「上海游記」の次の回「九 戲臺(上)」について
ついさっき、「九 戲臺(上)」の注記作業を完了した。しかし、一点だけ僕の所持しない資料を確認しなければならない。職場の図書室にあるので、明日の夜には公開出来るものと思う。
今回は注が本文の凡そ4倍になった。
なおかつ、芥川龍之介全集本文(底本とした旧全集だけでなく、新全集も)に纏わる大きな誤りを、中国人研究家の論文を通して知り得たのである。
多分にスリリング! 乞う! ご期待!
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ついさっき、「九 戲臺(上)」の注記作業を完了した。しかし、一点だけ僕の所持しない資料を確認しなければならない。職場の図書室にあるので、明日の夜には公開出来るものと思う。
今回は注が本文の凡そ4倍になった。
なおかつ、芥川龍之介全集本文(底本とした旧全集だけでなく、新全集も)に纏わる大きな誤りを、中国人研究家の論文を通して知り得たのである。
多分にスリリング! 乞う! ご期待!
八 城内(下)
今更云ふまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下(した)廻りの判官や鬼隷(きれい)も暇ぢやない。城隍が廡下(ぶか)に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻つた泥坊を驚死(きやうし)させてしまふ。――と云ふと好(よ)い事ばかりのやうだが、狗(いぬ)の肉さへ供物にすれば、惡人の味方もすると云ふ、賊城隍がある位だから、人間の女房を追ひ廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を廣告する判官や鬼隷も少くない。それが本だけ讀んだのでは、何だか得心の出來ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴつたり來ない。其處が齒痒い氣がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出來上がつてゐても、その想像の生れた因縁は、一一成程と頷かれる。いやあんな赤つ面の判官では、惡少(あくせう)の眞似位はするかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂堂たる儀衛(ぎゑい)に圍まれた儘、夜空に昇るのも似合ひさうである。
こんな事を考へた後、私は又四十起氏と一しよに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具(おもちや)、甘庶の莖(くき)、貝釦(かひボタン)、手巾(ハンカチ)、南京豆、――その外まだ薄穢い食物店が澤山ある。勿論此處の人の出は、日本の縁日と變りはない。向うには派手な縞の背廣に、紫水晶(むらさきすゐしやう)のネクタイ・ビンをした、支那人のハイカラが歩いてゐる。と思ふと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足(てんそく)の靴が二三寸しかない、舊式なお上さんも歩いてゐる。金瓶梅の陳敬濟(ちんけいせい)、品花寶鑑(ひんくわはうかん)の谿十一(けいじふいち)、――これだけ人の多い中には、さう云ふ豪傑もゐさうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、藥にしたくもゐさうぢやない。言ひ換へれば現代の支那なるものは、詩文にあるやうな支那ぢやない。猥褻な、殘酷な、食意地の張つた、小説にあるやうな支那である。瀬戸物の亭(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がつた、安物のモツク・オリエンタリズムは、西洋でも追ひ追ひ流行らなくなつた。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢學趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。
それから我我は引き返して、さつきの池の側にある、大きな茶館を通り拔けた。伽藍のやうな茶館の中には、思ひの外客が立て込んでゐない。が、其處へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥(いんこ)、――ありとあらゆる小鳥の聲が、目に見えない驟雨(しうう)か何かのやうに、一度に私の耳を襲つた。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下つてゐる。支那人が小鳥を愛する事は、今になつて知つた次第ぢやない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の聲を鬪はせようとは、夢にも考へなかつた事實である。これでは鳥の聲を愛する所か、まづ鼓膜が破れないように、匆匆兩耳を塞がざるを得ない。私は殆(ほとんど)逃げるやうに、四十起氏を促し立てながら、この金切聲に充滿した、恐るべき茶館を飛び出した。
しかし小鳥の啼き聲は、茶館の中にばかりある訣ぢやない。やつとその外へ脱出しても、狹い往來の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しつきりない囀りが降りかかつて來る。尤もこれは閑人(ひまじん)どもが、道樂に啼かせてゐるのぢやない。いづれも専門の小鳥屋が、(實を云ふと小鳥屋か、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねてゐるのである。
「少し待つて下さい。鳥を一つ買つて來ますから。」
四十起氏は私にさう云つてから、その店の一つにはいつて行つた。其處をちよいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの寫眞屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ問、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳(メイランフアン)の寫眞を眺めてゐた。四十起氏の歸りを待つてゐる子供たちの事なぞを考へながら。
[やぶちゃん注:
・「鬼隷」は、冥界に於ける下僕の鬼神の意。
・「廡下」の「廡」は家屋の庇・軒の意。軒下(のきした)。
・「惡少」不良少年。
・「儀衛」儀杖を持った近衛兵。
・「金瓶梅の陳敬濟」「金瓶梅」は中国四大奇書の一、明代万暦年間(1573~1620)に成立したと思われる長編ポルノ小説。著者は蘭陵笑笑生(生没年・人物徒ともに不詳)。芥川は一高時代から愛読した。「陳敬濟」は「金瓶梅」の主人公西門慶の娘婿(養子)。お坊ちゃんの道楽者で、ヒロイン潘金蓮の女中龐春梅(ほうしゅんばい)と不倫関係を持つが、最後には落魄れて殺されてしまう。
・「品花寶鑑の谿十一」「品花寶鑑」は清代の陳森の手になる男色小説。士大夫階級の青年怜旦(京劇の女形を演じる男優を言う語)や相公(男娼)の交流を描き、男色の哲学を讃美する体のもの。狭邪小説(妓楼・妓女・芸能者を主人公とするもの)のはしりとされる。「谿十一」はその京劇『俳優の裏面をモデルとして書いた』『そのモデルの一人』(以上両引用は筑摩版脚注)であり、『財力と権力によって少年役者を買いあさる遊蕩』(新全集注解)の少年、と記す。
・「瀬戸物の亭」陶器で出来た四阿(あずまや)のミニチュア。飾りにする。
・「モツク・オリエンタリズム」“mock”は模造品・まがいものの意(語源は中世フランス語の“mocquer”で原義は「鼻をかむ」、比喩化して「あざける」から「嘲笑」「笑いもの」へと発展)であるから、「まがいものの東洋主義」。
・「梅蘭芳(メイランフアン)」méi lánfāng(メイ・ランファン 本名梅瀾méi lán 1894~1961)は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年。芥川の「侏儒の言葉」には、
「虹霓關」を見て
男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。
「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?
とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。
○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856~ 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。
○「虹霓關」「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は管見したことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、意味が分らない。
○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武は兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家、孫子のこと。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。
○「兵機」は戦略・戦術の意。
○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915~1925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。
○「董家山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリー。
○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。
○「雙鎖山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。
○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。
○「胡適」は「こせき」(又は「こてき」とも)Hú Shì(1891~1962)。中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。
○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。]
昨日、「Cnidaria 読み 発音」でいらっしゃった方へ。
ナイダリア(ナイデァリア)だと思います。“C”は発音しません。
因みに、一般の方のために、これはクラゲやサンゴを含む刺胞動物の学名です。
以下にウィキの英語版から引用しておきます。↓
Cnidaria (pronounced /naɪˈdɛəriə/ with a silent c)
七 城内(中)
それから少し先へ行くと、盲目(めくら)の老乞食が坐つてゐた。――一體乞食と云ふものは、ロマンテイツクなものである。ロマンテイシズムとは何ぞやとは、議論の干(ひ)ない問題だが、少くともその一特色は、中世紀とか幽靈とか、アフリカとか夢とか女の理窟とか、何時も不可知な何物かに憧れる所が身上(しんしやう)らしい。して見れば乞食が會社員より、ロマンテイツクなのは當然である。處が支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知ぢやない。雨の降る往來に寢ころんでゐたり、新聞紙の反古(ほご)しか着てゐなかつたり、石榴(ざくろ)のやうに肉の腐つた膝頭をべろべろ舐めてゐたり、要するに少少恐縮する程、ロマンテイツクに出來上つてゐる。支那の小説を讀んで見ると、如何なる道樂か神仙が、乞食に化けてゐる話が多い。あれは支那の乞食から、自然に發達したロマンテイシズムである。日本の乞食では支那のやうに、超自然な不潔さを具へてゐないから、ああ云ふ話は生まれて來ない。まづ精精(せいぜい)將軍家の駕籠へ、種ケ島を打ちかけるとか、山中の茶の湯を御馳走しに、柳里恭(りうりきよう)を招待するとか、その位の所が關の山である。――あまり横道へ反れすぎたが、この盲目の老乞食も、赤脚仙人か鐵拐仙人が、化けてでもゐさうな恰好だつた。殊に前の敷石を見ると、悲慘な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少うまいらしい。私はこんな乞食の代書は、誰がするのだらうと考へた。
その先の露路へさしかゝると、今度は骨董屋が澤山あつた。此處はどの店を覗いて見ても、銅の香爐だの、埴輪の馬だの、七寶(しつぽう)の鉢だの、龍頭瓶(りうとうへい)だの、玉(ぎよく)の文鎭だの、青貝の戸棚だの、大理石の硯屏(けんびやう)だの、剥製の雉だの、恐るべき仇英(きうえい)だのが雜然とあたりを塞いだ中に、水煙管(みづぎせる)を啣へた支那服の主人が、氣樂さうに客を待ち受けてゐる。次手にちよいとひやかして見たが、五割方は懸値であるとしても、値段は格別安さうぢやない。これは日本へ歸つた後、香取秀眞(ほづま)氏にひやかされた事だが、骨董を買ふには支那へ行くより、東京日本橋仲通りを徘徊した方が好ささうである。
骨董屋の間を通り拔けたら、大きな廟のある所へ出た。これが畫端書でも御馴染の、名高い城内の城隍廟(じやうくわうべう)である。廟の中には參詣人が、入れ交り立ち交り叩頭(こうとう)に來る。勿論線香を獻じたり、紙錢を焚いたりするものも、想像以上に大勢ある。その煙に燻ぶるせゐか、簗間(れうかん)の額や柱上の聯(れん)は悉(ことごとく)妙に油ぎつてゐる。事によると煤けてゐないものは、天井から幾つも吊り下げた、金銀二色の紙錢だの、螺旋状の線香だのばかりかも知れない。これだけでも既に私は、さつきの乞食と同じやうに、昔讀んだ支那の小説を想起させるのに十分である。まして左右に居流(ゐなが)れた、判官(はんぐわん)らしい像になると、――或は正面に端坐した城隍らしい像になると、殆(ほとんど)聊齋志異だとか、新齊諧(しんさいかい)だとかと云ふ書物の插畫を見るのと變りはない。私は大いに敬服しながら、四十起氏の迷惑などはそつち除けに、何時までも其處離れなかつた。
[やぶちゃん注:
・「將軍家の駕籠へ、種ケ島を打ちかける」乞食の体をなした者が江戸幕府将軍の籠に銃を撃ったと言う事実が何かに書かれているのであろうか、不学にして私は知らない。識者の御教授を乞う。
・「柳里恭」柳沢淇園(やなぎさわきえん 宝永元(1704)年~宝暦8(1758)年)の元服後の本名。江戸中期の文人画家。大和郡山藩柳沢家(父曽根保格は大老柳沢吉保に仕え、信任篤く、柳沢姓を許された)の重臣。朱子学を中心にして仏典・本草・書画等、多芸多才であった。諸方から教えを乞う者多く、そうした人物を常に数十人食客として置いて養い、自宅では頻繁に宴席を設けた。将棋を好み、奇行に事欠かない人物であった。本件のような事蹟が何かに書かれているのであろうが、不学にして知らない。識者の御教授を乞う。
・「赤脚仙人」井上哲次郎編『哲學字彙』に『赤脚仙人』として『按、昔者印度有一種之學派、裸体而漫遊、故時人呼曰赤脚仙人、恐是佛家所謂裸形外道』の割注を記す。筑摩版では、芥川龍之介のヴォルテールの翻訳「ババベツクと婆羅門行者」に登場する「赤脚仙」と同じとし、“gymunosofiste”(ヴォルテールの原文からの引用であろう)、裸体で瞑想に耽った古代インドの行者、裸形外道論師、と記し、岩波版新全集注解では、同様に、裸足=赤脚かつ裸体で各地を漫遊した古代インドの仙人、とする。しかし、これは芥川が幼少より親しんだ「西遊記」に登場する「赤脚大羅仙」のことではあるまいか。 西王母主催の蟠桃会(ばんとうえ:3月3日の彼女の誕生日。)に招待されるが、途中で悟空に騙されて待ちぼうけをくらう裸足の仙人である。また「水滸伝」には宋の仁宗が赤脚仙人の生まれ変わりと記されているとある(「赤脚大羅仙」については「太雲道~仙人への道~」の「西遊記的神仙紹介」による)。
・「鐵拐仙人」は中国八仙の一人、李鉄拐のこと。医術を司る。やはり中国八仙の一人である呂洞賓(りょどうひん)の弟子とされる。名はアイテムとして鉄の拐=杖を持つことから。本邦では蝦蟇仙人とペアで描かれることが多い。魂だけを離脱させて自在に往き来出来たとする。中文サイトに、
稱其爲呂洞賓的弟子。傳稱李凝陽應太上老君與宛丘先生之約、魂游華山。臨行、囑咐其守魄(軀殼) 七日。無奈其徒之母突然急病而欲速歸 、遂於第六日化師之魄。李凝陽游魂於第七日回歸時、無魄可依、即附於一餓殍之屍而起、故其形醜陋而跛右脚。
という風にある。荒っぽく訳して見るなら、ある時、鐵拐は仙界へと呼ばれ、立つに先立って、弟子に「七日間、私の魄(魂が空の肉体)を見守っておれ。」と言ったが、その弟子の母が急病となったためにすぐに帰郷したくなった。遂に弟子は六日目に鉄拐の魄を別なところに移して出発してしまった。七日目に鉄拐の魂が戻ってきた時、魄がないため仕方なく、近にころがっていた行路死病人の遺体に入った。それ故にその容貌は醜く、右足は跛を引いている、といった感じか。
・「龍頭瓶」恐らく瓶口に対になった突起状の龍の飾りを付けたものを言うのであろう。
・「仇英」明代の画家(生没年不詳)。特に人物画に於いて写実性に富んだ様式美を大成、美人風俗画に於いては独特の画風を完成させた。後の美人画は殆んどが彼のものに追従するものとなったという。形容の「恐るべき」は、あまりの下手さ加減に恐れ入るほどの贋作の、という意味で、恐らくはここに並んでいるものも美人画の安っぽいフェイクなのであろう。
・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和29(1954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。
・「城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。
・「叩頭」中国式拝礼の一つ。跪いて両手を地につけ、頭を地面につくまで下げておじぎをすること。
・「簗間」梁(はり)の間。
・「紙錢」紙を現行の銭の形や紙幣に似せて切ったもの。十王思想(後の「判官」の注参照)の中から生れたものと考えられ、副葬品としたり、法事の際に燃やして死者の冥福や、自身の来世での来福を願うために用いた。現代では実際の紙幣と類似した印刷物も用いられるが、近年、中国共産党は旧弊として禁じたというニュースを聞いている。
・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。
・「判官」は、ここでは主に地獄の裁判官の副官を言う。中国で形成された仏教の地獄思想である十王思想では、初七日から四十九日までの7日目ごと及び百ヶ日・一周忌・三回忌には生前の所業を精査されて十人の裁判官の裁きを受けることになっている。そこで生前から十王を祭り、死して後も遺族によって罪障を軽減が可能とされた(それが遺族の功徳になって自身に返ってくるのである。勿論、ここでは道教寺院であるのだが、十王思想は道教に逆輸入されていると考えていよい)。十王は秦広王・初江王・ 宋帝王・五官王・閻魔王・変成(へんじょう)王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王で、その副官として道教系から出向している副裁判官がおり、芥川がここで描写しているのは、そうした像である可能性が高い。そうすると、泰山父君(閻羅庁の閻魔王の脇で補佐する絵をよく見る)を筆頭に、地獄法廷の書記官・補佐官たる、司命・司録等の冥府の事務官を代表する者(罪人の氏名や罪状を読み上げたり記録したりする)、亡者の個別な検察側証人とも言うべき、倶生神(ぐしょうしん 同名天・同生天と呼ぶ二神で、人の誕生から死に至るまでその人の左右の肩にあってその人の全所業を全て記録する)、更には、牛頭(ごず)・馬頭(めず)・青鬼・赤鬼といった鬼卒(現在の刑務官相当)といった者達をイメージすればよかろう。
・「城隍らしい像」一般には勇猛な武将、高僧等で造形される。
・「聊齋志異」中国の清代の蒲松齢(1640~1715)が蒐集した怪異譚を編纂・翻案した志怪小説集。芥川は幼少期より親しみ、彼の創作に多くのインスピレーションを与えた。芥川龍之介「酒虫」は完全に本作を種本とする。日本の後代の多くの作家たちを魅了した作品でもある。
・「新齊諧」清代の袁枚(えんばい 1716-1797)の志怪小説集。本来は「子不語」であったが、同題の書があったために、作者が改題した。現在は、本来の「子不語」で呼ばれる。芥川は大学時代から親しんだ。]
六 城内(上)
上海の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だつた。
薄暗い雨もよひの午後である。二人を乘せた馬車は一散に、賑かな通りを走つて行つた。朱泥のやうな丸燒きの鷄が、べた一面に下つた店がある。種種雜多の吊洋燈(つりラムプ)が、無氣味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光つた、裕福さうな銀樓もあれば、太白の遺風の招牌(せうはい)が古びた、貧乏らしい酒樓もある。――そんな支那の店構へを面白がつて見てゐる内に、馬車は廣い往來へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいつた。何でも四十起氏の話によると、以前はこの廣い往來に、城壁が聳えてゐたのださうである。
馬車を下りた我我は、すぐに又細い横町へ曲つた。これは横町と云ふよりも、露路と云つた方が適當かも知れない。その狹い路の兩側には、麻雀の道具を賣る店だの、紫檀の道具を賣る店だのが、ぎつしり軒を並べてゐる。その又せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下つてゐるから、空の色を見るのも困難である。其處へ人通りが非常に多い。うつかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いてゐると、忽ち誰かにぶつかつてしまふ。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。私は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼(わきめ)もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行つた。
その露路を向うへつき當ると、時に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云へば立派らしいが、實は今にも壞れ兼ねない、荒廢を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まつ蒼な水どろが浮んでゐるから、水の色などは殆見えない。池のまはりには石を疊んだ、これも怪しげな欄干がある。我我が丁度其虞へ來た時、淺葱木綿の服を着た、辮子(ベンツ)の長い支那人が一人、――ちよいとこの間に書き添へるが、菊池寛の説によると、私は度度小説の中に、後架とか何とか云ふやうな、下等な言葉を使ふさうである。さうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿(しと)の感化を受けてしまつたのださうである。私は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算(つもり)ぢやない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時時は禮節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思つたら、試みに誰でも書いて見るが好い。――そこで又元へ立ち戻ると、その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしてゐた。陳樹藩(ちんじゆはん)が叛旗を飜さうが、白話詩の流行が下火にならうが、日英同盟が持ち上らうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少くともこの男の態度や顏には、さうとしか思はれない長閑(のどか)さがあつた。曇天にそば立つた支那風の亭と、病的な緑色を擴げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆隆たる一條の小便と、――これは憂鬱愛すべき風景畫たるばかりぢやない。同時に又わが老大國の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時(しばらく)眺め入つた。が、生恰四十起氏には、これも感慨に價する程、珍しい景色ぢやなかつたと見える。
「御覽なさい。この敷石に流れてゐるのも、こいつはみんな小便ですぜ。」
四十起氏は苦笑を洩した儘、さつさと池の縁を曲つて行つた。さう云へば成程客氣の中にも、重苦しい尿臭が漂つてゐる。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまつた。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢(つひ)に小便である。私は靴を爪立(つまだ)てながら、匆匆(そうそう)四十起氏の跡を追つた。出たらめな詠歎なぞに耽るものぢやない。
[やぶちゃん注:現在の中華路と光啓南路の交差点から北が、旧上海城内に当たる。長い歴史の中で戦乱の多かった中国では城郭都市が多いが、特に海辺部にあった上海は倭寇の襲撃に悩まされた。1533年にこの現在の市街の東北部に周囲5㎞弱、高さ約8mの城壁が築かれた。城壁は1912年に取り壊され、その跡が今の人民路・中華路になっている。岩波版新全集注解によると、この地は上海に租界が置かれたその後の時代にあっても中国人だけの街であったとある。
・「銀樓」金銀のアクセサリーを扱う店舗。商店は一般に二・三階建てであったので「楼」がつく。
・「太白」李太白。詩仙李白の字。大の酒好きであった。
・「湖心亭」現在、上海随一の伝統的中国式庭園豫園(よえん)の荷花池の上、屈曲した九曲橋の中ほどに建つ、150年の歴史を持つ茶館。但し、明代をルーツとするその庭園と共に清末には荒廃甚だしく、芥川が訪れた際のその普請も本文に示される通りである。現在の豫園ものは新中国成立後に改修されたもので、芥川が見たものは、荒れ果てていながらも屋根の先が大きく反った江南風の特徴を持った清朝建築様式であったはずである。ちなみに、私は八年前の夏、夕暮れの人気のないそこを一度訪ねただけで、すっかり気に入ってしまったものである。
・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。即ち、この芥川の目の前で荷花池に尿(すばり)する中国人は、時空間を超越して現代から見放されている中国総体であると同時に、そうした旧時代の忌まわしい臭気を放つ、動きつつある中国の「今」に取り残されてゆくであろう人物(それに類した人々を芥川は悲観的にして差別的に数多多く数えてはいる)としても点描されていると見るべきであろう。そうして私は、実はここにこそ、芥川龍之介は当時の富国強兵から急速に近代化を叫び、アジアの宗主たらんとする帝国主義の「日本」を、その先にダブらせてもいるのだと思うのである。
・「蕪村の馬の糞」は与謝蕪村の「蕪村句集」春の部にある天明3(1783)年68歳の折の、
紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞(ふん)
を指す。これは春の温もりを感じさせる陽光指す道、ひられたばかりの丸々とした湯気立つような馬糞に、鮮やかな紅梅を配して美事な句である。
・「芭蕉の馬の尿」は松雄芭蕉「奥の細道」は尿前(しとまえ)の関での、元禄2年5月17日、46歳の折の体験に基づく、
蚤虱馬の尿(しと)する枕もと
を指す(決定稿は3~4年後か)。辺鄙な山家に旅寝する芭蕉。曲屋の人馬一緒の宿り、一晩中、蚤・虱に責めたてられ、枕元では勢いよく馬が小便する音。その旅愁を、勿論、芭蕉は風流として侘ぶのである。尿を「ばり」と読むのが正当とするテクストが多いが、どうも私はこの濁音が気に入らぬ。その音は無論「ばり」であって、「しと」ではあるまい。しかし、それを確信犯として、尿前の関の鄙びた郷愁の音「しと」の向こうにリアルな「ばり」の音を聴くことが何故誤りなのか、私には実はよく分らないのである。
・「陳樹藩」清末民国の軍人・政治家(1885~1949)。袁世凱亡き後の軍閥の抗争では段祺瑞(だんきずい)を中心とする安徽派に属し、1916年には陝西督軍となり、実質的な陝西省の支配権を掌握した。しかし、北京政府の主導権を巡って華北地方で段祺瑞と直隷派の曹錕(そうこん)が1920年7月14日に会戦したが、わずか5日間で安徽派の敗北に終わり、段祺瑞は失脚した(安直戦争)。これによって陳樹藩軍は孤立、芥川の本節の体験の数十日後の1921年5月、直隷派によって陝西督軍の地位が剥奪され、陳の軍隊はただの流浪不逞集団とされてしまう。同年12月に四川軍により撃破されると、陳は天津へ逃亡、以後、表舞台を去った。筑摩版も岩波新全集版も、この「陳樹藩」を陳炯明(ちんけいめい 1878~1933)とする(筑摩版は推定、新全集版は断言)。炯明は中華民国広東派の指導者。1920年11月に軍閥を放逐して広東省を掌握、中華革命党には所属していないが、結果として孫文の広東での勢力基盤を軍事的に援助した。「叛旗を飜」すの意味を両注はこの広東軍政府の組織化を指すとするのであろうが(因みに両注が附す後の孫文へのクーデターによる裏切りは1922年6月のことで到底これはこの「叛旗」ではない)、どうもアップ・トゥ・デイトでない。そもそも、両注は何故、その冒頭で、これは芥川龍之介の人名の誤り、と明確に記さないのか? 私は陳樹藩その人の軍閥内抗争での「叛旗」で何ら問題ないと思うのであるが。中国近代史の御専門の方の御意見を乞う(本注は主にウィキのそれぞれの人物の該当記事を参考にした)。
・「白話詩の流行」の「白話詩」は中国の口語詩のこと。当時の民主主義革命をリードした胡適や陳独秀は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱する論文「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)を1917年に雑誌『新青年』に発表、同時に白話詩がもてはやされたが、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたものらしい。
・「日英同盟が持ち上らうが」は、日英同盟の継続問題の議論を言う。日英同盟は、明治35(1902)年1月に締結された主にロシアの南進の防御とインド・中国での利権維持を主目的とした日本とイギリスとの軍事同盟。継続した明治38(1905)年の第二次日英同盟では、イギリスのインドに対する特権及び日本の朝鮮に対する支配権の相互承認に加えて、両国の清に対する機会均等(実際には利権を握っていたイギリスの思惑と日本側の大陸での覇権獲得への思惑の妥協的産物)等が盛り込まれている。第三次の期限が終了する前年の大正9(1920)年より、継続更新を望む日本政府の意向で外交交渉が行われたが、1921年のワシントン会議の席上、国際連盟規約への抵触、日本との利害の対立から廃止を望むアメリカの思惑(アメリカも中国進出を狙っていた)により、日本・イギリス・アメリカ・フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の破棄が決定、1923年8月17日に日英同盟は失効した(本注は主にウィキの「日英同盟」の記載を参考にした)。]
五 病院
私はその翌日から床に就いた。さうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云ふ事だつた。假にも肋膜炎になつた以上、折角企てた支那旅行も、一先づ見合せなければならないかも知れない。さう思ふと大いに心細かつた。私は早速大阪の社へ、入院したと云ふ電報を打つた。すると社の薄田氏から、「ユツクリレウヨウセヨ」と云ふ返電があつた。しかし一月なり二月なり、病院にはいつたぎりだつたら、社でも困るのには違ひない。私は薄田氏の返電にほつと一先(ひとまづ)安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考へると、愈心細がらずにはゐられなかつた。
しかし幸ひ上海には、社の村田君や友住君の外にも、ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。さうしてこれらの友人知己は、忙しい體にも關らず、始終私を見舞つてくれた。しかも作家とか何とか云ふ、多少の虚名を負つてゐたおかげに、時時未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの罐が、聊か處分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救つてくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の私から見ると、いづれも不思議な程健啖だつた。)いや、さう云ふ御見舞物を辱(かたじけな)くしたばかりぢやない始は未知の御客だつた中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合ひをする諸君が、二人も三人も出來るやうになつた。俳人四十起(き)君もその一人である。石黑政吉君もその一人である。上海東方通信社の波多博君もその一人である。
それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなつて見ると、不安は依然として不安だつた。どうかすると眞つ晝間でも、ぢつと横になつてはゐられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。私はかう云ふ神經作用に、祟られたくない一心から、晝は滿鐵の井川氏やジヨオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手當り次第讀破した。ラ・モツトの短篇を讀んだのも、テイツチエンズの詩を讀んだのも、ジャイルズの議論を讀んだのも、悉この間の事である。夜は、――これは里見さんには内證だつたが、萬一の不眠を氣づかふ餘り、毎晩缺かさずカルモチンを呑んだ。それでさへ時時は夜明け前に、眠がさめてしまふのには辟易した。確か王次囘(わうじくわい)の疑雨(ぎう)集の中に、「藥餌無徴怪夢頻」とか云ふ句がある。これは詩人が病氣なのぢやない。細君の重病を歎いた詩だが、當時の私を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だつた。「藥餌無徴怪夢頻」私は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。
その内に春は遠慮なしに、ずんずん深くなつて行つた。西村が龍華(ロンホア)の桃の話をする。蒙古風(かぜ)が太陽も見えない程、黄塵を空へ運んで來る。誰かがマンゴオを御見舞にくれる。もう蘇州や杭州を見るには、持つて來いの氣候になつたらしい。私は隔日に里見さんに、ドイヨヂカルの注射をして貰ひながら、このベッドに寢なくなるのは、何時の事だらうと思ひ思ひした。
附記 入院中の事を書いてゐれば、まだいくらでも書けるかも知れない。が、格別上海なるものに大關係もなささうだから、これだけにして置かうと思ふ。唯事き加へて置きたいのは、里見さんが新傾向の俳人だつた事である。次手(ついで)に近什(きんぢふ)を一つ擧げると、
炭をつぎつつ胎動のあるを語る
[やぶちゃん注:上陸翌日の3月31日は、治りきっていなかった感冒がまたぞろ悪化し、萬歳館で床に就いたままとなる。翌4月1日上海の里見病院に入院、乾性肋膜炎の診断を受ける。入院はおよそ3週間に及び、4月23日に退院した。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。
・「里見さんの病院」里見医院。岩波版新全集注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。芥川の病室は二階の細い通路に面したベランダつきの一室』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。芥川の渡中の出迎えにも出た大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間(後述)であった縁故での入院。
・「乾性の肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。
・「薄田氏」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治10(1877)年~昭和20(1945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正12(1923)年末には新聞社を休職している。
・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。
・「ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。……」ここにきわめて類似した文句が、退院した翌日の父芥川道章に宛てた書簡に現れる(旧全集書簡番号八八二)。発病と病名と今後も身体の具合が悪くなるようであれば、北京行きは見合わせて揚子江南岸のみ見物して帰朝するつもりであること、今日まで手紙を書かなかったのはかえって心配をかけることを憚ってのことであったことを告げ、
一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉やジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ、見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少なき小生の病氣のことを毎日のやうに掲載致し候爲井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」とひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口へ參るつもりに候 以上
として日付「四月二十四日」と「上海萬歳館内 芥川龍之介」の署名が入る(二伸があるが省略)。なお、「井川君」は後の注の「「滿鐵の井川氏」を参照。
・「四十起君」島津四十起(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和23(1948)年)。俳人・歌人。明治33(1900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が病床で開いた句会での芥川の作が岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。
街の敷石耗り春雨流るゝ
吾子が自由畫の目白うららか
星空暖かに屋根々々の傾き
春雨が暖かい支那人顏の汚れ
大正15(1926)年11月11日上海で刊行された島津四十起の句集『荒彫』に、表記の題で四十起の句六句と併せて「我鬼」の署名で掲載され、末尾には「一九二一年四月一六日」「(我鬼は芥川氏の俳号)」という注記がなされているとする(岩波版新全集後記)。「耗り」は「耗(すりへ)り」と読ませているものと思われる。
・「石黑政吉君」筑摩版脚注は「不詳」とし、岩波版注解では注さえ挙げていない。私は、これは「石黑定一」の誤りではないかと思う。石黒定一(明治29(1896)年~昭和61(1986)年)は当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物である。直前の友人「西村貞吉」の「さだきち」(という読みであるとすれば)と「石黑定一」の「さだかず」(という読みであるとすれば)、これらは音が混同し易い気がする。芥川の石黒定一への思いが半端なものでないことは、廬山からの5月22日附石黒定一宛書簡(旧全集書簡番号九〇二)に明白である。
上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
留別
夏山に虹立ち消ゆる別れかな
更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には彼に捧げられた一節さえあるのである。
人生
――石黑定一君に――
もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。
成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?
人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。
又
人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。
又
人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。
識者の御意見を伺いたいものである。
・「波多博君」筑摩版脚注・岩波版注解共に注を挙げていない。一つ気になるのは、岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引に現れる「波多野乾一」なる人物である。それによると『波多野乾一(1890-1963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)とある人物である。識者の御意見を乞う。「上海ウォーカーライン」の陳祖恩氏の上海の新聞人であった「井手三郎」についての記載に、『1929年11月、年老いた井手は日本円五万円で《上海日報》を波多博に売り、故郷熊本に隠居した。《上海日報》は《上海日日新聞》《上海毎日新聞》と並び、上海3大日本語新聞としてその名を馳せた。』という文脈で登場する。井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年)は熊本出身の新聞人で、芥川の「江南游記」の「十三 蘇州城内(上)」にも登場する島田太堂(本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊、その後に『上海日報』を創刊した。この記載から、この当時は上海東方通信社の責任者(主筆や経営陣の一人)であった可能性が強いように思われる。ちなみに上海東方通信社は宗方小太郎(文久3・元治元(1864)年~大正13(1924)年):所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。)の創立になるもので、波多は彼の弟子で、敗戦間際には彼の伝記の執筆も計画していたことが神奈川大学外国語学部大里浩秋氏の論文「上海歴史研究所所蔵宗方小太郎資料について」により判明した。
・「滿鐵の井川氏」は、井川亮。当時、南満州鉄道株式会社に勤務していた、芥川の一高時代の無二の親友井川恭の兄である。この頃、上海に滞在していた。
・「ラ・モツト」Friedrich Heinrich Karl de la Motteフリードリヒ・ハインリヒ・カール・ド・ラ・モッテ(1777~1843)は、ドイツの初期ロマン主義詩人。現在は男爵名のFriedrich de la Motte Fouquéフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケーの末尾「フーケー」で呼ばれることが多い。始めは軍人であったが、後に作家に転身した。代表作『ウンディーネ』(1811)はよく知られる幻想の悲恋物語である。
・「テイツチエンズ」Eunice Tietjensユニス・テッチエンズ(1884~1944)はアメリカの女流詩人。1916年に渡中、漢詩に強い影響を受けたとされる。芥川龍之介の「パステルの龍」の中に以下の芥川による訳詩が所収する(岩波版旧全集から引用)。
夕明り
――Eunice Tietjens――
乾いた秋の木の葉の上に、雨がぱらぱら落ちるやうだ。美しい狐の娘さんたちが、小さな足音をさせて行くのは。
洒落者
――同上――
彼は緑の絹の服を着ながら、さもえらさうに歩いてゐる。彼の二枚の上着には、毛皮の縁がとつてある。彼の天鵞絨の靴の上には、褲子(くうづ)の裾を卷きつけた、意氣な蹠(くるぶし)が動いてゐる。ちらちらと愉快さうに。
彼の爪は非常に長い。
朱君は全然流行の鏡とも云ふべき姿である!
その華奢な片手には、――これが最後の御定りだが、――竹の鳥籠がぶらついてゐる。その中には小さい茶色の鳥が、何時でも驚いたやうな顏をしてゐる。
朱君は寛濶な微笑を浮べる。流行と優しい心、と、この二つを二つながら、滿足させた人の微笑である。鳥も外出が必要ではないか?
作詩術
――同上――
二人(ふたり)の宮人は彼の前に、石竹の花の色に似た、絹の屏風を開いてゐる。一人の嬪妃は跪きながら、彼の硯を守つてゐる。その時泥醉した李太白は、天上一片の月に寄せる、激越な詩を屏風に書いた。
「洒落者」の詩中の「褲子(くうづ)」は“kùz”でズボンのような下袴のこと。
・「ジャイルズ」Herbert Allen Giles(1845~1933)ハーバード・アレン・ジャイルズはイギリスの外交官・中国学者。平凡社「世界大百科事典」によれば『1880年(光緒6)以来、中国各地の領事を務めて93年に引退し、97年ケンブリッジ大学の中国語教授に招かれた。1932年に引退するまで、イギリス東洋学界の権威として数々の栄誉を受けた。学風は穏健で,中国人の思想や生活を深く理解しており、とくに中国詩文の翻訳にすぐれていた。《中英辞典》(1892)、《古今姓氏族譜》(1897)ほか、数百編の著書、論文がある。四男のライオネル・ジャイルズ Lionel Giles(1875‐1958)は大英博物館東洋部長となり、スタイン収集の敦煌漢文文献の整理に従事し、1957年その分類目録を出版した』(読点を変更した)とある。芥川が好きな「聊斎志異」の選訳もある。また、ウェード式ローマ字を“Wade-Giles”と英語で呼称するのは、彼が改良したからである。
・「カルモチン」催眠鎮静剤であるbromvalerylureaブロムワレリル尿素の武田薬品工業商品名(既に販売中止)。芥川の日記や文章に、また旧来の薬物自殺や心中事件にしばしば挙がってくる名であるが、致死性は低い。
・「王次囘」明代末の詩人。本名王彦泓(びんおう)。次回は字。「疑雨集」は彼の四巻からなる詩集。永井荷風は随筆「初硯」で彼を中国のボードレールと呼び、『感情の病的なる』「疑雨集」を「悪の華」に比肩するものとしている。
・「藥餌無徴怪夢頻」は「藥餌徴無くして怪夢頻り」で、「薬が全く効かず、怪しい夢ばかりを見る」の意。
・「龍華の桃の話」「龍華」“lónghuā”は龍華鎮という地名。現在の上海市中心区の西南部に位置する徐匯(じょわい)区にある。そこにある禅宗の龍華寺は上海地区でも最も古く、三国時代創建の1700年の歴史を持ち、規模の点でも最大。この寺は桃の花の名所でもある。
・「蒙古風」モンゴル及び中国東北部の黄土地帯で吹く春の季節風が、黄土の細かな砂塵を大量に巻き上げて、中国東方や日本にまで吹き寄せてくるものを言う。日本では春の季語である。
・「ドイヨヂカル」不詳。沃化カリウム(ドイツ語Jodkalium)のことか。カリウムと沃素の化合物で医薬品としてバセドウ氏病や、被爆時の甲状腺異常の抑止剤として用いられるが、果たして筑摩版脚注や岩波版新全集注解の言うような「ヨード化カリウム」(このような言い方はないと思う)という「強壮剤」として、それをこのように頻繁に肋膜炎の患者に打ってよいものかどうか、私は知らない。医師の御意見を乞いたい。
・「里見さんが新傾向の俳人だつた事」里見医院院長里見義彦は河東碧梧桐門下の俳人でもあった。
・「炭をつぎつつ胎動のあるを語る」について、新全集注解には『里見澄子「父の句碑」(「太白」三六五号)に「外地に住み、心細い若い夫婦がお互いにいたわり合って冬の或る日に語り合っている姿が忍ばれます。胎動とあるのは、義妹美代子さんのこと」と解釈されている』とある。この注のは、恐らく筑摩版脚注で「胎動」を『中国での民主化運動をさす』という、中国風に言えば載道的な解釈をしているのを意識して、敢えて言志的解釈を示したというべきか。医師という里見氏の職業柄から考えれば、私はやはり実際の胎児の胎動でなくては句にならない気がする。私はちなみにかつて若い頃は荻原井泉水の「層雲」に拠って自由律俳句を作っていた。]
四 第一瞥(下)
カツフエ・パリジアンを引き上げたら、もう廣い往來にも、人通りが稀になつてゐた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻つてゐない。存外上海の町は早寢である。
但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついてゐる。さうして我我の姿を見ると、必何とか言葉をかける。私は晝間村田君に、不要(プヤオ)と云ふ支那語を教はつてゐた。不要(プヤオ)は勿論いらんの意である。だから私は車屋さへ見れば、忽惡魔拂ひの呪文のやうに、不要(プヤオ)不要(プヤオ)を連發した。これが私の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に私が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛(はふ)りつけたか、その間の消息がわからない讀者は、きつと一度も外國語を習つた經驗がないに違ひない。
我我は靴音を響かせながら、靜かな往來を歩いて行つた。その往來の右左には、三階四階の煉瓦建(れんがだて)が、星だらけの空を塞ぐ事がある。さうかと思ふと街燈の光が、筆太に大きな「當(たう)」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度眞上に、女醫生何とかの招牌(せうはい)がぶら下つてゐる所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の廣告びらが貼りつけてある所も通つた。が、いくら歩いて行つても、容易に私の旅館へ來ない。その内に私はアニセツトの崇りか、喉が渇いてたまらなくなつた。
「おい、何か飮む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」
「すぐ其處にカツフエが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」
五分の後我我兩人は、冷たい曹達(ソオダ)を飮みながら、小さな卓子に坐つてゐた。
このカツフエはパリジアンなぞより、餘程下等な所らしい。桃色に塗つた壁の側には、髮を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いてゐる。それからカツフエのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頰紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を續けてゐる。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を賣る支那の婆さんが、私に不要(プヤオ)を食(く)はされた後、ぼんやり舞蹈を眺めてゐる。私は何だか畫入(ゑいり)新聞の插畫(さしゑ)でも見るやうな心もちになつた。畫(ゑ)の題は勿論「上海」である。
其處へ外から五六人、同じやうな水兵仲間が、一時(じ)にどやどやはいつて來た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立つてゐた婆さんである。婆さんは醉ぱらひの水兵連が、亂暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまつた。しかも當の水兵連は、そんな事にかまふ所ぢやない。もう踊つてゐた連中と一しよの氣違ひのやうにとち狂つてゐる。婆さんはぶつぶつ云ひながら、床に落ちた薔薇を拾ひ出した。が、それさへ拾つてゐる内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。
「行かうか?」
ジヨオンズは辟易したやうに、ぬつと大きな體を起した。
「行かう。」
私もすぐに立ち上つた。が、我我の足もとには、點點と薔薇が散亂してゐる。私は戸口へ足を向けながら、ドオミエの繪を思ひ出した。
「おい、人生はね。」
ジヨオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ抛りこんでから、私の方へ振返つた。
「人生は、――何だい?」
「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」
我我はカツフエの外へ出た。其處には不相變黄包車(ワンパオツオ)が何臺か客を待つてゐる。それが我我の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて來た。車屋はもとより不要(プヤオ)である。が、この時私は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて來たのを發見した。我我の側には、何時の間にか、あの花賣りの婆さんが、くどくどと何かしやべりながら、乞食のやうに手を出してゐる。婆さんは銀貨を貰つた上にも、また我我の財布の口を開けさせる心算(つもり)でゐるらしい。私はこんな欲張りに賣られる、美しい薔薇が氣の毒になつた。この圖圖しい婆さんと、晝間乘つた馬車の馭者と、――これは何も上海の第一瞥に限つた事ぢやない。殘念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であつた。
[やぶちゃん注:
・「不要(プヤオ)」“búyào”。
・「欣欣然と」(形容動詞・タリ活用・連用形)如何にも嬉しそうなさま。
・「當」は“dàng”(通常、我々が使用する「当」の意味の場合は本来は“dāng”)で、日本で言う「質」「質種(ぐさ)」「質の代(かた)」「質に入れる」「質ぐさにする」「抵当」の意。
・「招牌」“zhāopái”看板。
・「南洋煙草」当時、中国国産煙草会社の一つ、南洋煙草公司を指すものと思われる。但し、この会社は香港に本拠を置いており、二重国籍の会社であった。当時、中国全体の煙草のシェアのほとんどは英米トラスト煙草会社によって占められていた。
・「畫入新聞の插畫」上海では19世紀末発行されていた絵入り新聞『点石斎画報』が面白く有名だが、ここで芥川が言うのは、現在の日本の新聞のルーツである、明治初期の、絵入りで実話や奇談を載せた大衆向け新聞を指している。だから、この想像の絵のタッチは月岡芳年や河鍋暁斎辺りをイメージすべきであろう。
・「ドオミエ」19世紀フランスの風刺画家Honoré-Victorin Daumierオノレ・ドーミエ(1808~1879)。ウィキの「オノレ・ドーミエ」によれば当時の『フランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率のさほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きかった。この頃、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物がいた。彼は版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にあったが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した』とある。
・「黄包車」“huáng bāo chē”。黄色い覆いをかけたことから言う。因みに、戦前に来日したアインシュタインが憤慨した、この『非人道的な』(私はそうは思わないが)人力車なるものは明治初期の日本がルーツで、中国には1919年頃に入って爆発的に流行した。1949年以降、中国共産党の指示により廃止されている。]
この度の見し外題、
「寿式三番叟」
「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこひのねたば)
古市油屋の段
奥庭十人斬りの段
「日高川入相花王」(ひだかがわいりあひざくら)
真那古庄司館の段
渡し場の段
「寿式三番叟」にて、文楽は稀に見る多種目大人数総合芸術体力勝負なるを知れり。感服仕り候――
「伊勢音頭恋寝刃」にて、文楽を現代の倫理観から鑑賞することの無効性を痛感せると同時に、現代のホラー・スプラッターの先取りなる一面をも見出せり。否、それは現代のホラー・スプラッターが至るを得ない健全なる清浄上質の代償効果による社会的カタルシスの効用を持ちたらんことを確信せり――十人斬り万歳!――
何時もながら蓑助の憎つくき万野(まんの)の神技に魅せられたるは言ふに及ばず――蓑助はやつぱり叩き上げぢや、土門の写真のあの永遠の少年(プエル・エテルヌス)の黒子が、今も彼の中には居るぢや、だから誰(たれ)も手が届かぬのぢやて――
「日高川入相花王」
一つ! 若い太夫はやはり老練の太夫とは月と鼈なり! そもそも声音(こわね)に拘るからだめぢや。声のいぶし銀は、技巧ではない。情を語るは、演技にあらず。「語り」は「語り」にして「演じる」にあらざるを知れ――
一つ! 紋寿清姫、凄絶なり! 想定線を引きて居たる我が愚かしさを反省すること頻りなり。「真那古庄司館の段」の冒頭から、思ひそめてき清姫の一矢宿命のベクトルが、その鬼なればこその神の美に至るなり。「渡し場の段」川面に反りし清姫と添ふる紋寿の美しきかな。それ、それこその「道行」なり――
一つ! ガブも凄絶なり! 想定線を引きて居たる我が愚かしさを反省すること頻りなり。決して、小手先のフィギアにあらず、情念・情念・情念の魂窮まんとすなり。欲を言ふならばもちつと舞台を暗く致いて漁師のガンドウにて面を照らすといふやうな手法は使へぬものならんか。体擲って入水致し、激しきうねりの蛇体となり、川渡り終へたる清姫の、元の頭に戻りて居たる、その柳の枝に見えし時、我は思はず、落涙して居たり――
友人トーマス・ジョーンズへのオードたる芥川龍之介の「彼 第二」を、強力な注を附して正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
やぶちゃんの前口上
この連載を楽しみにしているという女性の読者から、次はまだですか、と催促メールを頂戴した。誰か一人でもこうした読者がいると、電子テクスト作り冥利に尽きるというものである。この一週間、僕も決してサボっていた訳ではない(中間試験作りのために思うように進捗しなかったという事実や、昨日はずっと望んでいた文楽「日高川入相花王」を見てノック・アウトされたという理由はあるのだが)。何より、ここに登場するトーマス・ジョーンズが大いに気になりだしてしまったのである。今回、彼女のご期待に応えうるだけの注になっていると思う。そうして、今日はその彼女のためにも、新しい芥川龍之介の作品をこれから公開しようと目論んでいる。ご期待あれかし!
*
三 第一瞥(中)
その晩私はジヨオンズ君と一しよに、シエツフアアドといふ料理屋へ飯を食ひに行つた。此處は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出來上つてゐる。給仕は悉(ことごとく)支那人だが、隣近所の客の中には黄色い顏は見えない。料理も郵船會社の船に比べると、三割方は確に上等である。私は多少ジヨオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしやべるのが、愉快なやうな心もちになつた。
ジョオンズ君は悠悠と、南京米(なんきんまい)のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一にこんな話がある。何でも或晩ジヨオンズ君が、――やつぱり君(くん)附(づ)けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である。私はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしてゐた。一しよに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中(よぢゆう)上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉つてゐちや、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手(ついで)にもう一つ斷つて置くが、私が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。私の英語がうまいからぢやない。――何でも或晩そのジヨオンズが、何處かのカツフエへ酒を飮みに行つたら、日本の給仕女がたつた一人、ぼんやり椅子に腰をかけてゐた。彼は日頃口癖のやうに支那は彼の道樂(ホツビイ)だが日本は彼の情熱(パツシヨン)だと呼號(こがう)してゐる男である。殊に當時は上海へ引越し立てだつたさうだから、餘計日本の思ひ出が懷しかつたのに違びない。彼は日本語を使ひながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時上海へ來ましたか?」「昨日來たばかりでございます。」「ぢや日本へ歸りたくはありませんか?」給仕は彼にかう云はれると、急に涙ぐんだ聲を出した。「歸りたいわ。」ジヨオンズは英語をしやべる合ひ間に、この「歸りたいわ」を繰返した。さうしてにやにや笑ひ出した。「僕もさう云はれた時には、Awfully sentimentになつたつけ。」
我我は食事をすませた後(のち)、賑かな四馬路(まろ)を散歩した。それからカツフエ・パリジアンヘ、ちよいと舞蹈を覗きに行つた。
舞蹈場は可也廣い。が、管絃樂(オオケストラ)の音と一しよに、電燈の光が青くなつたり赤くなつたりする工合は如何にも淺草によく似てゐる。唯その管絃樂(オオケストラ)の巧拙になると、到底淺草は問題にならない。其處だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。
我我は隅の卓子(テエブル)に、アニセツトの盃を舐めながら、眞赤な着物を着たフイリツビンの少女や、背廣を一着(いつちやく)した亞米利加の青年が、愉快さうに踊るのを見物した。ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある。私はどちらも同じやうに、肥つた英吉利の老人夫婦が、私の前へ踊つて來た時、成程とこの詩を思ひ浮べた。が、ジヨオンズにさう云つたら、折角の私の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまつた。彼は老夫婦の舞踏を見ると、その肥れると瘦せたるとを問はず、吹き出したい誘惑を感ずるのださうである。
[やぶちゃん注:
・「やつぱり君附けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。……」以下に語られているThomas Jonesと芥川の交流について、少し辿ってみたい。Thomas Jones(1890~1923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大学)で英語を教えた。
まず、彼等の最初の出逢いであるが、これはジョーンズをモデルとした「彼 第二」の「一」の初対面のシーンで「それは二人とも數へ年にすれば、二十五になつた冬のことだつた。」とあるので、大正5(1916)年の冬と考えられる(当時の芥川は大学を7月に卒業、12月1日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している)。
大正8(1919)年3月15日に、既にロイター記者となっていた彼と築地の待合に芸者を揚げて十時頃まで夕宴を開いている。これが現在の種々の芥川龍之介年譜上の彼の初出である。因みに、この日の細かなデータが分るのは芥川の「點鬼簿」の「三」にそのシーンが描かれているからである(芥川は、この夕宴の直後に実父新原敏三の危篤の報を受け、病院に向かう。死に目に逢え、翌16日に敏三は息を引き取っている)。
その後、芥川龍之介は海軍機関学校を退職、純粋な作家生活に入った。その直後大正8(1919)年の芥川の日記である「我鬼窟日録」には、ジョーンズ関連の記載が以下のように現れる(以下は私が纏めたもので記載そのものではない)。
5月29日
ロイター通信社にジョーンズを訪ねるも不在。
6月11日
ジョーンズと東洋軒にて夕食(推定)をとる。
9月21日
久保田万太郎・南部修太郎・佐佐木茂索・ジョーンズらが我鬼窟に来訪。その後に皆でそばを食いに出た。その店「更科」で燗酒を注文したところ、徳利から蚊が浮いて出た。『ジヨオンズ洒落て曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい』と言った。
9月24日
久米正雄を訪問し、その夜のジョーンズのロイター社上海特派員転任送別の会の打ち合わせをする。夜、久米・成瀬正一と三人で鶯谷の茶屋「伊香保」にジョーンズ送別の宴を開いた。
因みに、その送別会の折の写真はよく知られるものである。
「彼 第二」「我鬼窟日録」以外にも、芥川龍之介の作品では、松岡譲の洋行を見送る「出帆」、「江南游記」「北京日記抄」にもジョーンズは本名で登場している。
彼の日本語力は驚異的で、山田氏によれば、『來日一年間で日本の小學校教科書十二册を讀破し、後には古事記まで讀もようになっていた。障子一つ隔てて聞くと日本の友人と話しているのが、まるで日本人同士の會話のようで、隨分しゃれを連發して、日本人を面食らわせたらしい』とある。
ジョーンズは歌や絵の素養もあった(歌については後注「オペラ役者にでもなつてゐれば」を参照)。風景のスケッチをよくし、北斎や芳年の浮世絵を蒐集した。長岡擴氏が独自に編集していたクラウン・リーダーの編纂を手伝った折も、表紙や挿絵を彼が担当した(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。後年、彼の妹メーベル(次注参照)の娘あやめが、沖繩の壷屋焼きを修行していた頃に出会った陶芸家濱田庄司が、彼女の伯父ジョーンズのことを「絵の上手な新聞記者がいた」と語ったという逸話がそれを物語る(山田清一郎「古きよき時代のこと」)。
しかしジョーンズは33歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された(山田「古きよき時代のこと」)。ジョーンズ一家は種痘をしない主義であったそうである(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。
・「殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした」については、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、『ジョーンズさんは音楽にもすぐれた才能のある人で、とても聲がよく、スコットランドやアイルランドの古い民謠とか、ギルバート・サリバンの「ミカド」や「軍艦ピナフォア」などオペラの有名なメロディを唄ってきかせてくれた。私たち兄妹が西洋音樂好きになったのは、全く彼のお蔭であるといってよい。その頃在留外人素人劇團が、帝劇で歌劇「キスメット」の公演をした時も、ジョーンズさんは、そのよい聲で人々を祈禱に誘う歌を唄う役で出演されたことを覚えている』に続けて、『芥川さんやその仲間との交遊も急速に進んでいた樣子で、私が後年芥川の上海紀行か何かで讀んだジョーンズさんが、久米正雄の一張羅の仙臺平の袴をはいて上野料亭の泉水に飛び込んだのもこの頃のことではないかと思われる』とある。長岡氏はこの前の部分でこの時期を、ジョーンズが下宿していた自宅が転居した大正6(1917)年~大正7(1918)年頃と推定しておられるようである。ここで気になるのは、その根拠を、大正8(1919)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移り、慶應で教えていたヒュウエルさんと一緒に住んでいたが、間もなくロイテル通信社に入社し、上海支局に行かれた』からと記しておられる点である。この記載だと、ジョーンズは、来日後、上海に行くまで、日本を離れていないかのように読めるのである。しかし、芥川龍之介の「彼 第二」では、「彼」は一度、イギリスへ戻っている(「二三年ぶりに日本に住むこととなつた」)し、ここでも芥川は『彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である』(下線部やぶちゃん)としている。だが、長岡氏は大正4(1915)年の来日は、『新橋驛まで出迎え』『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』としており、そうすると上海へ渡航したと思われる大正8(1919)年9月中下旬までは、4年強にしかならない。識者の御教授を乞うものである。
・「シエツフアアド」は“shepherd”で、名詞としては羊飼い、保護者・牧師・教師、牧羊犬、ここではとりあえず“sheep dog”の意味であろう。しかし店名で“S”が大文字になっていれば、それは“the (Good) Shepherd”で、イエス・キリストをも匂わせる名前である。芥川の意識はそこまで働いているのではあるまいか。
・「南京米」は、インドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を、嘗てはこう呼称した。
・「Awfully sentiment」は、「とっても感傷的」の意。
・「アニセツト」は、“anisette”アニゼット酒で、リキュールの一種。スピリッツにアニス・コリアンダー・シナモン等のハーブやスパイスを配合し、オレンジピールなどを加えて蒸留後、スピリッツとシロップ・水などを加えたもの。カクテルの素材ともなる。無色透明・甘口で香りが強い。酒精度25%前後。1755年にボルドーでマリー・ブリザール社によって売り出された。
・「四馬路」の「馬路」は北京語で「マールー」、上海語で「モル」、現代中国語で「道路」という意であるが、現在の上海人民公園は旧上海租界の競馬場であったため、この周辺の道は日々馬の調教のための散歩に使用された。そのためこの界隈の比較的大きな道を「馬路」と呼ばれるようになったとも言われる。「四」はこの競馬場の北に位側にある南京東路・九江路・漢口路・福州路の4本の通りが、当時は最北から順に「大馬路(タモル)」「二馬路(ニモル)」「三馬路(セモル)」「四馬路(スモル)」と上海語で呼ばれたことによるとする。現在、福州路は書店・文房具店・ギャラリーが立ち並ぶが、租界の頃は遊郭域であったらしい。因みに、「二馬路」の発音が「リャンモル」でなく「ニモル」なのは、上海語の古語では日本語と同じく「二」が「ニ」の発音であったからで、今でもたまに使われるそうである(以上は、個人サイト「私の上海遊歩人」の「四馬路(スマル)って、なあに?」を参照にさせて頂いた)。
・「ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある」は、恐らくWalt Whitman(1819~1892)の“LEAVES OF GRASS”の以下の詩を言う。
BEAUTIFUL WOMEN.
Women sit, or move to and fro — some old,
some young.
The young are beautiful; but the old are more
beautiful than the young.
○やぶちゃん訳
美しき女性
女は今に在りながら、同時に時間(とき)を越えて行き交いつつ、生きる――
時に年老いた彼方へと、時に若き日のあの時間(とき)へと。
若いことは美しい――しかし、年老いていることは
若くあることよりも、もっと、美しい。
なお、別の英文サイトでは、
77. Beautiful Women
WOMEN sit, or move to and fro—some old, some young;
The young are beautiful—but the old are more beautiful than the young.
とあるが、詩としての視覚上の印象は、前者が好ましいように思われる。]
今日、久しぶりに駅まで歩くと、点々と聖書が破り捨てられて落ちているのであった。
――僕はふと、その一片を拾って、キリスト者たちがするように、そこに書かれた聖句を僕の今日の糧とすることも一興ではなかろうかとも思ったが、結局、僕の無神論的な愚劣な知性が――否――正直に言えば、読むことによって、呪縛される愚かしい僕の臆病な魂が――それを躊躇させた――そうしていたら――僕は「歯車」の主人公のように、今日の暗示された何ものかに感じて、もしかするとこれから人生を別な方向に進めていたかもしれない気もしないでもなかったが――しかし、拾ったそれが黙示録であったりすれば、きっと僕は、確かに、にやりと笑んで、それを今日の授業で高校生に言うぐらいな、不遜な男ではあるのであった――
いや、そんな、僕のエゴチズムはどうでもいい――
何より、その知れぬ聖句の書かれている一枚の白い紙のすぐそばには――吃驚するような真っ赤なヘビイチゴが一つ、あったのだった――
それが僕には鮮烈だったのだ――
へびいちご――
何とも言えぬこの懐かしい響き!
……小学校の頃、同じ道、畦道だった同じ道を歩いた記憶を思い出す……そうして、僕は歩きながら思う――イヴが――何より先にヘビイチゴを食べていたら……
……食べていたら……きっと彼女は、遥かに鮮烈でない、くすんだまずそうな知恵の実なんぞを、決して食べなかったに違いない……と……そうして僕は、退屈極まりない下劣な職場に向かう汽車に、乗ったのであった――
……へびいちご……Indian strawberry……ブッダもそれを見たのか……
二 第一瞥(上)
埠頭の外へ出たと思ふと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包圍した。我我とは社の村田君、友住(ともすみ)君、國際通信社のジヨオンズ君並に私の四人である。抑(そもそも)車屋なる言葉が、日本人に與へる映像は、決して薄ぎたないものぢやない。寧ろその勢の好い所は、何處か江戸前な心もちを起させる位なものである。處が支那の車屋となると、不潔それ自身と云つても誇張ぢやない。その上ざつと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしてゐる。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大聲に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不氣味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引つ張られた時には、思はず背の高いジヨオンズ君の後へ、退却しかかつた位である。
我我はこの車屋の包圍を切り拔けてから、やつと馬車の上の客になつた。が、その馬車も動き出したと思ふと、忽ち馬が無鐵砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまつた。若い支那人の駁者は腹立たしさうに、ぴしぴし馬を毆りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせてゐる。馬車は無論轉覆しさうになる。往來にはすぐに人だかりが出來る。どうも上海では死を決しないと、うつかり馬車へも乘れないらしい。
その内に又馬車が動き出すと、鐵橋の架つた川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群つてゐる。川の縁には緑色の電車が、滑らかに動いてゐる。建物(たてもの)はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階(がい)か四階である。アスフアルトの大道(だいだう)には、西洋人や支那人が氣忙(きぜは)しさうに歩いてゐる。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相圖をすると、ちやんと馬車の路を讓つてくれる。交通整理の行き屆いてゐる事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都合の及ぶ所ぢやない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊(いささか)恐れをなしてゐた私は、かう云ふ晴れ晴れした景色を見てゐる内に、だんだん愉快な心もちになつた。
やがて馬車が止まつたのは、昔金玉均が暗殺された、東亞洋行と云ふホテルの前である。さきに下りた村田君が、馭者に何文だか錢(ぜに)をやつた。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引つこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻(しきり)に何かまくし立ててゐる。しかし村田君は知らん顏をして、ずんずん玄關へ上つて行く。ジヨオンズ友住の兩君も、やはり馭者の雄辯なぞは、一向問題にもしてゐないらしい。私はちよいとこの支那人に、氣の毒なやうな心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだらうと思つたから、さつさと跡について戸の中へはいつた。その時もう一度振返つて見ると、馭者はもう何事なかつたやうに、恬然と馭者臺に坐つてゐる。その位なら、あんなに騷がなければ好(よ)いのに。
我我はすぐに薄暗い、その癖裝飾はけばけばしい、妙な應接室へ案内された。成程これぢや金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ビストルの丸(たま)位は食はされるかも知れない。――そんな事を内内考へてゐると、其處へ勇ましい洋服着の主人が、スリツパアを鳴らしながら、氣忙しさうにはいつて來た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の澤村君の考案によつたものださうである。處がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、萬一暗殺された所が、得にはならないとでも思つたものか、玄關の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云ふ。それからその部屋へ行つて見ると、ベツドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けてゐて、窓掛(まどかけ)が古びてゐて、椅子さへ滿足なのは一つもなくて、――要するに金玉均の幽靈でなければ、安住出來る樣な明き間ぢやない。そこで私はやむを得ず、澤村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此處から餘り遠くない萬歳館へ移る事にした。
[やぶちゃん注:芥川は3月30日の午後、上海に到着している。以降、上海を拠点に、杭州(5月5日~5月8日)や、蘇州から鎮江・揚州を経て南京への旅(5月8日~5月14日)をし、5月16日に上海に別れを告げ、長江を遡り、漢口へと向かっている。上海は延べ一箇月強の滞在であるが、実は「五」で語るように、その殆んどが(4月1日~4月23日迄の約三週間)乾性肋膜炎による入院生活であった。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。
・「村田君」は村田孜郎(むらたしろう ?~昭和20(1945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。
・「友住君」は、筑摩書房全集類聚版脚注によれば、村田孜郎と同じく大阪毎日新聞社記者。やはり中国在留社員である。次の「ジョオンズ」も含め、彼ら三名は皆、芥川龍之介を出迎えた人々であって、日本からの同行者ではない。
・「國際通信社のジヨオンズ」は、Thomas Jones(1890~1923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。1915年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。
・「金玉均」はキム・オッキュン(1851~1894)。ウィキの「金玉均」の記載に依ると、朝鮮李朝時代後期の開明派の政治家。1882年に半年間日本に遊学、福澤諭吉の薫陶を受ける。朝鮮の清朝からの独立を目指し、1884年4月に帰国、12月に支配拡大を意図した日本の協力のもとに閔(ミン)氏政権打倒クーデターである甲申事変を起こすが失敗、日本に亡命後、上海に渡る。1894年3月、閔妃(ミンビ)の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで銃撃され死去した。遺体は清政府により朝鮮に搬送、そこで身体を切り刻む凌遅刑に処された上、胴は川に捨てられ、寸断された首・片手及片足・手足がそれぞれ各地に見せしめとして晒されたという。
・「東亞洋行と云ふホテル」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海北四川路にあった日本人経営の旅館。』とある。
・「大阪の社の澤村君」は、澤村幸夫。大阪毎日新聞社本社社員。戦前の中国・上海関連の民俗学的な複数の著作に同名の作者が居り、同一人物と思われる。彼はまたゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかった。更に芥川龍之介の遺稿「人を殺したかしら?――或畫家の話――」のエピソード(左記の私の電子テクスト冒頭注参照)に現れる「沢村幸夫」なる大阪毎日新聞社記者とも同一人物と思われ、実は、なかなかに謎めいた人物ではある。
・「萬歳館」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海西華徳路にあった日本人むけの旅館。』とある。]
元日に約束した芥川龍之介の中国紀行群の電子テクスト化に踏み切ることとする。まずは「上海游記」から。現在のところ、ネット上には本篇のテクストは存在しない。オリジナルの注を附す。
なお、本紀行群には多くの差別的言辞や視点が見受けられる。明白に芥川は当時の中国を見下している。「六 城内」では『支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから』といった言い方さえしている。最も眼に触るのは「支那」という呼称であるが、当時は正に見下した呼称として一般なものであり、時には芥川はそこにある種の敬愛する文化的な香気をも込めている部分もあるように思われはする。としても不快な響きである。職業差別も顕著に現れる。芥川及び当時の一般的日本人の限界に対して、批判的視点を失わずにお読み頂きたい。少なくとも「支那」を「支那」と言って何が悪いと公言して憚らない、男根で障子を破って文学だと思っているお下劣な現代の首都の為政者の非文学的低能さに比すれば、ここにいる芥川は、少なくとも『本物の作家』であると、僕は思う。
纏まって読めるように、ブログ・カテゴリに『芥川龍之介「上海游記』も設けた。
上海游記 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正10(1921)年8月17日~9月21日の期間の中で、21回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊及び『東京日日新聞』に連載され、後に『支那游記』(本作を巻頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」で構成)に所収された。第十五回~第十七回の「南國の美人」は、これのみ単独で『沙羅の花』にも再録している。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私の注を附した。]
上海游記
一 海 上
愈(いよいよ)東京を立つと云ふ日に、長野草風氏が話しに來た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算ださうである。その時長野氏は深切にも船醉ひの妙藥を教へてくれた。が、門司から船に乘れば、二晝夜經つか經たない内に、すぐもう上海(シヤンハイ)へ着いてしまふ。高が二晝夜ばかりの航海に、船醉ひの藥なぞを携帶するやうぢや、長野氏の臆病も知るべしである。――かう思つた私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯(げんてい)に登る時にも、雨風に浪立つた港内を見ながら、再びわが長野草風畫伯の海に怯(けふ)なる事を氣の毒に思つた。
處が故人を輕蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に當つた馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけてゐると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時時頭の上へも降りかかつて來る。海は勿論まつ白になつて、底が轟轟煮え返つてゐる。その向うに何處かの島の影が、ぼんやり浮んで來たと思つたら、それは九州の本土だつた。が、船に慣れてゐる馬杉君は、卷煙草の煙を吐き出しながら、一向弱つたらしい氣色も見せない。私は外套の襟を立てて、ポケツトヘ兩手を突つこんで、時時仁丹を口に含んで、――要するに長野草風氏が船醉ひの藥を用意したのは、賢明な處置だと感服してゐた。
その内に隣の馬杉君は、バアか何處かへ行つてしまつた。私はやはり悠悠と、籐椅子に腰を下してゐる。はた眼には悠悠と構へてゐても、頭の中の不安はそんなものぢやない。少しでも體を動かしたが最後、すぐに目まひがしさうになる。その上どうやら胃袋の中も、穩かならない氣がし出した。私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往來してゐる。(これは後に發見した事だが、彼も亦實は憐れむべき船醉ひ患者の一人だつたのである。)その目まぐるしい往來も、私には妙に不愉快だつた。それから又向うの浪の中には、細い煙を擧げたトロオル船が、殆(ほとんど)船體も沒しないばかりに、際どい行進を續けてゐる。一體何の必要があつて、あんなに大浪をかぶつて行くのだか、その船も當時の私には、業腹で仕方がなかつたものである。
だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるやうな、愉快な事許り考へようとした。子供、草花、渦福(うずふく)の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、後は何だつたか覺えてゐない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に過つたさうである。さうしてその時の經驗が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役(たいやく)を勤めたさうである。そんな事もいろいろ考へて見たが、頭は益(ますます)ふらついて來る。胸のむかつくのも癒りさうぢやない。とうとうしまひにはワグネルなぞは、犬にでも食はれろと云ふ氣になつた。
十分ばかり經つた後、寢床(バアス)に横になつた私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし私は強情に、胃の中の物が出さうになるのを抑へつけるのに苦心してゐた。この際これだけの勇氣が出たのは、事によると船醉ひに羅つたのは、私一人ぢやないかと云ふ懸念があつたおかげである。虚榮心なぞと云ふものも、かう云ふ時には思ひの外、武士道の代用を勤めるらしい。
處(ところ)が翌朝になつて見ると、少くとも一等船客だけは、いづれも船に醉つた結果、唯一人の亞米利加人の外は、食堂へも出ずにしまつたさうである。が、その非凡なる亞米利加人だけは、食後も獨り船のサロンに、タイプライタアを叩いてゐたさうである。私はその話を聞かされると、急に心もちが陽氣になつた。同時にその又亞米利加人が、怪物のやうな氣がし出した。實際あんなしけに遇つても、泰然自若としてゐるなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亞米利加人も、體格檢査をやつて見たら、齒が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えてゐるとか、意外な事實が見つかるかも知れない。――私は不相變(あひかはらず)馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞しくした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたやうに、蒼蒼(あをあを)と和んだ右舷の向うへ、濟州島の影を横へてゐる。
[やぶちゃん注:横須賀海軍機関学校英語教授嘱託に嫌気がさしていた芥川龍之介は、現職のまま、結婚による経済的安定を図るために小説家として大阪毎日新聞社社友となっていた(大正7(1918)年2月)が、その後、正式な社員として採用を依頼、大正8(1919)年2月内定、3月3日に同時採用を依頼していた菊池寛と共に正社員として採用された(同月31日に機関学校を退職)。その後、既に文壇の寵児となっていた芥川は、各種団体からの依頼が相次ぎ、国内を講演旅行することが多くなった。また芥川自身、大正7年頃の段階で、友人に手紙で中国上海での生活費等を問い合わせるなど、自律的にも中国行への希望があったため、大阪毎日はそうした芥川に、大正10(1921)年2月21日、大阪本社に招聘、正式な海外視察員として、3月下旬から3~4箇月の中国特派の提案をする。勿論、芥川は二つ返事でこれを承諾した(そこには大正8(1919)年9月に出会い、肉体関係にも及びながら、既に生理的に嫌悪の対象とさえなっていた不倫相手秀しげ子からの逃避という理由も隠れていたものと思われる)。国際化の新時代の中国像を芥川の巧妙な冴えたペンでアップ・トゥ・デイトに描き出させようというのが大阪毎日の目論見であったが、芥川は旅行中、病気等もあって新聞への逐次連載を全く果たせず、帰国後のこれらの文学者としての芥川らしい鋭い視線を持った紀行文も、列強を凌駕せんとするアジアの領袖たる日本人の冷徹な視線を期待した新聞社の意に沿うものとはならなかった。芥川自身にとっても、この旅に纏わる肉体的・精神的疲弊が自死の遠因の一つであったとも言えるかも知れない。本紀行群は後世の芥川研究の中でもその評価は全体に低いが(私も大学二年の時に手に入れた旧全集を通読して、当時の日記にこれらの中国紀行を指して「芥川は唯一拭い難い汚点を残してしまっている」と記している)、近年、これらの紀行の再評価の機運は著しく、必ずしも好意的な内容とはいえない現代中国にあっても、本作が読み直されている事実は注目に値する。私もそうした新しい視点から本作を、再度、読み直してみたいと思う。
・「東京を立つと云ふ日」大正10(1921)年3月19日、東京発午後5時半の列車で門司に向かった。この時は21日出航の「熊野丸」への乗船を予定していたのだが、実際には車中で出発前に罹患していた風邪が悪化し発熱、急遽、翌日、大阪で下車、大阪毎日の学芸部長であった薄田泣菫の世話で27日まで一週間、旅館で療養した。この旅行には、病気が終始付き纏うこととなる。
・「長野草風」明治18(1885)~昭和24(1949)年。日本画家。川合玉堂に師事、安田靫彦・今村紫紅らと紅児会に加わった。日本美術院同人。この後、大正12(1923)年と大正14(1925)年の二度に亙って中国に遊学している。
・「三月二十一日の午後、筑後丸」これは「東京を立つと云ふ日」の注と合わせればお分かりのように、既に彼の仮構が働いている。これは当初の予定の期日であり、実際に筑後丸に乗船したのは3月28日であった。なお、27日に大阪を出発した芥川は、門司で再び感冒をぶり返している。後年、彼は「侏儒の言葉――病牀雜記――」の「三」で、以下のようにこの時の情けなさを記す。
三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も輕井澤の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の關の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の關と三度目のぶり返しなれば、存外熱も容易には下らず、おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中などは少くとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」
東雲(しののめ)の煤ふる中や下の關
ここで芥川は冗談で仲居の言った「梅毒」のエピソードを挙げている。しかし、これもこの中国行の後に「恐れ」として芥川の精神に暗い影を落とすこととなる病名なのである(「十二 西洋」注参照)。「筑後丸」は日本郵船会社所属(但し、国産ではなくイギリスからの輸入船)。三輪祐児氏のHP「■近代化遺産ルネッサンス■戦時下に喪われた日本の商船」の「筑後丸」のページには、写真とデータに加えて、何と本「上海游記」の記載があり、この大正10(1921)年からこの筑後丸が昭和17(1942)年11月3日に潜水艦の雷撃によって撃沈するまでの約20年が走馬灯のように印象的に綴られている。必読の一篇である。「舷梯」はタラップ、ボーデイング・ブリッジのこと。
・「馬杉君」不詳。その後にも登場しないことから、同行した大阪毎日関係者ではないと思われる。正に本文にある通り、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。
・「仁丹」森下仁丹の口中清涼剤である仁丹は、明治38(1905)年に懐中薬として発売されている。甘草・桂皮(シナモン)・薄荷脳(メントール)等16種の生薬を配合して丸めたもので、当時はベンガラでコーティングされていた。適応症として「乗り物酔い」が挙げられている。
・「渦福の鉢」は陶器の銘の一つで、渦を巻いた印の中に草書体の「福」の字を配したもの。古伊万里の柿右衛門様式にしばしば現れるため、名品の証しとされる。この連想は旅行直前の出来事と関係がある。実は、出発直前の3月16日のこと、芥川家に突如「渦福の鉢」が贈られてきたのであった。これは彼が『新潮』の同3月号に掲載した「點心」の「托氏宗教小説」(「トルストイ宗教小説」の中国語訳)の冒頭で、
今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。[やぶちゃん補注:以下略。上記の僕の電子テクストを参照されたい。]
と書いたのを読んだ、先輩作家田村松魚(たむらしょうぎょ)が「渦福」の茶碗を贈ってよこしたであった。芥川は松魚とは逢ったことがなく、恐縮して同日礼状を認めている。田村松魚(明治10(1877)年~和23(1948)年)は幸田露伴の高弟として活躍した作家である。作家田村俊子は彼の元妻である(大正7(1918)年に愛人を追って逃避行)。
・「日本アルプス」は、前年大正9(1920)年7月の『改造』に発表した「槍ケ岳紀行」の連想であろう。研究者や登山家の間には、芥川がこの頃、槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるようであるが(そういう論文やエッセイを読んだことがある)、これは明治42(1909)年、東京府立第三中学(現・両国高校)5年の17歳の時、同級生ら5人で登攀した際の記録をインスパイアした確信犯的偽作である。
・「初代ぽんた」は、新橋玉の家の名妓初代ぽん太のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のここでの連想は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、
かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび
辺りを受けるものではなかろうかと思われる。
・「フリイゲンデ・ホルレンデル」“Der fliegende Holländer”は、Wilhelm Richard Wagnerリヒャルト・ワーグナー(1813~1883)作の歌劇「さまよえるオランダ人」のこと。天罰により呪われ、現世と煉獄の間を行き来し、永遠に死ぬことが出来ずに七つの海を彷徨うオランダ人の幽霊船の北欧神話をモチーフとしたChristian Johann Heinrich Heineハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)の“Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski”「フォン・シュナーベレヴォプスキイ氏の回想記」という詩にワーグナーがヒントを得て作曲したオペラ。
・「寢床(バアス)」“berth”で、海事用語としては本来は操船余地・停泊位置又は高級船員階級や高級船員室を指すが、ここでは船内の高級船室の1人用の寝台を言う。海軍機関学校の教師であった彼には親しい語であった。
・「齒が三十九枚ある」標準的現代人の歯は上下合わせて28本(第三大臼歯=親知らずを含めると32本)。余分な奇数が悪魔の尻尾である。]
『片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注 』を、正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
――本テクストを、今日、猫のいる浄瑠璃寺の門前からの「今日の」写真(!!!→この感嘆符は「野に住みて」の私の注をお読みになれば、おのずと分るであろう)を僕にメールで送ってくれた、教え子の貴女に感謝を込めて捧げる――
片山廣子第二歌集「野に住みて」の校正を今朝、終了した。明日の夜、若しくは土曜には公開する予定である。これほど、しっかり読んだ歌集は、生涯に於いてこれが最初で最後となる気がする。相応な注も附してある。少しだけ、ご期待あれ。
片山廣子第二歌集「野に住みて」のとりあえずの総ての打ち込みと注記を完了した。ただ、原始的なタイプであるので、校閲にもう少し、お時間を戴きたい(実際、校閲とは言いながら、孤独な作業なので、杜撰さは免れないのあるが)。
『マツグ著「阿呆の言葉」(抄)――芥川龍之介「河童」に現われたる芥川龍之介のアフォリズム』を、正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
どちらも僕の片山廣子『野に住みて』の「琴線抄」には採っていないが、タイプするとまた、感じ方が違うものだ。どうもどちらも気になる歌である。
一族の年長者よとわれを思ひ眠りに入りしひとびとを呼ぶ
これは恐らく敗戦直前に病死した長男達吉の七回忌法要、昭和26(1951)年3月の歌と思われる。一種呪術的である。ここにいるのは、まさに古代の巫女である。族長としてのシャーマン、廣子は歌なるものの原初へと確かに回帰している。卑弥呼のように――
*
としつきを默して過ぎしまづしさよなづみ果てては誇りともなる
「なづむ」は第一義的には「悩み苦しむ」の意味で用いられていようが、更に派生的な「執着する」「こだわる」「打ち込む」の意をも示していよう。廣子は戦前・戦中・戦後を通して自分が黙って過ぎてきたことを深く自省しつつ、そこにしかし「黙る」という覚悟の中で確かに廣子として生きてきたことの人生の矜持を示しているのだと私は読む。ルブリョフのように――
芸術家の戦争責任を追求することが偉大な文学研究だと思い込み、詩人の熱い魂だなんどと勘違いしている有象無象の馬鹿どもに、この歌の切れ端を額に貼り付けてやりたい気がする。
昨日来、片山廣子第二歌集『野に住みて』のタイプによる打ち込みを開始、ほぼ9割方終了した。中でも、「ひばりの歌」歌群の注に手間取りつつも、不思議に楽しかった。これは「大伴家持の歌をよみかへす折ありて」というモノグラフを持つ。僕は家持が越中守として在任した地で中学高校を過したのだった。その国府跡の勝興寺は、斜に構えた僕と友人の青春時代の道草の定番だったのだ。注を書きながら、あの頃のことが何故か懐かしく思い出されてくる――
なき父のいよよ戀しくしらぬひの筑紫の梅の歌よみかへす
[やぶちゃん注:これは家持の歌ではなく、彼が13歳前後の時に亡くなった、まさに「なき父」大伴旅人(天智4(665)年~天平3(731)年)が筑紫で詠んだ梅の歌、巻第8の1640番歌を指すものと思われる。
太宰帥大伴卿の梅の歌
わが岳(をか)に盛りに咲ける梅の花殘れる雪をまがへつるかな
「まがへつるかな」は、山の上の少しばかりの残雪があって、それを梅の花と見紛うたよ、という意である。「なき父」を「いよよ戀しく」思っているのは、まず廣子であり、廣子が家持とダブり、そこから廣子の父が投影された旅人が現れるという重層効果をこの歌は持っているのである。]
家まもる都のひとに贈るべく百(もも)の眞珠も欲しとぞ詠みし
[やぶちゃん注:これは、巻第18の4101~4105番歌群を指す。
京の家に贈らむが爲に、眞珠(あらたま)を願(ほり)せる歌一首并びに短歌
珠洲(すす)の海人(あま)の 沖つ御神に い渡りて 潛(かづ)き採るといふ 鮑玉(あはびたま) 五百箇(いほち)もがも はしきよし 嬬(つま)のみことの 衣手の 別れしときよ 奴婆玉(ぬばたま)の 夜床(よとこ)かたさり 朝寢髮 掻きもけづらず 出て來し 月日よみつつ 嘆くらむ 心なぐさに ほととぎす 來鳴く五月の あやめぐさ 花橘に 貫(ぬ)きまじへ 縵(かづら)にせよと 包みてやらむ(4101)
白玉を包みてやらな菖蒲草(あやめぐさ)花橘に合へも貫くがね(4102)
沖つ嶋いゆき渡りて潛くちふ鮑玉もが包みてやらむ(4103)
吾妹児(わぎもこ)が心なぐさにやらむため沖つ嶋なる白玉もがも(4104)
白玉の五百箇(いほつ)集ひを手にむすび遣(おこ)せむ海人はむがしくもあるか 〔一に云はく、「むがしけむはも」〕(4105)
右は、五月十四日に、大伴宿禰(すくね)家持、興に依りて作れり。
以下、簡単な語注を附す。なお、この真珠は恐らく彼が越中守として統治していた、現在の能登半島舳倉島産のものと思われる。
○(4101)「はしきよし」:愛すべき。
○(4101)「夜床かたさり」:一方に退いて。一人寝の妻は夜の褥も片端に淋しく寝て、の意。以下、「嘆くらむ」までが想像の妻の景である。
○(4101)「包みて」:土産として。
○(4102)「合へも貫くがね」:「がね」は願望を表わす助詞で、「がに」と同じ。貫き合わせて飾り玉にして欲しい、の意。
○(4103)の歌は海人への真珠採りの懇請歌。
○(4104)「ちふ」は「といふ」の省略形。
○14105)「むがしくもあるか」(勇ましいことであろう) 、「むがしけむはも」(勇ましいことであるなあ)で真珠を採ってくれる(くれた)海人への言祝ぎの歌である。]
み越路のましろの鷹をうたに詠みて鄙のむすめは見かへりもせず
[やぶちゃん注:推測であるが、これは巻第19の4154及び4155番歌にインスパイアされたものではなかろうか。
八日に、白き大鷹を詠める歌一首并びに短歌
あしひきの 山坂超えて ゆき更(かは)る 年の緒(を)ながく しなざかる 越(こし)にし住めば 大君の 敷きます國は 京師(みやこ)をも ここも同(おや)じと 心には 思ふものから 語り放(さ)け 見放(さ)くる人眼(ひとめ) 乏(とも)しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心和(な)ぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀨野(いはせの)に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗(しらぬり)の 小鈴(こすず)もゆらに あはせやり ふり放(さ)け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ伸べ うれしびながら 枕づく 妻屋の内に 鳥座(とくら)ゆひ 据ゑてそ吾が飼ふ 眞白斑(ましらふ)の鷹
矢形尾(やかたを)の眞白の鷹を屋戸(やど)に据ゑかき撫で見つつ飼はくしよしも
以下、簡単な語注を附す。因みに、私はこの越中国府跡の地高岡市伏木に、青春時代、6年間住んだ。
○「思ふものから」「ものから」は逆接の接続助詞で、京もこの越中も、帝がお治めになる土地という点で同じとは言うものの、の意。
○「語り放け……」は、この越中の地はあまりに鄙(ひな)で淋しく孤独で、親しく語り合う、見つめ合うことの出来る人が遠く避け離れて、いないことを嘆く。
○「石瀨野」一般の注では当時の新川郡の地名とするが、国府のあった現在の高岡市伏木の外れにある岩瀬ととりたい。私の家はこの近くにあった。
○「馬だき」の「だき」は「たき」で、操る、駆けるの意。
○「鳥踏み立て」は、野中に馬を駆け入れて鳥を追い立てることを言う。
○「白塗」銀鍍金(メッキ)。
○「あはせやり」は、鈴を附けた矢を放って鷹を追う家持が、その矢とその鷹とを互いに争はせるといった意味合いである。
○「枕づく……」以下、次の短歌を含めて、独り身の淋しさを鳥籠の中で白い斑(ふ)を持った優美な鷹を飼うことで癒す、といった描写である。
廣子はこの長歌の最後や短歌のイメージを、斑(ふ)を持った優美な白鷹=粗野ながら魅力的な自然児の鄙の娘への、家持のラヴ・ソングとして換骨奪胎したのではあるまいか。識者の御批評を乞う。]
鳴きとよむ雉子(きぎす)のこゑを聞きながら朝かすむ山を見てゐたりけり
[やぶちゃん注:これは巻第19の4148及び4149番歌を主調とする。
曉(あかとき)に鳴く雉(きぎし)を聞ける歌二首
杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも哭(な)かむ隠妻(こもりづま)かも
足引の八峯(やつを)の雉 鳴き響(とよ)む 朝明(あさけ)の霞見ればかなしも
最初の歌は、一人寝の作者が悶々として寝られずに朝を向かえ、そこに雄の雉が雌を呼ぶ声を聴いての歌であろうか。人知れず隠しおいた妻であるはずの女を呼ぶお前は、その鳴き声でそれが人に知られてしまっているよ、それほどに、私のごと、妻が恋しいか、という感じであろうか。もっと違ったシチュエーションでセクシャルな意味合いも感じられないではないが、穏当にそう解釈しておきたい。]
『片山廣子集《昭和6(1931)年9月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全 』を、正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
今日は半日かけて昭和6(1931)年9月15日発行の改造社版『現代短歌全集』第十九巻に所収された「片山廣子集」のテクストを打ち込んでいた。そうして、あと数ページというところに至って、僕は確信したのだ――僕は、意を決して遂に廣子にラヴ・レターを書くことにした――
「片山廣子樣……あの『「翡翠」より』の歌群のことで御座います……貴女はあの時、巧妙に嘘をつかれましたね……隠したのですね、あの中に……濟みません、八十數年後の今日、それに氣づいてしまつた男が、ここにゐるので御座います……でも、僕は……貴女が亡くなつて52年、その今日……この手紙を確かに僕の戀の告白として送りませう……僕はストウカアではありませぬ故、厭なら厭と御返歌を頂戴出來れば、其れを以て、これ以上、御手紙を差し上げることは致しませぬ……いや、貴女と芥川樣の御関係を學術的に調べてゐた輩の内には……もしかすると已にして此の事を本當は知つて居た者もをつたのかも知れませぬ……されば、このやうに言上げせしことは、誠、愚かなリ、我心でありました……さればこそ此れは、僕の最初で最後の、貴女への告白の御消息となりませう……」
――僕は今日、夢で彼女の返事を聴くことに、する――
結局、くだらん男とくだらん男との言争ひでしかない。俺にしても君にしても、現在是非世の中にゐてもらはなければならない有用の人間ではない。多少は有用であるとしてもかけがひはいくらでもあるのだ。俺は、詩集「雨になる朝」が童心などと呼ばれるべきものでないと自分で言へば事足りてゐる。現在「詩」と称されてゐるもの(勿論「雨になる朝」もふくまれてゐる)などには論争の類をするまでの興奮も興味ももつてはゐない。このことに就てはこの後の俺の仕事に色々な意味と形で表れるだらう。以上。
次に「酔漢の愚痴」とはこんなもんだを聞かしてやる。――君が「新散文詩」などとこの頃言つてゐるやうだが、君がそれらの仕事の何をしたか。他の人々の仕事をヌスミ見ての 「知らぬ人にそのままをなるほどと思はせる」例のづるさはないか。「困つたこと云云」 は、勿論俺自身が困るの意味なのだ。君は俺の「童心とはひどい」を呂律の廻らぬ云云と言つてゐるが、「困つたことには彼は私のそれらの作品を或程度否定しなけれはならない立場にゐるのだ」とは、俺の作品をけなすことによつて君自身を他の人々に偉く思はせなければならない――といふ意味なのだ。詩、はつきりさうと言はぬまでのことであつたのだ。又、君の言ふ、暮鳥のものを君が童心と思つてゐるのだからしかたがないとは何のことかわからぬ。君がさう思つてゐないとも思つてゐられては困るとも俺は言つてほゐない。殊に俺に何か言ふならもつと用心することだ。その方が君の得ばかりではない。もーつ注意するが、あまり自分を偉く思ひこんでしまはぬ方がいゝ。君が左傾しやうがしまいが、さうしたことを一つの見えなどにしては今どき甚だ滑稽なことでもある。俺がたまたま酒を飲むといふので「酔漢」などの文字を使つてゐるのだらうが、俺が酒飲みであれは尚のことこんな文字を使ふには用心をしなければならぬのだ。又酒を飲まぬことを自慢にするものもそれが君であつてはどうかと思ふ。さういつまでも俺を相手にしてゐる余裕を持ち合してゐる僕ぢやない。――の余裕とはおそらく時間のことではなく、も一つの方のことなのだらうが、それこそまどはしい文章だ。「詩と詩論」に及んだことが、君がこの頃せつかく「俺は超現実主義ではない、俺は左傾といふことをするのだ」――と言つてゐるそれの邪魔をしてわるかつたわけだ。兎に角君は君の望んでゐるだけ早く偉くなることだ。君は偉いといふことをつまらぬことだなどと思ふやうになつてはいけない。北川よ、反省などをしてはいけない。それこそ出世のさまたげだ。
(詩神第六巻第二号 昭和5(1930)年2月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。「童心とはひどい」に続く、第二詩集『雨になる朝』に対する北川冬彦の評に対する反駁文である。北川の批評については、そちらの私の注を参照されたい。こちらではもっと明白にその『政治的季節』が見て取れる。「俺は超現実主義ではない、俺は左傾といふことをするのだ」とは何と哀しい台詞であろう。少なくとも私にとっては救いようのない台詞である。若い読者のために、一点だけ歴史的仮名遣の誤りを指摘しておく。冒頭の段落中に現れる「かけがひ」は「掛け甲斐・懸け甲斐」(期待できるだけの値うち)であり、意味が通らない(「掛買」でも不通である)。「かけがへ」=「掛替え」(用意のために備えておく同種のもの)である(恐らく動詞「掛け替ふ」からの誤用か誤植であろう)。現代仮名遣でも「かけがい」と「かけがえ」とを誤るととんでもないことになるので敢えて言っておく。私は、二十代の初め、女生徒の年賀状の返事にうっかり「残る三ヶ月、懸け甲斐のない高校時代を有意義に!」と書いて、学校で、「先生らしい素敵な皮肉ですね!」と言われて冷や汗を笑って誤魔化したのを思い出したのである。]
どうにもこの一文を草さなければならないといふのではない。ほうつて置いてもいゝのではあるが、又こんなことをすることは現代に於ては少々親切すぎるといふ旧式なことでもあるのだらうが、私の注意に何んと彼が答へるか通りがかりの諸君は一瞥をなさるがよい。
詩神十月号に北川冬彦君は拙著詩集「雨になる朝」の批評をしてゐるのであるが、困つたことには彼は私のそれらの作品を或程度否定しなければならない立場にゐるのだ。そして、その否定の方法として彼は私のものを「童心」であるから旧いといふのである。かつては村山君や神原泰君と一緒に「マヴオ」などの仕事をしたところ私は当然北川君などと肩を列らべるほど元気(?) のある新しい(?)仕事をしてゐなければならないのにといふ(或ひはもつと(?)新らしい芸術(?)でなければならぬといふ)意味を述べて、私にもつと元気を出せと彼も亦なかなか親切なのである。
思ふに、現在では、「童心」とは田舎の小学校の先生が童謡などのセイ作の折りに「苦心」するそれを指して言ふべきであるのかも知れない。が、全く、如何なる場合に於てももはや現在のわれわれの間には「童心」といふ言葉がはめた意味では存在しないことは、北川君の「童心」をもつ詩人は旧いと言つてゐることに同じなのであるが、彼の言ふところの 「童心」が詩集「雨になる朝」のどこに発見し得るといふのであらう。私は自分の芸術を新らしいと思つたことは一度もないのであるから、旧いと言はれることに何の反感ももたない。が、それが「童心」の故であるとあつてはいささか反駁をなさゞるを得ない。も一度その「雨になる朝」を読み直してもらひたい。私は、北川君には詩がわからないのだといふやうなあくたれをきゝたくない。「童心」といふものを嫌ふ意味に於ては私も北川君にまけないのであるから、間違つても「童心」などと言つてもらひたくないものだ。「童心」とは一茶良寛さんの頃のものであつて、すくなくとも暮鳥さん以後に於ては「童心」の芸術などあつてはならぬのだ。
この一文が「詩と詩論」に言及することはうるさいのがいやだからいやなのであるが、その頃流行といふことにはならなかつたが(それだけよかつたのであるが)六七年以前に、私は今年の二科会などの超現実主義的と言はれる作品よりもつとさうである仕事をしてきてゐるのだし、「詩」作にも現在の「詩と詩論」の同人諸君の作品のそれに同じいものをもして来てゐる。つまり私はそれらのことをすでに経験して来てゐる。こんなことをわざわざ言ふことはテレ臭いことであるが、私が彼等より新らしいと言ふ意味にではなく、私がもう種痘をしてゐるといふ意味でのみ述べてゐる次第である。たゞ断つて置くが、その頃でさへ楽器と言つてピアノの形などを、ねぎぼう主といつて白い少女といふ活字を列らべる、又は粟が「ぶた」に似ているといふやうないたづらに似たことは発表することを何んとなく恥じたものであつた。
又、北川君は私が足り過ぎる生活にわざわひされてゐると言つてゐる。おそらく物質のことを指すのであるのだらう。が、もう少し頭を働かして欲しい。もつとたしかめてから言つて欲しい。「詩と詩論」の運動が現在のやうな影響を他にあたへてゐることは、かつて短詩型の運動が何時もともなつてゐた「困つたこと」と同じことであることを残念に思つてゐる。そして「詩と詩論」が何時までたつても翻訳的でしかないことを私は残念に思つてゐる。そして、この一文が私の愚かさや学問のないことをさらけだしたことにとゞまるといふことになる方がよいのであつて、更にお互(?)がこれにわをかけた愚かさをばくろするが如き論争になることを私はさけたいのだ。(私はそれを北川君よりも春山君へより多くを希望する。)
(詩神第五巻第十一号 昭和4(1929)年11月発行)
[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。彼の剥き出しの神経に触れた、その焦燥(いらだち)がよく現れた文章である。故に特にその瑣末な歴史的仮名遣の誤りや平仮名表記を指摘しない。本作は尾形亀之助がこの年の5月に刊行した第二詩集『雨になる朝』に対する北川冬彦の評に対する反駁文である(尤も正面切って辛辣であったから北川が選ばれたに過ぎず、恐らくはその他の多くの人々の不評も神経症的に反映されたものである)。それは同じ発表誌に並んでしまった以下のような評であった(引用は秋元潔「評伝尾形亀之助」より孫引き)。
詩集『雨になる朝』にあらはれた尾形龜之助氏は、季節の移り變りや、日ざしの濃淡や、 庭や垣の気配、雨だの、煙草だの、すべて靜かな、細かい生活環境の日常に、魅力を感じてゐる。(中略)しかも、それを樂しんでゐる。『童心』を以て眺めてゐる」「尾形亀之助氏が『雨になる朝』の境地に住むのは、あまりに生活に餘裕がありすぎたからである。生活の餘裕が尾形龜之助氏を、かうも退嬰的な境地へ引き籠らせてゐるのである。もしも尾形龜之助氏が、生活と闘はなけれはならなかつたとしたら、彼はどうなつてゐたらうか。吃度、このやうな境地にはゐないに違ひない」(北川冬彦「雑感一束」:『詩と詩論』昭和4(1929)年12月発行)
「詩集『雨になる朝』にあらはれた尾形龜之助の『童心』は純粋である。それは、まさに北原白秋のそれ以上のものである。(中略)詩術に於ても」(北川冬彦「詩集『雨になる朝』について」:『詩神』第五巻第十一号 昭和4(1929)年11月発行)
先に掲げた「さびしい人生興奮」の中で、尾形は本詩集「雨になる朝」について、
私はこの詩集をいそいで読んでほしくないと思つてゐる。本箱のすみへでもほうり込んで置いて、思ひ出したら見るといふことにしてもらひたい。
と言っている。尾形がこの時期の政治的季節に突入した愚劣な詩壇の趨勢から、自身が指弾されるであろうことを体感はしていたようだ。しかし、まさか自身が芸術家・詩人として終始『戦友』であったはずの北川や草野(秋元氏の同書から引用すると、草野心平は同じ『詩神』第五巻第十一号「尾形亀之助」で、次のように言っている。「尾形は『色ガラスの街』から尾形なりの墜落をしてきた。尾形なりの眼をひらいた。……(略)……これからが彼の正面切つての戰ひである。彼は『色ガラスの街』が暗示するように、日本の非現實的詩人の超弩級であつた。それに後髮をひかれない彼であらうか。吾々はその彼を正しく視そして肯定しそして侮蔑する」)が、見当違いな物謂いをしかけてくるとは思っていなかったのであろう(ということ自体が彼のお目出度い人の良さでもあった。しかし、北川の悪意に満ちた物謂い、草野のその「後髮」や「侮蔑」という狡猾な表現には、正直、私は吐き気を催す。彼等は戦中とは違った意味で『バスに乗り遅れまい』としたのではなかったか)。いや、尾形がここで如何にも苛立ちながら、舌足らずに述べている「翻訳的」という語は、実は詩や詩論が常に政治的・社会的・道徳的に自動翻訳されてしまう、現代へと通底する問題を提起しているように私には思えてならないのである。]
*
私は今年に入って、さる人物に「そろそろ尾形亀之助はいいんじゃないか」と言われた。テクスト化している残る評論の13篇程のその内容も、多くが他の詩人の詩評であり、実際、打ち込みが退屈でもあるわけで(実際に私は草野と春山ぐらいしかまとまって読んだことがないわけであり)、暫く手をつけていなかったのであるが――どうも他人から「そろそろ」何どと、僕の目の前に白いチョークで停止線を引かれるのは、如何にも不快なのである。僕にとって尾形亀之助はその程度のものではない。そこで、今日はやおら、こいつを担ぎ出したのである。
日中
はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし
しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ
風あらく大空のにごり澄みにけり山々にしろき卷雲をのこし
板屋根のふるび靜かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり
さびしさの大なる現はれの淺間山さやかなりけふの青ぞらのなかに
かげもなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに來つ
われら三人影もおとさぬ日中(につちう)に立つて清水のながれを見てをる
しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ
土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり來てみればのびろし畑は
さびしさに壓されて人は眼をあはすもろこしの葉のまひるのひかり
あかるすぎる野はらの空氣まなつ日の荒さをもちてせまりくるなり
日傘させどまはりに日あり足もとのほそながれを見つつ人の來るを待つ
日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ
四五本の樹のかげにある腰かけ場ことしも來たり腰かけてみる
しろじろとうら葉のひかる々ありて山すその風に吹かれたるかな
われわれも牧場のけものらとおあなじやうに靜かになりて風に吹かれつつ
おのおのは言ふことなくて眺めたり村のなかよりひるの鐘鳴る
友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな
をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま
[やぶちゃん注:以上は、初出である改造社版『現代短歌全集』第十九卷「片山廣子集」より、直接引用した。片山廣子の親友であり、故芥川龍之介の弟子であった堀辰雄は、大正14(1925)年の夏を輕井澤で過したが、その際、義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されている。そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、『夏の末、片山夫人令孃、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載がある。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年八月下旬二三日~二七日頃の出來事である。廣子四七歳、芥川龍之介三三歳であった。「野に住みて」版の「日中」との比較は、私のこのブログ記載分を別ウィンドウで開いて見るのが手っ取り早いと思われる。先日来、感じていたことだが、この最後の一首、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」の、私の愛してやまない、あの名文、
その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。
にインスパイアされているような気がしてならないのである。]
昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」の披見により、「片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》」の補正を行い、3首を追加、計234首とした。
以上の仕儀により、出発当初は、そこらじゅうからの無批判的蒐集に過ぎなかった本頁も、精度も高まり、まだ見ぬ恋人である作者にお叱りを受けぬ程度のものには、なったと思っている。
「無門關 全 淵藪野狐禪師訳注版」を本トップページに公開した。
アーカイブ(単一ファイル)で、文字情報だけで1.33MBというのは、恐らく僕のHPでは1年がかりで打ち込んだジャズ・リストを除いて、最大のものとなった。
無門關
參學比丘 彌衍 宗紹編
一 趙州狗子
趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。
無門曰、參禪須透祖師關、妙悟要窮心路絶。祖關不透心路不絶、盡是依草附木精靈。且道、如何是祖師關。只者一箇無字、乃宗門一關也。遂目之曰禪宗無門關。透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師把手共行、眉毛厮結同一眼見、同一耳聞。豈不慶快。莫有要透關底麼。將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團參箇無字。晝夜提撕、莫作虚無會、莫作有無會。如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出。蕩盡從 前惡知惡覚、久久純熟自然内外打成—片、如啞子得夢、只許自知。驀然打發、驚天動地。如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭得大自在、向六道四生中遊戲三昧。且作麼生提撕。盡平生氣力擧箇無字、若不間斷、好似法燭一點便著。
頌曰
狗子佛性
全提正令
纔渉有無
喪身失命
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
無門關
參學の比丘 彌衍(みえん) 宗紹 編
一 趙州の狗子(くす)
趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。
「狗子に、還りて、佛性有りや無しや。」
と。
州云く、
「無。」
と。
無門曰く、
「參禪は須らく祖師の關を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖關透らず、心路絶せずんば、盡く是れ、依草附木(えさうふぼく)の精靈(せいれい)ならん。且らく道(い)はん、如何が是れ、祖師の關。只だ者(こ)の一箇の『無』の字、乃ち宗門の一關なり。遂に之を目(なづ)けて『禪宗無門關』と曰ふ。透得過(たうとくか)する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把(と)りて共に行き、眉毛(びまう)厮(たが)ひに結びて、同一眼に見、同一耳(に)に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透關を要する底(てい)有ること莫しや。三百六十の骨節、八萬四千の毫竅(がうけう)を將(も)つて、通身に箇の疑團(ぎだん)を起こして、箇の無の字に參ぜよ。晝夜に提撕(ていぜい)して、虚無(きよむ)の會(ゑ)を作(な)すこと莫かれ。有無の會を作すこと莫なれ。箇の熱鐵丸を呑了するがごとくに相似て、吐けども又た吐き出ださず、從前の惡知惡覺を蕩盡して、久久に純熟して、自然(じねん)に内外打成(ないげだじやう)して一片ならば、啞子(あし)の夢を得るがごとく、只だ自知することを許す。驀然(まくねん)として打發(だはつ)せば、天を驚かし、地を動ぜん。關將軍の大刀を奪ひ得て手に入るるがごとく、佛(ぶつ)に逢ふては佛を殺し、祖に逢ふては祖を殺し、生死岸頭(しやうじがんたう)に於いて大自在を得、六道四生(ろくだうししやう)の中に向かひて遊戲三昧(ゆげさんまい)ならん。且らく作麼生(そもさん)か提撕せん。平生(へいぜい)の氣力を盡くして、箇の『無』の字を擧(こ)せよ。若し間斷(けんだん)せずんば、好(はなは)だ法燭(はふしよく)の一點すれば、便ち著(つ)くるに似る。」
と。
頌(じゆ)して曰く、
狗子の佛性
全て正令(しやうれい)として提(あ)ぐ
纔(わづ)かに有無に渉れば
喪身失命せん
*
淵藪野狐禪師訳:
無門關
無門慧開禅師の下(もと)に参禅修行する僧 彌衍及び宗紹 編
一 趙州和尚の「犬ころ」
趙州和尚が、機縁の中で、ある僧に問われた。
「犬ころ如きに、仏性、有るや!? 無しや!?」
――実は、この僧、嘗てこの公案に対して趙州和尚が既に、「有(ある)」という答えを得ていることを、ある人の伝手(つて)でもって事前に知っていた。――だから、その「有(ある)」という答えを既に知っている点に於いて、その公案を提示した自分は、趙州和尚よりもこの瞬間の禅機に於いて明らかな優位に立っており、その和尚が、「有(ある)」という答えや、それに類した誤魔化しでも口にしようものなら、この超然と構えている和尚を、逆にねじ込んでやろうぐらいな気持ちでいたのである――ところが――
趙州和尚は、暫くして、おもむろに応えた――
「無。」
無門、商量して言う。
「参禅しようと思うなら、嫌でも昔の年寄りの、ゴタク並べた意地悪な、ブービー・トラップいっぱいの、関所を抜けて、行かなきゃならぬ。言葉で言えない妙(たえ)なる悟り、そいつに辿り着きたけりゃ、心の底の底の底、そこまでごっそりテッテ的、総てそっくり空(から)にしな! 老人ホームも行くの厭(いや)、心底絶滅収容所、そこもとっても入れない、なんてゼイタク言ってるうちは、おめえ、どこぞの草木に憑いた、松本零士のフェアリーと、ちっとも変わらぬ、ホリエモン、基い、タワケモン!
さて、それじゃ、ちょっくら一発オッ始(ぱじ)めるか、カタリ爺いの関門たあ、どんなもんかということを!
チョロイぜ! ただホレ、この『無』の字、コイツが儂らの宗門の、後生大事の一(いち)の関。そんでもってダ、終(しま)いにゃ、コイツを名づけて禪宗の、『無門の関(セキ)』と申しやす!
ここんとこ、T-1000みたいに、スゥーイっとね、スルーできたら、二百年、遙か昔の趙州ゾンビ――草履を頭に載せたまま、マイケルみたよなムーン・ウォーク、やっちゃう趙(ジョウ)に逢えちゃうし、校長室の歴代の、先生の眼が動き出し、貞子(さだこ)よろしく額縁の、外に出てきて、おめえと一緒、お手手つないで行(い)きませう、いやいや、手と手じゃ手ぬるいゼ、一緒に眉毛(まゆげ)も結んじゃエ! そしたらだって、一緒にサ、同(おんな)じ一つの眼で見てサ、同(おんな)じ耳で聴けるべサ! なんてったて、痛快じゃん!
こんなに楽しい関門だモン、どうして通らぬ法がある? さっきの心、だけじゃなく、全身三百六十の、骨・関節もバラしてサ、全身八万四千を、数える毛穴全開し、総身(そうみ)を一己の『疑いの、塊り』のみに成し上げて、一個の『無』の字に参禅せ! 昼夜(ちゅうや)の区別捨て去って、お前の真実(まこと)の魂(たましい)の、ファルスをニョキっと、おっ立てろ! 虚無だの有無だのセコイこと、一切合財、思慮するな! あのドラゴンだって言ってるゼ、『考えるな! 感じるんだ!』――
さてもさて、そいつを喩えてみるならば、真っ赤に燃える砲丸を、ゴクンと呑んだ、ようなもの、呑み下そうにも呑み下せず、吐き出そうにも吐き出せぬ――そうするうちに昔から、おめえがずっと持っていた、『知覚』ちゅう名の元凶が、口からずいっとおいどの穴、そこまで綺麗に焼き尽くされ、消毒完了、マムシ酒、時間をかければ、熟成し、自然(おのず)と、己(おのれ)と世界とが、渾然一体、あい成って、お前だ俺だの差も消えて、一つのものとなった日にゃ、それはあたかも喋れぬ人が、夢を見ているようなもの、その醸(かみな)した古酒(クース)もて、その雰囲気をしみじみと、知って確かに味わえる!
次いでさらに、いっさんに、そこんところを バラリ! ズン! 未練無用と斬り捨てて、天幕縦に切り裂けば、きっとそこには生れるゼ、バッキンバッキン! バッキバキ! 驚天動地の精力が! そん時きゃ猛将関羽さま、あの将軍の引っさげた、大刀奪って取ったるを、思うがままにブンブンと、振り回すのと同じこと! 仏に逢うたら仏を殺し、師匠に逢うたら師匠を殺せ! さすればおめえがさっきまで、とり憑かれていた生と死の、現に此岸(しがん)に立ちながら、すべてがOK! 大自在! 六道四生(ろくどうししょう)にありながら、桃源遊興、三昧境!
さてもおめえは、どうやって、この『無』の一字を弱腰に、どういう風に引っさげる!? 凡庸杜撰なその無能、無能ながらのその力、使い尽くしてこの『無』の字、がっぷり四つに組んでみよ! もしも不断にその努力、惜しまず巧まず続けたら、ちっちゃな灯(ともしび)、ちょと寄せて、豪華な法灯、ボボン! ボン!」
次いで囃して言う。
犬の仏性 『有る無し』が
校長仏陀の命令一過 不条理なのに必履修
うっかりそいつを『有る無し』の 話と思い込んだれば
懲戒停学原級留置 在籍したまま あの世行き
[淵藪野狐禪師注:超短篇の本篇の主人公、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 778~897)は、恐らくその登場回数に於いて『無門關』中、群を抜いているものと思われる。これが初則となっていること、それは勿論、無門が師月林師観(げつりんしかん 1143~1217)に参じた際に、最初に与えられた公案が、この「趙州狗子」であったことを直接の理由としているのではあろう。岩波文庫版の西村恵信氏の解説によれば、慧開はこの公案に苦しみ、『六年経っても全く見当もつかない有り様であった。そこでいよい勇気を奮い起こし、居眠りをしているようでは我が根性は腐るばかりと、眠気を催すと廊下を歩き、露柱に頭を叩きつけた』とある、いわくつきの公案なのである。しかし、そういう慧開の思い入れを知らなくても、本『無門關』では彼は、以下、「七 趙州洗鉢」「十一 州勘庵主」「十四 南泉斬猫」「十九 平常是道」「三十一 趙州勘婆」「三十七 庭前栢樹」と、多出し、且つ殆んどの話にあって、彼は彼ならではの個性を以って、話の展開に極めて重要な役割を果たしているのである。無門慧開は間違いなく、この趙州従諗が好きだったのだと私は思うのである。因みに、私も好きである。
・「彌衍 宗紹」西村注によると、二人とも伝不詳。架空の人物で無門慧開の偽名とも言われる。
・「仏性」は、「仏心」「覚性(かくしょう)」とも言い、衆生(この世のすべての生きとし生けるもの)が生得のものとして持っている仏となることの出来る性質を言う。「大般涅槃経」には「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とはっきり説かれている。従って、禅宗も含まれる大乗仏教にあっては、この質問への教理的正答、『答え』は(『応え』ではない)、「有」である。
・「テッテ的」とは、「徹底的」とするより強い、というニュアンスで私は用いている(「三 倶胝竪指」の「頌」の訳でもそのように使用した)。ご存知でない方のために言っておくと、これはつげ義春が自身の見た夢を漫画にした「ねじ式」の中で、メメクラゲ(本当は××クラゲの誤植なのだが)に嚙まれた主人公が、架空の村の中で必死に医者を探すシーンのモノローグとして現れる。即ち、彼のその時ののっぴきならない気持ちを示すには「徹底的」という漢字ではなく、「この場合、テッテ的が正しい文法だ」という風に、極めて印象的に用いられているのである。私の中の辞書には「徹底的」と「テッテ的」、二種類の見出しで別個に載っているのである。
・「依草附木の精靈」について、西村注では本義を『人の死後、中有(ちゅうう)の状態で浮遊する霊魂が、次の生縁(しょうえん)を求めて草木に憑(よ)りつくことこと』しているので、厳密には訳のような西洋の妖精とは異なるものである。「中有」とは、中陰とも言い、人が死んで次の生を受けるまでの期間を言う。七日間を一期として、第七期までの四十九日。後に地獄の裁判の十王信仰がこれに対応した。
・「T-1000」は、「ターミネーター2」に登場する、未来世界からやってきた液体金属で出来たアンドロイドの名称。鉄格子をも難なく『透過』する。
・「草履を頭に載せたまま」は、「十四 南泉斬猫」を参照。
・「佛に逢ふては佛を殺し、祖に逢ふては祖を殺し」は、「臨済録」示衆に現れる、私の大好きな一節である。原文は以下の通り(「臨済録」は原典を持たないので、複数の中文サイトを確認して整文した)。
道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。
淵藪野狐禪師書き下し文:
道流、爾、如法の見解を得んと欲さば、但だ人の惑はしを受くること莫かれ。裏(うち)に向かひ外に向かひ、逢著せば便ち殺せ。佛に逢ふては佛を殺し、祖に逢ふては祖を殺し、羅漢に逢ふては羅漢を殺し、父母に逢ふては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢ふては親眷を殺して、始めて解脱を得。物と拘らず、透脱して自在なり。
淵藪野狐禪師訳:
お前たち、真実(まこと)の『見方』というものを得ようと思うのなら、まずは何より人に惑わされてはならぬ。己(おのれ)の内に向っても己の外に向っても、逢うたものは、皆、殺せ。仏に逢うたら仏を殺し、祖師に逢うたら祖師を殺し、羅漢に逢うたら羅漢を殺し、父母に逢うたら父母を殺し、親族縁者に逢うたら親族縁者を殺して、始めて解脱することが出来る。その時、お前たちは、何ものにも束縛されることのない、完全なる透過、完全なる解脱、完全なる活殺自在の境地に在るのだ。
実を言うと、私はいつもこの中間部のところに、一句を付け加えたくなる衝動をいつも抑えきれない。即ち、「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、逢己殺己」と。と言うより、私はついこの間まで、「逢己殺己」と入っているものと誤認して、生徒たちに話していた――己(おのれ)に逢うたら己を殺せ――須らく、衝動殺人を望む者や無差別殺人を企まんとする者は、何よりここから始めるがよい。
・「六道四生」の「六道」は煩悩を持った衆生が輪廻転生を繰り返すところの世界を言う。天上道(天道とも)・人間(じんかん)道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つ。前の三つを三善道(私は「修羅道」を善とするところにこの思想の巧妙な生き残り戦略を感ずる)、後の三つを三悪道と呼称する。間違えてはいけないのは、我々の居る人間道の上の天上道は極楽浄土とは違うことである。ここは言わば天人(てんにん)や仏教以前の伝来により取り込まれた下級神、仙人など居住する世界である。勿論、彼らは人間に比べれば遙かに優れた存在で、寿命が異常に長く、肉体的なものはもとより精神的な苦痛も殆んど感じない。空中を飛翔したり、数々の呪法を駆使することも出来るわけだが、煩悩から完全に解き放たれているわけではなく、やはり死を免れずに死を迎え、再び六道を輪廻するのである。因みに彼らが死を迎える際には独特の変化が現れるとする。それは衣裳垢膩(えふくこうあい:衣服が垢で油染みてくること)・身体臭穢(しんたいしゅうあい:体が薄汚れて悪臭を放つようになること)・脇下汗出(えきかかんりゅう:脇の下から汗が流れ出ること)・不楽本座(ふらくほんざ:自分の居所に凝っとしていられなくなること)・頭上華萎(ずしょうかい:頭上にかざしている花が萎むこと)の五つで、これを天人五衰と言う。即ち、六道はその総体が煩悩の世界なのであり、そこから解脱し、悟達して初めて、極楽浄土に往生出来るのである。「四生」の方は、この六道に於ける胎生・卵生・湿生・化生の四種の出生の仕方を言う。「湿生」とは湿った気から生ずると考えられた生物で、魚・蛇・両生類などを含む。「化生」は「その他の生まれ方」みたいないい加減なもので、その空間に忽然と生ずるものとする。目に見えない卵から発生するものや、生態の不明であった生物、天上界の神仙や地獄の亡者の類を十把一絡げにして都合よく説明するためのものである。]
十三 徳山托鉢
徳山、一日托鉢下堂。見雪峰問者老漢鐘未鳴鼓未響、托鉢向甚處去、山便回方丈。峰擧似巖頭。 頭云、大小徳山未會末後句。山聞令侍者喚巖頭來、問曰、汝不肯老僧那。巖頭密啓其意。山乃休去。明日陞座、果與尋常不同。巖頭至僧堂前、拊掌大笑云、且喜得老漢會末後句。他後天下人、不奈伊何。
無門曰、若是未後句、巖頭徳山倶未夢見在。撿點將來、好似一棚傀儡。
頌曰
識得最初句
便會末後句
末後與最初
不是者一句
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
十三 徳山の托鉢(たくはつ)
徳山、一日托鉢して堂に下る。雪峰(せつぽう)に、
「者(こ)の老漢、鐘も未だ鳴らず、鼓も未だ響かざるに、托鉢して甚(いづれ)の處に向かひてか去る。」
と問はれて、山、便ち方丈に囘(かへ)る。
峰、巖頭に擧似(こじ)す。
頭云く、
「大小の徳山、未だ末後(まつご)の句を會(ゑ)せず。」
と。
山、聞いて、侍者(じしや)をして巖頭を喚び來らしめ、問ふて曰く、
「汝、老僧を肯(うけが)はざるか。」
と。
巖頭、密(ひそか)に其の意を啓(もら)す。
山、乃ち休し去る。
明日(みやうにち)、陞座(しんぞ)、果して尋常(よのつね)と同じからず。
巖頭、僧堂の前に至り、掌(たなごころ)を拊(ふ)し、大笑して云く、
「且らく喜び得たり、老漢、末後の句を會せしことを。他後(ただ)、天下の人、伊(かれ)を奈何(いかん)ともせず。」
と。
無門曰く、
「若し是れ、末後の句ならば、巖頭、徳山、倶(とも)に未だ夢にも見ざる在り。點撿(てんけん)し將(も)ち來たれば、好(はなは)だ一棚(いつぱう)の傀儡(かいらい)に似たり。」
と。
頌して曰く、
最初の句を識得すれば
便ち末後の句を會す
末後と最初と
是れ 者(こ)の一句にあらず
*
淵藪野狐禪師訳:
十三 徳山和尚の托鉢
ある日の午前のことである。
徳山和尚は、とんでもない時間に、ご自身の鉢を擁して食堂(じきどう)へとやって来られた。食堂で、斎(とき)の準備のために机を拭いていた飯台看(はんだいかん)の雪峰が、
「御老師、斎を告げる鐘の音(ね)も太鼓の音(おと)も、未だに鳴らず、未だに響いておりませんに、鉢を携えて、一体、何処(どこ)へ向かうおつもりか?」
と問うた。徳山和尚は、それを聴くや、ぷいっと、ご自身の庵室(あんじつ)へと帰ってしまわれた。
その後姿を如何にも面白そうに眺めていた雪峰は、ぷっと吹き出すと、奥の厨(くりや)へと行き、そこに居た看頭(かんとう)の巖頭に、今の一部始終を話して聞かせた。
それを聴いた巖頭は、おもむろに言った。
「徳山和尚ともあろうお人が、未だに肝心要めの末後の一句には会(かい)しておられぬな。」
雪峰はそれを聴くと、――内心、普段からその聡明さ故に、彼に対して劣等感ばかり抱いてきた雪峰は――この、自分よりも更に和尚を蔑(さげす)んだような言葉を吐いた兄弟弟子を――常日頃、快からず思っていた兄弟弟子の――このことを、一つ、和尚に告げ口してやろうと企んだ。
そこで小用に出るふりをして、途中から駆け足になって、徳山和尚の庵室へと飛び込むと、そこに控えていた和尚の侍者に巖頭の言葉そのままに耳打ちした。
徳山和尚は、侍者からそれを聞くや、さもあらんか、鋭い目を侍者に向けると、
「直ちにここに巖頭を喚べ!」
と何時にない、とんでもない大声で一喝した。
侍者は恐れ戦き、泡を食って駆け出してゆく。ほくそ笑んでぷらぷら歩いている雪峰も目に入らぬように、韋駄天の如く走って走って、厨に飛び込むと、
「徳山和尚さまのお呼びじゃ!」
と真っ青な顔で、声を震わせながら巖頭に伝えた。ところが、
「そうか。そうくるとは思っておったが、少しばかり早いな――」
と落ち着き払ってつぶやいた巖頭は、食堂を出ると、和尚の庵室へとまこと、ゆっくりと歩いて行く。路端の木蔭では、隠れて、こっそりとそれを雪峰が眺めていた。
『……ざまあみろ……今度の「徳山の棒」、こいつは半端ねえぞ!……』
と思いつつ、笑みを洩らした。
巖頭が和尚に対峙してみると、果たして目をつぶった和尚の両手には、すでに極太の樫で出来た拄杖(ちゅうじょう)がしっかと握られていた。
徳山和尚は、静かに、しかし、きっぱりと言う。
「お前、儂を、なめてるな!?」
巖頭は、間髪を入れず、一挙に和尚の右手にすり寄ると、
「……………。」
と、何やらん、こっそりと耳打ちした。
すると、徳山和尚は、ぱーんと拄杖を前へ抛り出すと、莞爾として笑い、すっかり安心なさったのであった――。
翌日、いつも通り、法堂(はっとう)で徳山和尚の説法がなされたのだが、果して、その日の説法に限っては、何やらん、尋常のものではなく、会衆は一人残らず、慄っとしながらも、心の底から深い感銘受けて法堂を後にしたのであった――法堂を最後に出た巖頭は、堂の前まで来ると、空を見上げ、両手をぱぱんと打ち鳴らしながら、永い間、大笑いをした後(あと)、数十里の彼方に響き渡るような澄んだ大声で、叫んだ。
「なんと嬉しいことか! 老師は末後の一句を握られた! 本日只今以後、天下の者、誰一人として、この一己の徳山宣鑑(せんかん)を、どうすることも出来はせぬ!」
――それから直ぐのことであった、徳山和尚がその法灯を、巖頭全豁(ぜんかつ)に譲ったのは――
無門、商量して言う。
「ちょっと待て! もしもこいつが本当に、最後の最期のぎりぎりの、真実(まこと)に末後の句だとすりゃ、巖頭、徳山、一蓮托生、揺り籠の中、双子の子、一緒に仲良く夢見てるだけ。幽霊の正体見たり枯れ尾花! 世の中は箱に入れたり傀儡師(かいらいし)!」
次いで囃して言う。
最初の一句が啓(ひら)ければ
最期の一句に出逢えます
末期の言葉と最初の産声
そんなもん 最初の一句でも最後の一句でも「無(ない)」!
[淵藪野狐禪師注:本篇の訳は映像的にリアルに見えるように意識的な小説仕立てにして翻案してある。人物の設定や動き、心理描写などの一切は私の創作なのでご注意あれ。以下の注は、主に、その淵藪野狐禪師訳のオリジナルな部分へのものである。特に悪役に徹してもらった雪峰義存禅師には三頓食らって背骨が折れそうになるやも知れぬ。雪峰禅師に深く謝す。そしてこのような仕儀を訳で行った理由は、本則が私にとって難題だからである。恐らく、この「応え」には、まだこれから数年はかかりそうだ。その時には、違った訳でまた、お目にかかろう。
・「雪峰」は雪峰義存(せっぽうぎぞん 822~908)。唐末から五代の禅僧。実際には巖頭全豁と一緒に徳山宣鑑の法を嗣いでいる。巖頭とは兄弟弟子で、実際には仲が良かったとされる。雪峰の方が年上であったが、明悟した早さやこの雪峰自身を鰲山(ごうざん)で大悟させた点から見ても、巖頭の方が上であるので、訳ではそのような役職に設定した。実際の雪峰義存はその後、出身地であった福建に戻り、雪峰山に住して、四十有年余の間、教導と説法に励んだ。その結果、多くの政治的有力者の帰依を受けることとなり、結果的に各地に広がる五代最大の仏教教団を形成することとなった。雪峰寺には常時1,500人からの修行僧が住み、首座であった玄沙師備(げんしゃしび:「無門關」の後序に登場している。)を始めとして、本「無門關」の第十五則・第二十一則に登場する雲門文偃(ぶんえん)・長慶慧稜(えりょう)・鼓山神晏(くざんしんあん)・保福従展(ほふくじゅうてん)等の禅語や公案で知られる第一級の優れた禅師を輩出している(この注は、主に、ウィキの「雪峰義存」を参照にさせて頂いている)。
・「巖頭」は巖頭全豁(828~887)。以下、その凄絶な最期について記す。彼はその後、徳山の元を辞して、洞庭湖畔の臥竜山(別名を巖頭と言う)を拠点に宗風をふるったが、887年に中原(ちゅうげん)に盗賊が起こり、庶民はおろか、会衆もみな恐れて逃げ出してしまった。ところが巖頭禅師だけは、ただ一人『平然と端坐していた。四月八日、盗賊たちがやってきて大いに責めたてたが、彼は何も贈り物を出さなかったので、ついに刀で』首を切られて殺されてしまった。しかし、その際にも巖頭禅師は『神色自若として、一声大きく叫んで終わった。その声は数十里先まで聞こえた』と伝えられる。(この注は、主に、福井県小浜市の臨済宗南禅寺派瑞雲院のHP中の、「景徳伝灯録巻十六 鄂(がく)州巖頭全豁禅師」を参考にして書かれたとする「岩頭全豁禅師の話」を参照にさせて頂いている)。
・「擧似」という原文の語は、西村注によれば、禅家では『過去の問答や商量の内容を他人に提示すること』を言う特別な意味を持っている。とすれば、雪峰は、一見、呆けた徳山が食事の時間の前に食堂へ来たことや、それに対して自身が言った言葉を含め――確信犯的に――その総体を公案として認識していたのであり、極めて真面目な意味で、この場面に機縁し、その出来事を真面目に巖頭に語ったのだと言える。実際の雪峰義存の事蹟から見れば、それが真実であるし、雪峰が良友巖頭を売るというシチュエーションも実際には考えにくい気もする。しかし、それでは面白くない。少なくとも私は全然面白いと思わぬ。そこで訳では、一見、冒頭の徳山をもうろく爺いのボケとして描き、雪峰を話柄の傀儡役、トリック・スターとして不良の弟子に仕立てさせてもらったのである。
・「ご自身の鉢」禅者は本来、托鉢用の鉢を以って普通の食事の食器とする。
・「斎」仏教では、午前中にしか食事をしない。朝は「粥」(しゅく)、午前中に済ませる早い昼食を「斎」と呼ぶ。私の勝手な設定である。これは「粥」なのかも知れない。
・「飯台看」禅寺の給仕係。私の勝手な設定である。
・「看頭」禅寺で食事の際の礼法を指導する者を言い、飯台看の長である。私の勝手な設定である。
・「世の中は箱に入れたり傀儡師」は芥川龍之介の俳句。大正八(1919)年、27歳の時の作。「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」の「四七四 一月四日 南部修太郎宛」書簡からの引用句を参照。因みに西村氏はここを『二人ともお粗末なからくり人形じゃないか』と訳しておられる。]
二十四 離却語言
風穴和尚、因僧問、語默渉離微、如何通不犯。穴云、長憶江南三月裏、鷓鴣啼處百花香。
無門曰、風穴機如掣電得路便行。爭奈坐前人舌頭不斷。若向者裏見得親切、自有出身之路。且離却語言三昧、道將一句來。
頌曰
不露風骨句
未語先分付
進歩口喃喃
知君大罔措
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
二十四 離却語言(りきやくごげん)
風穴和尚、因みに僧、問ふ、
「語默離微に渉るに、如何にせば通じて不犯なる。」
と。
穴云く、
「長(とこしな)へに憶ふ 江南三月の裏(うち)
鷓鴣(しやこ)啼く處 百花香んばし」
と。
無門曰く、
「風穴、機、掣電(せいでん)のごとく、路(みち)を得て、便ち行く。爭-奈(いかん)せん、前人の舌頭を坐して不斷なることを。若し者裏(しやり)に向かひて見得して親切ならば、自(お)づから出身の路、有らん。且らく語言三昧を離却して、一句を道(い)ひ、將(も)ち來たれ。」
と。
頌して曰く、
風骨の句を露さず
未だ語らざるに先ず分付(ぶんぷ)す
歩を進めて口喃喃(くちなんなん)
知んぬ君が大いに措(を)くこと罔(な)きを
*
淵藪野狐禪師訳:
二十四 言葉を離れた言語(げんご)
風穴延沼(ふううけつえんしょう)和尚が、ある時、機縁の中で、ある衒学的な僧に、
「僧肇(そうじょう)はその著『宝蔵論』の離微体浄品第二で『其れ入れるときは離、其れ出づるときは微』『謂ひつべし、本浄の体(てい)、離微なりと。入るに拠るが故に離と名づけ、用(ゆう)に約するが故に微と名づく。混じて一と為す』とありますが、これは、全一なる絶対的実存の本質であるところのものが『離』であり、その『離』が無限に働くところの多様な現象の様態なるものが『微』である、ということを述べております。さて、本来の清浄な真実(まこと)というものの存在は、この『離』と『微』とが渾然と一体になったものであるわけですが、しかし乍ら、ここに於いて、本来の清浄な真実について、『語ること』を以ってすれば、それは『微』に陥ることとなり、また、逆に、それを避けるために『沈黙すること』を以ってすれば、今度は『離』に陥ってしまうこととなります。では一体、どのようにしたら、そのような過ちを犯すことなくいられるのでしょうか?」
と問われた。
すると、風穴和尚は、如何にも大仰に深呼吸すると、おもむろに詩を嘯かれた。
「何時の日も 懐かしく思い出すのは
江南の春……春三月ともなると
鷓鴣の『シン ブゥ デェ イェ グー グー! 行不得也哥哥(シン ブゥ デェ イェ グー グー)! シン ブゥ デェ イェ グー グー!(行かないで、兄さん!)』という鳴き声がし 百花咲き乱れ えも言われぬ芳しい香がただよう……」
無門、商量して言う。
「雷神風穴(ふうけつ)、その働き、ピカッ! と一閃、行先へ、ズズン! と風穴(かざあな)、刳(く)り開けた。されど残念! 不二の風穴(ふうけつ)! 先人の『詩の一句』をも吹っ切ることで、真実(まこと)を示し得なかったとは!――さても、もし、この壺(こ)の穴の中にある、桃花咲き添う江南の、景色の天へとすんなりと、入(はい)れたならば、おのずから、見えもしようよ、出離するべき、お前の行くべき、その道が。さあさ、言葉を離れた処(とこ)で、そこのところを一言(ひとこと)に、一句ものして、持っといで。」
次いで囃して言う。
……詩情なんか 示さない――
……歌う前から 僕は とっくに君に 僕の魂を 分けてあげたよ――
……だのに 君たちは 不潔な蠅のように 僕の心に群がって
……わんわんと 唸りたてている――
……ああっ! 心がただ一筋に打ち込める
……そんな時代は 再び来ないものか……
[淵藪野狐禪師注:西村注によれば、本則は『杜甫の詩を借りて語黙を越えた世界を示す。『無門關』の『西柏抄』に「長えに憶うは黙、鷓鴣啼くは語」という。『人天眼目』巻一の臨済四料揀の項に「如何なるか人境倶不奪。穴云く、常に憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く処百花香し」と見える。』とあるのだが、この『杜甫の詩』なるものが、私には見つからない。私が馬鹿なのか、インターネットがおかしいのか。検索をかけても詩聖杜甫の詩のはずなのに、全然、引っ掛かってこない。いろいろな「無門關」のサイトも調べてみたが、杜甫の詩とするばかりで、よく見ると、どの注にも詩題が示されていない。「長憶江南三月裏 鷓鴣啼處百花香」この幻の詩は、一体、何処(いずこ)? ご存知の方、御教授を乞う。もじっているのであろうが、かなり絞った単語の検索でも、相似形の詩は見つからないのだが……。如何にも気持ちが悪い。だから、私も「頌」の訳には、僕の好きな『先人』ランボーの『詩の一節』を『借りて』復讐してみた。不親切な多くの注釈者のように、敢えて私も、その詩の題は言わぬことにしておこう(しかし、余りに著名な詩だからすぐ分かっちゃうかな。でもこのエッチ大好きだった人の訳は訳じゃなくて翻案だよな、原詩と比べると全く別の詩だぜ)。なお、僧の台詞のくだくだしい訳は、この「離微」に附された詳細な西村注を参照にして、ぶくぶくに膨らましてメタボリックにデッチ上げたものである。原文は御覧の通り、この僧の台詞は、実際には簡潔明瞭で、衒学的というのも当らないかもしれない。とりあえず、この僧に対しては、ここで謝罪をしておく。
・「僧肇」(374~414)は東晋の僧。鳩摩羅什(くまらじゅう:(344~413)僧・仏典翻訳家。中央アジア出身、父はインド人。長安で訳経に従事し、その訳業は「法華経」「阿弥陀経」など35部300巻に及ぶ)の門下にあって、彼の仏典漢訳を助け、弟子中、理解第一と讃えられた。「宝蔵論」は彼の代表的著作である。
・「鷓鴣」はキジ目キジ科コモンシャコFrancolinus pintadeanusを指す。正式中文名は中華鷓鴣であるがが、単に鷓鴣“zhègū”(チョークー)と呼ばれる事が多い。別名、越雉(えっち)、懐南など。中国南部・東南アジア・インドに分布し、灌木林・低地に棲むが、食用家禽として飼育もされている。地上を走行するのは得意だが、飛行は苦手である(以上はウィキの「コモンシャコ」を参照した)。
・「ブゥ デェ イェ グー グー! 行不得也哥哥(シン ブゥ デェ イェ グー グー)! シン ブゥ デェ イェ グー グー!(行かないで、兄さん!)」“xíng bù dé yě gē gē ”。中国人はこの鷓鴣の鳴き声に、このような人語を聴き、如何にもの哀しいものを感じるという(ということは、この鷓鴣の鳴き声に限っては、中国人は日本人と同じように左脳で聴いているのかも知れない!)。「鳥類在唐詩中的文學運用」という中文ページに鷓鴣について『代表思郷愁緒:鷓鴣為南方特有的鳥類,故離郷背井的南人最怕聽到』とある。ただ、そのような雰囲気をこの詩自体が、この鷓鴣の鳴き声で出そうとしているかどうかは、定かではない。]
十七 國師三喚
國師三喚侍者。侍者三應。國師云、將謂吾辜負汝、元來却是汝辜負吾。
無門曰、國師三喚、舌頭墮地。侍者三應、和光吐出。國師年老心孤、按牛頭喫草。侍者未肯承當。美食不中飽人※、且道、那裏是他辜負處。國淨才子貴、家富小兒嬌。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「氵」+「食」。「餐」と同字。]
頌曰
鉄枷無孔要人擔
累及兒孫不等閑
欲得撐門并拄戸
更須赤脚上刀山
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
十七 國師(こくし)、三たび喚(よ)ぶ
國師、三たび、侍者を喚ぶ。侍者、三たび應ず。國師曰く、
「將に謂(おも)えり、吾れ汝に辜負(こぶ)すと。元來却りて、是れ、汝、吾れに辜負す。」
と。
無門曰く、
「國師三喚、舌頭(ぜつたう)地に墮つ。侍者三應(さんおう)、光に和して吐出す。國師年老い、心、孤にして、牛頭(ごづ)を按(あん)じて草を喫せしむ。侍者、未だ肯(あへ)て承當(じようたう)せず。美食も飽人(はうじん)の※(さん)に中(あた)らず。且らく道(い)へ、那裏(なり)か是れ、他(かれ)が辜負の處ぞ。國淨くして、才子貴(たふと)く、家富んで小兒嬌る。」
と。
[淵藪野狐禪師字注:「※」=「氵」+「食」。「餐」と同字。]
頌して曰く、
鐵枷(てつか)無孔(むく) 人の擔(にな)はんことを要す
累(わざはひ) 兒孫に及びて等閑ならず
門を撐(ささ)へ并びに戸を拄(ささ)へんと欲-得(ほつ)せば
更に須らく赤脚にして刀山(たうざん)に上(のぼ)るべし
*
淵藪野狐禪師訳:
十七 慧忠国師、三度、弟子を喚ぶ
ある日、南陽の慧忠国師は、三度、親しく用いている弟子の名を呼んだ。弟子は、
「はい。」
「はい。」
「はい。」
と、呼ばれるままに三度とも応えた。しかし、二度とも、師はそのまま何も命ずることなく黙っていた。三度目の呼びかけと応答の後、暫くの沈黙の後、師は言った。
「ずっと今まで、儂(わし)は、儂がお前の志しを台無しにしているために、お前が悟れぬのじゃろうとばかり思い込んでおった――じゃが、今、やっと分ったわ――何のことはない、お前が儂の志しを無にしてきたからに、お前が悟れぬのじゃということが、の。」
無門、商量して言う。
「国師無双は名ばかりで、三度も弟子に、呼びかけて、語るに堕ちたぁ、このことよ。三度応えたお弟子の方が、和光同塵、両腕でガバと懐(ふところ)押し開き、その腸(はらわた)までも、ガバリとベロリ! 国師特養老人ホーム、すっかり淋しくなっちゃって、牛の頭を撫ぜ撫ぜし、手ずから草を差し上げる。だのにボンクラ、鈍感弟子は、訳も分らず、ただ、おろおろ。どんなに豪華な食事でも、お腹(なか)がくちくなってれば、そんな奴には意味がない。さても、ここでズバリ、言え! さても一体、この話、何処でお弟子は、先生の『お志しを無にしてる』? こんな諺知ってるか?――国が半端な平和に在れば、小賢しい奴、お高くとまり、ちょいとお金が溜まった家じゃ、我儘勝手なガキが出る――と。どっかの国と、こりゃ、同じ。」
次いで囃して言う。
人は皆 見えもしないし取れもしない 窮極にして極上の お仕置き道具の首枷(くびかせ)を しっかと嵌めていることを 肚に命じておくがよい
そのことを知らねば 禍(わざわ)いは 半端じゃないよ 迷惑至極 遙かに遠く子々孫々 この世の果てまでご同伴
それでも国旗だ国家だの 人類皆(みな)兄弟だのとほざきおる 「地球に優しく」真綿で締める それですっかり満足してりゃ
そんときゃあの世で 単独登攀 それも裸足で 針の山
[淵藪野狐禪師注:「和光同塵」は本来は、「老子」四章「和其光、同其塵」を故事とする語で、高貴な光を和らげて、俗界の塵埃に交わるという意味で、自己の才能を包み隠し、俗世間に交わることを言う。これが仏教用語となると、仏や菩薩が本来の無量の威光を減衰させて、一切の衆生を救うために、わざわざ塵埃に満ち溢れた現世に垂迹し、顕現することを言う。]
三十九 雲門話墮
雲門、因僧問、光明寂照遍河沙。一句未絶、門遽曰、豈不是張拙秀才語。僧云、是。門云、話墮也。後來、死心拈云、且道、那裏是者僧話墮處。
無門曰、若向者裏見得雲門用處孤危、者僧因甚話墮、堪與人天爲師。若也未明、自救不了。
頌曰
急流垂釣
貪餌者著
口縫纔開
性命喪却
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
三十九 雲門の話墮(わだ)
雲門、因みに僧、問ひて、
「光明寂照遍河沙(こうみやうじやくしやうへんがしや)」
の一句未だ絶えざるに、門遽(には)かに曰く、
「豈に是れ、張拙(ちやうせつ)秀才の語にあらずや。」
と。
僧云く、
「是。」
と。
門云く、
「話墮せり。」
と。
後來、死心(ししん)、拈(ねん)じて云く、
「且らく道(い)へ、那裏(なり)か是れ、者(こ)の僧が話墮(わだ)の處。」
と。
無門曰く、
「若し者裏(しやり)に向かひて雲門の用處孤危(ゆうじよこき)、者の僧、甚(なん)に因りてか話墮すと見得せば、人天(にんでん)の與(ため)に師と爲(な)るに堪えん。若し未だ明らめずんば、自救不了(じぐふりやう)。」
と。
頌して曰く、
急流に釣(はり)を垂る
餌を貪る者は著(つ)く
口縫(かうばう)纔(わづ)かに開かば
性命(しやうみやう) 喪却せん
*
淵藪野狐禪師訳:
三十九 雲門和尚の『「語るに堕(お)ちた」語り』
雲門和尚の話である。
ある時、機縁の中で、ある僧が雲門和尚に問いかけて、
「光明寂照河沙(がさ)に遍(あまね)……」
と言いかける、僧のその問いの、その初めの一句が未だ終らぬうちに、雲門和尚は、即座に、
「おい、そりゃ、張拙秀才の偈(げ)じゃ、ネエか?」
と言った。
僧は答えた。
「はい、そうです。」
雲門和尚が言う。
「ヘッ! 語るに堕ちたゼ!」
それから百数十年後のことである。黄龍死心(こうりょうししん)和尚は、この話を思いだされ、確かに昨日のことのように、言ったのであった。
「オリャ! 言うてみイ! 何処(どこ)が、これ! この坊主の『語るに墮ちた』ところ、な! ん! じゃ! い!?」
無門、商量して言う。
「もしもこの、様(さま)に向かって雲門の、寄り付くことも不可能な、悟りの真実(まこと)の智慧そのものに、ぴたりとその肌寄せられたなら、はたまた同時に、この僧の、何処(どこ)が如何(どう)して『語るに墮ちた』、そこのところを見抜けたならば、この世あの世で『先生』と、呼ばれる程の大馬鹿に、なるに堪えたる人となる。だけど、そこのところをば、見抜けないとするならば、己(おの)が一人の命さえ、救えぬままに、グッド・バイ!」
と。
次いで囃して言う。
早瀬に向かって 釣糸垂らす
餌を貪る雑魚どもが ワンサと喰らいついてくる
わずかに口を開いただけで あいつももこいつも そら! お前も!
気がつきゃどいつも あの世行き!
[淵藪野狐禪師注:本則に用いられているのは、石頭(せきとう)下四世である石霜慶緒(せきそうけいしょ)の弟子であった秀才(科挙に及第した人物の呼称)張公拙の悟道の偈として有名なものである。以下に、本文に準じて示す(原文は中文サイトにあったものを用いた)。
光明寂照遍河沙
凡聖含靈共我家
一念不生全體現
六根纔動被雲遮
斷除煩惱重増病
趣向眞如亦是邪
隨順世縁無罣礙
涅槃生死是空華
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
光明寂照 河沙(がさ)に遍(あまね)し
凡聖含靈(ぼんせいがんりやう) 共に我が家
一念不生にして 全體を現ず
六根纔(わづ)かに動ずれば 雲に遮(さへぎ)らる
煩惱を斷除すれば 重ねて病を増す
眞如(しんによ)に趣向するも亦 是れ 邪(よこしま)なり
世に隨順して 罣礙(しゆぎ)無し
涅槃と生死と 是れ 空華
*
淵藪野狐禪師訳:
かの仏法光明の輝きが、静かに、河の砂の一粒一粒まであまねく、照らしだしている――
凡夫から聖賢、霊的玄妙なるもの、総て、それらが満ち満ちたもの、それが我が家なのである――
人が愚かな考えに囚われさえしなければ、今、この瞬間、眼前に、この世界の総体は現に現れているのである――
あらゆる感覚のわずかな動きで、あっという間に真実(まこと)の心は雲に遮られてしまうし――
本質を見ず、闇雲に煩悩を断ち切ろう、取り除こうとばかり勇み立っていると、かえって世界の様態は悪く重くなるばかり――
殊更に『本当の真実(まこと)』なんどというものを掲げて、無理に努力しようとすること、それ自体が、大きな誤りなのである――
この俗世の機縁や道理に従って生きていても、そこには何ら、真実(まこと)の自由をはばむものは、ないのである――
『涅槃』と言い、『生死』と言うも、所詮、それらも虚空に浮ぶ花のような幻なのである――]
「無門關」の総ての訳注を完成させた。未公開分を逐次公開した後、満を持して、端午の節句に、全体をブラッシュ・アップした一括版をHPにアップする予定である。総文字数1120,000字を越えるものとなった。
三十一 趙州勘婆
趙州、因僧問婆子、臺山路向甚處去。婆云、驀直去。僧纔行三五歩。 婆云、好箇師僧、又恁麼去。後有僧擧似州。州云、待我去與你勘過這婆子。明日便去亦如是問。 婆亦如是答。州歸謂衆曰、臺山婆子、我與你勘破了也。
無門曰、婆子只解坐籌帷幄、要且著賊不知。趙州老人、善用偸營劫塞乃機、又且無大人相。撿點將來、二倶有過。且道、那裏是趙州、勘破婆子處。
頌曰
問既一般
答亦相似
飯裏有砂
泥中有刺
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
三十一 趙州の勘婆(かんば)
趙州。因みに僧、婆子(ばす)に問ふ、
「臺山の路、甚れの處に向かひて去る。」
と。婆云く、
「驀直去(まくぢきこ)。」
と。
僧、纔(わづか)に行くこと、三五歩。婆云く、
「好箇の師僧、又た、恁麼(いんも)にして去る。」
と。
後に僧有って州に擧似(こじ)す。州云く、
「我、去つて、你(なんぢ)が與(ため)に這(こ)の婆子を勘過するを、待て。」
と。
明日、便ち去りて、亦た、是のごとく問ふ。
婆も亦た、是のごとく答ふ。
州歸りて衆に謂ひて曰く、
「臺山の婆子、我れ、你(なんぢ)が與(ため)に勘破し了(をは)れり。」
と。
無門曰く、
「婆子、只だ坐(ゐ)ながらに帷幄(ゐあく)に籌(はか)ることを解(げ)して、要、且つ賊に著(つ)くことを知らず。趙州老人は、善く營を偸(ぬす)み、塞を劫(おびや)かすの機を用ゐるも、又た且つ、大人(だいじん)の相(さう)無し。撿點(けんてん)し將(も)ち來たれば、二(ふた)り倶に過(とが)有り。且らく道(い)へ、那裏(なり)か是れ、趙州、婆子を勘破する處。」
と。
頌して曰く、
問既に一般なれば
答へも亦た相似たり
飯裏(はんり) 砂有り
泥中 刺(し)有り
*
淵藪野狐禪師訳:
三十一 趙州、婆(ばば)あを見破る
趙州和尚の話である。
ある時、機縁の中で、和尚の修行僧が、路傍に佇んでいる婆さんに道を訊ねた。
「五台山へ向かう路は、どちらでしょうか?」
すると、婆さんが答えた。
「このまま真直ぐ行きな。」
それを聞いた僧が謝して、わずかに三歩か五歩ばかり行った時のことである。
背後で、婆さんの声がした。
「見込みのありそうな坊さんじゃと思うたが、やっぱり、同(おんな)じように行くだけじゃな。」
後日、その僧が直接、趙州和尚にその折の話をした。和尚は、
「俺が行って、一つ、お前のために、その怪しげな婆さんの正体を見極めてやろうではないか!」
と言った。
その翌日、趙州和尚は早速、出かけて行くと、話通り、同じ場所に佇んでいる婆さんに出逢った。そうして、あの修行僧と同じように、道を訊ねた。
「五台山へ向かう路は、どちらでしょうか?」
すると、婆さんが答えた。
「このまま真直ぐ行きな。」
それを聞いた和尚は、やはり同じように謝すと、わずかに三歩か五歩ばかり、歩む。
背後で、婆さんの声がした。
「見込みのありそうな坊さんじゃと思うたが、やっぱり、同じように行くだけじゃな。」
と婆さんも、また同じように呟いたのであった。
趙州和尚は寺に帰ってくると、直ちに会衆を集めて、きっぱりと宣言した。
「五台山の婆さんを、俺は、お前らのため、すっかり見切ってしもうたわ!」
無門、商量して言う。
「〈前文欠〉……この“Heroine Bass”は、ただ本陣の幕営の中にあって、巧緻な戦術を回(めぐ)らし、千里の外に展開している戦闘に圧倒的な勝利を収めるという、かの「史記」に記された戦略については熟知しているが、肝心の、後衛にある自軍の要塞が、本戦闘とは全く無縁な野盗の群れに押し入られているという事実を知らずにいるという点が重要である。
翻って“Reverend Joe”はと言えば、巧妙に敵陣深く密かに潜入して流言蜚語を流し、その生命線たる要塞を、言わば内部から攻略するという奇策を立てて、それを極めて有効な実戦に用いることが出来たとはいえ、これも連戦連勝無敵の大将軍という正式な評価を下し得る程度のものとは言えない。
ここで、各個に行われた本戦線での実際の戦闘と、外見上の勝敗及びその戦後処理の様態までも射程に入れて、その検討・分析・総合を精密に行い、その核心にある哲学的な意味に於いての軍政原理の認識に到達した時、この二人の両雄には、実は何れにも致命的な誤算があるということが明白となるのである。
――しかし、そうした本質的戦争論はさて置き――まずは応えて見給え。
――無敵を誇る、
“Dog Killer”『犬殺し』 Colonel Joe コーネル・ジョー
が、その戦闘に於いて見破ったというのは、
“Eagle of Mt.Godai”『ゴダイの荒鷲』と異名された General Bass ジェネラル・バース
の、一体、何処(どこ)であったのかを。〈以下、余白〉」
【淵藪野狐禪師附注:以上の本文は、本戦線を実地に視察し、後に“Buttle M-31 Case”の暗号名を以って、その出身校ウエストポイント陸軍士官学校に於いて講義を行ったGeorge Smith Patton, Jr.ジョージ・スミス・パットン将軍のメモを、無門慧開が剽窃したものであることが早くから知られていた。今回、そのメモの原本(英文)が発見されたため、淵藪野狐禪師が邦訳し、世界に先駆けてここに公開するものである。】
次いで囃して言う。
呼びかけた 一つの言葉 それはいつも 同じ――だから
それに答えた 一つの言葉 それもいつも そっくりなの
ほら! その口にした ご飯!――「ジャリ!」……砂が交じってるから お気をつけ遊ばせ!
ほら! 泥濘(どろ)だらけの道よ! 茨の刺が沈んでるわ!――「ブッス!」……だから……言ったのに……
[淵藪野狐禪師注:
・「五台山」は、中国山西省東北部五台県にある霊山(3,058m)。別名、清涼山。「華厳経」菩薩住処品に「東北方有菩薩住処、名清涼山」とありことから、ここで文殊菩薩が説法をしていると考え、聖地として古くから信仰された。主人公の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 778~897)は60歳で遊学の旅に出、80歳以降は現在の河北省趙州の観音院に住するようになったとあるので、このエピソードはその遊学の時代のものか。
・「ジョージ・スミス・パットン将軍」(1885~1945)は著名な米軍人。歴史上の戦史研究についての造形も深く、輪廻転生の熱心な信者でもあった。映画『パットン大戦車軍団』でも印象的に描写されるように、自分はカルタゴの将軍Hannibal Barca ハンニバル・バルカ(B.C.247~B.C.183)の再生した者と本気で信じていた節がある。であればこそ、唐代にも転生して、本則の商量の原文を記していたとしても強ち、噴飯ものとは言えまい。]
十五 洞山三頓
雲門、因洞山參次、門問曰、近離甚處。山云、査渡。門曰、夏在甚處。山云、湖南報慈。門曰、幾時離彼。山云、八月二十五。門曰、放汝三頓棒。山至明日却上問訊。昨日蒙和尚放三頓棒。不知過在甚麼處。門曰、飯袋子、江西湖南便恁麼去。山於此大悟。
無門曰、雲門、當時便與本分草料、使洞山別有生機一路、家門不致寂寥。一夜在是非海裏著到、直待天明再來、又與他注破。洞山直下悟去、未是性燥。且問諸人、洞山三頓棒、合喫不合喫。若道合喫、草木叢林皆合喫棒。若道不合喫、雲門又成誑語。向者裏明得、方與洞山出一口氣。
頌曰
獅子教兒迷子訣
擬前跳躑早翻身
無端再敍當頭著
前箭猶輕後箭深
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
十五 洞山の三頓(さんとん)
雲門、因みに洞山の參ずる次(つい)で、門、問ふて曰く、
「近離、甚(いづ)れの處ぞ。」
と。山云く、
「査渡(さと)。」
と。門曰く、
「夏(げ)、甚れの處にか在る。」
と。山云く、
「湖南の報慈(はうず)。」
と。門曰く、
「幾時(いつ)か彼(かしこ)を離る。」
と。山云く、
「八月二十五。」
と。
門曰く、
「汝に三頓の棒を放(ゆる)す。」
と。
山、明日に至りて却りて上り、問訊す。
「昨日、和尚、三頓の棒を放すことを蒙る。知らず、過(とが)、甚麼(いずれ)の處にか在る。」
と。
門曰く、
「飯袋子(はんたいす)、江西湖南(こうぜいこなん)、便ち恁麼(いんも)にし去るか。」
と。
山、此に於いて大悟す。
無門曰く、
「雲門、當時(そのかみ)、便ち本分の草料を與へて、洞山をして別に生機(さんき)の一路ありて、家門をして寂寥を致さざらしむ。一夜是非海裏(かいり)に在りて著倒(じやくたう)し、直(ぢき)に天明を待ちて再來するや、又た、他(かれ)の與(ため)に注破す。洞山、直下(ぢきげ)に悟り去るも、未だ是れ、性(しやう)、燥(さう)ならず。且らく諸人に問ふ、洞山三頓の棒、喫すべきか、喫すべからざるべきか。若し、喫すべしと道(い)はば、草木叢林、皆な、棒を喫すべし。若し、喫すべからずと道はば、雲門、又た、誑語(かうご)を成すなり。者裏(しやり)に向かひて明らめ得ば、方(まさ)に洞山の與(とも)に一口(いつく)の氣を出さん。」
と。
頌して曰く、
獅子 兒を教ふ 迷子(めいし)の訣(けつ)
前(すす)まんと擬して 跳躑(てうちやく)して早(つと)に翻身(ほんしん)す
端(はし)無く再び敍(の)ぶ 當頭著(たうとうぢやく)
前箭(ぜんせん)は猶ほ輕きがごとくして 後箭(こうせん)は深し
*
淵藪野狐禪師訳:
十五 洞山の三頓(さんとん)
雲門和尚は、機縁の中で、後の洞山守初が行者(あんじゃ)として初めて参禅しに来た際、開口一番、
「何処から来た。」
とぶしつけに訊く。洞山は答える。
「査渡から。」
雲門は続けざまに訊く。
「この夏安居(げあんご)は、何処に居た。」
洞山は答える。
「湖南の報慈(ほうず)で。」
雲門は畳み掛けて訊く。
「何時(いつ)そこを出た。」
洞山は答える。
「八月二十五。」
すると、雲門は吐き捨てて言った。
「貴様、三頓六十棒の値打ちもネエ、奴だ。」
洞山は、その後(あと)、ずっと座禅を組んで考えてみたが、和尚の最後の言葉の意味が分からず、翌日、夜が明けるとすぐに雲門和尚の室(へや)に上(のぼ)り、訊ねた。
「昨日(さくじつ)、和尚さまは、私めを、三頓六十棒を加える値打ちもない輩である、と断ぜられた。しかし、どう考えてみても、分かりませぬ、その咎(とが)は、一体、何処(いずこ)に在るのか?」
と。
雲門、一喝して言う。
「この大飯喰(おおめしぐ)らいの、飯袋(めしぶくろ)の、糞袋(くそぶくろ)が! 江西だ、湖南だと、貴様は一体、何処(どこ)をうろうろしておった!!」
洞山は、その瞬間、そこで、大悟した。
無門、商量して言う。
「そん時その場の、馬飼い雲門、洞山馬(どさんこ)守初に極上の、飼い葉与えて洞山を、サラブレッドに、俄かに仕立て、子種断つのをER。昼夜兼行、七転八倒、疾風怒濤の一夜明け、東天紅のその朝(あした)、直ちに膝下に寄り来れば、また駄馬撫でて、優しく調教。確かに洞山、悟ったと言えぬわけではあるまいが、まだまだ鋭利な才とは言えぬ。
――それでは、次の問を諸君に示そう!
『洞山は三頓六十棒を喰らった方がよかったのか? それとも、喰らわずに済んでよかったのか?』
――もしも、喰らうべきだと言うならば、その時は、ありとあらゆる修行者は、皆、三頓六十棒を喰らわねばならない。
――もしも、喰らう必要も義務もないと言うならば、その時は、雲門文偃(ぶんえん)という大騙(おおかた)りが、またとんでもない流言蜚語を吐いたということになる。
――さあて、この、どんよりとしたありさまを、ぱっと明るく晴らせたならば、洞山父さん、あなたのために、文偃煤煙一吹きで、飛ばして心も、青い空!」
次いで囃して言う。
獅子は子を 谷に堕(お)として教導す
その子また 堕ちると見せて絶壁に とんぼを打つて 身を翻(かえ)す
はしなくも 今 第二問 バスンと正鵠!
一の矢 するりと皮を剥ぎ 二の矢で ブっすり心の臓
[淵藪野狐禪師注:
・「三頓」一頓は警策・拄杖(しゅじょう)で二十回叩かれることを言う。「査渡」及び「報慈」の地名は不詳。識者の御教授を乞う。
・「江西湖南」はそのまま訳したが、西村注によれば『略して江湖とも。江西には馬祖(ばそ)、江南には石頭(せきとう)というごとく、唐代の中国で禅の盛んであった地方。転じて天下の意。』とあり、そのようなスケールでの謂いと、確かにとるべきところである。但し、西村氏も該当箇所は『江西だの湖南だのと』と訳しておられる。
・「草木叢林」は大小の禅林、すべての禅寺、すべての禅者の意。]