万象が演出せられるので、これを大衍五十という。そのうえさらに用四十九という意味については古来異説多し。』とのみ記されている。私は馬鹿なのか、この注の説明が腑に落ちない。識者の御教授を乞うものである。
・「老師、何れの處より牙を下さんかは」とあるが、無門慧開は景定元(1260)年4月7日78歳で遷化している。即ちこの時、未だ無門慧開は64歳、護国仁王寺住持として在世していたのである。]
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第四十九則語
經云、止、止、不須説。我法妙難思。安晩曰、法從何來、妙從何有。説時又作麼生。豈但豐干饒舌。元是釋迦多口。這老子造作妖怪、令千百代兒孫被葛藤纏倒未得頭出。似這般奇特話靶、匙挑不上、甑蒸不熟。有多少錯認底。傍人問云、畢竟作如何結斷。安晩合十指爪曰、止、止、不須説。我法妙難思。却急去難思兩字上、打箇小圓相子、指示衆人、大藏五千卷、維摩不二門、總在裏許。
頌曰
語火是燈
掉頭弗譍
惟賊識賊
一問即承
淳祐丙午季夏初吉 安晩居士書于西湖漁莊。
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淵藪野狐禪師書き下し文:
第四十九則の語
經に云く、
「止みなん、止みなん、須らく説くべからず。我が法、妙にして難思(なんし)。」
と。
安晩曰く、
「法は何れより來たる、妙は何れより有(う)なる。説く時、又、作麼生(そもさん)。豈に但だ豐干(ぶかん)のみ饒舌ならんや。元、是れ、釋迦、口多し。這(こ)の老子、妖怪を造作して、千百代の兒孫をして葛藤に纏倒(てんたう)せられて、未だ頭出することを得ざらしむ。這般(しやはん)の奇特の話靶(わは)、匙(さじ)、挑(たう)せんとするも上(のぼ)らず、甑(こしき)、蒸さんとするも熟せざるに似たり。多少、錯認するの底(てい)、有り。」
と。
傍らの人、問ふて云く、
「畢竟、如何にしてか結斷を作(な)さんや。」
と。
安晩、十指の爪を合せて曰く、
「止みなん、止みなん、須らく説くべからず。我が法、妙にして難思。」
と。
却(かへ)りて急に『難思』の兩字の上に去りて、箇(こ)の小圓の相子を打ちて、衆人に指し示して、
「大藏五千卷、維摩(ゆいま)不二の門、總て裏許(りこ)に在り。」
と。
頌して曰く、
火は是れ燈(ひ)なるを語らば
頭を掉(ふる)ひて譍(こた)へず
惟(こ)れ 賊のみ賊を識る
一問 即ち 承(しやう)
淳祐(じゆんいう)丙午(ひのえうま)季夏初吉(しよきつ) 安晩居士 西湖(せいこ)の漁莊にて書す
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淵藪野狐禪師訳:
第四十九則の語
「法華経」に言う。
「やめなさい。やめるのだ。説いてはいけない。私の法は、玄妙にして微妙で、全く思惟を超えたものである。」
安晩、商量して言う。
「仏の法は一体、どこに『在る』?
それが『玄妙微妙』である、というのは一体、どのような『在り方』で『在る』?
それを『説く』とするならば、それはまた、どのような『在り方』で『説く』という行為が『在る』?――
豊干ばかりがお喋りなわけではない。もとはと言えば、釋迦自身が余りにもお喋りではないか。だから、この無門老爺(ラオパン)までが、奇怪至極な『無門関』なんどというものを捏造し、末代までの数多(あまた)の真摯な修行者を葛(かずら)と藤の蔓で雁字搦めに縛りつけて投げ転がし、簀巻きの中から未だに頭さえ出せないようにさせているのである。さあ、お食べなさいと、四十八種を記した豪華なディナー・メニューを出されても、匙で掬うことも出来なければ、甑(こしき)で蒸そうにも、何時まで待っても蒸しあがらず、口に入らず、ただただ飢えているだけ、というのと全く変わりがない。だのに、これらを満漢全席大御馳走だと大間違いをして、何もないテーブルにただちょこんと座り、呆けて待っているだけの大阿呆が、数多、おる。」
――ある時、安晩が、実際に口に出してこう言ってみたところ、傍らに居た人が、次のように訊ねた。
「それでは、結局のところ、あなたの言いたいところは何なのか?」
と。
安晩は、おもむろに十本の指の爪を合わせて合掌すると、言った。
「やめなさい。やめるのだ。説いてはいけない。私の法は、玄妙にして微妙で、全く思惟を超えたものである。」
そう言い終るや、即座に目の前に書いた「法華経」のあの『止止不須説我法妙難思』の中の、その『難思』の二文字を囲むようにして、一つの円を描いた。そうして、そこにいた他の人々にもその一つの円を指し示して、言った。
「仏の説いた大蔵経五千巻も、維摩居士が沈黙をもって答えた不二の教えも、みな、総て、『この中に在る』。」
次いで囃して言う。
あらゆる総てを灼(や)き尽くし あらゆる総てを創り出す
その大元の『火』はここの 『一つの灯(ともし)』そのものと
言うてみたとて御主らは
頭(かぶり)を振って 肯んずることなし
これぞこれ ホントのホントのワルだけが ホントのワルを分かるよに
孤独な真実(まこと)の魂だけが 孤独な真実(まこと)の魂を
理解することが出来るのだ
コール・アンド・レスポンス――呼びかけることと応えること――
――問いと答えは 全く同じい
淳祐丙午(ひのえうま:淳祐6(1246)年。)季夏六月初旬の吉日 安晩居士 西湖の畔(ほとり)の漁師小屋にて書く
[淵藪野狐禪師注:
・「安晩」及びこの則については、前出「安晩跋」及びその注をも参照のこと。
・「豐干」は唐代の禅僧。生没年未詳。天台山国清寺で寒山・拾得を養い、後世併せて三聖と称せられる。虎に乗って会衆を驚かすなどの奇行でも知られる。この「お喋り」という表現は、森鷗外の「寒山拾得」のエンディングの寒山の印象的な台詞「豐干がしやべつたな」を想起させて面白い。]
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以上で、「無門關」の本文の前後の五月蠅い蠅どもは叩き落いて、外堀は埋まった。残すところ凡そ半分26則、これがまた、訳すには手強いものばかりになったわい――