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2009/05/26

上海游記 五 病院

       五 病院

 私はその翌日から床に就いた。さうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云ふ事だつた。假にも肋膜炎になつた以上、折角企てた支那旅行も、一先づ見合せなければならないかも知れない。さう思ふと大いに心細かつた。私は早速大阪の社へ、入院したと云ふ電報を打つた。すると社の薄田氏から、「ユツクリレウヨウセヨ」と云ふ返電があつた。しかし一月なり二月なり、病院にはいつたぎりだつたら、社でも困るのには違ひない。私は薄田氏の返電にほつと一先(ひとまづ)安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考へると、愈心細がらずにはゐられなかつた。
 しかし幸ひ上海には、社の村田君や友住君の外にも、ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。さうしてこれらの友人知己は、忙しい體にも關らず、始終私を見舞つてくれた。しかも作家とか何とか云ふ、多少の虚名を負つてゐたおかげに、時時未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの罐が、聊か處分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救つてくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の私から見ると、いづれも不思議な程健啖だつた。)いや、さう云ふ御見舞物を辱(かたじけな)くしたばかりぢやない始は未知の御客だつた中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合ひをする諸君が、二人も三人も出來るやうになつた。俳人四十起(き)君もその一人である。石黑政吉君もその一人である。上海東方通信社の波多博君もその一人である。
 それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなつて見ると、不安は依然として不安だつた。どうかすると眞つ晝間でも、ぢつと横になつてはゐられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。私はかう云ふ神經作用に、祟られたくない一心から、晝は滿鐵の井川氏やジヨオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手當り次第讀破した。ラ・モツトの短篇を讀んだのも、テイツチエンズの詩を讀んだのも、ジャイルズの議論を讀んだのも、悉この間の事である。夜は、――これは里見さんには内證だつたが、萬一の不眠を氣づかふ餘り、毎晩缺かさずカルモチンを呑んだ。それでさへ時時は夜明け前に、眠がさめてしまふのには辟易した。確か王次囘(わうじくわい)の疑雨(ぎう)集の中に、「藥餌無徴怪夢頻」とか云ふ句がある。これは詩人が病氣なのぢやない。細君の重病を歎いた詩だが、當時の私を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だつた。「藥餌無徴怪夢頻」私は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。
 その内に春は遠慮なしに、ずんずん深くなつて行つた。西村が龍華(ロンホア)の桃の話をする。蒙古風(かぜ)が太陽も見えない程、黄塵を空へ運んで來る。誰かがマンゴオを御見舞にくれる。もう蘇州や杭州を見るには、持つて來いの氣候になつたらしい。私は隔日に里見さんに、ドイヨヂカルの注射をして貰ひながら、このベッドに寢なくなるのは、何時の事だらうと思ひ思ひした。
 附記 入院中の事を書いてゐれば、まだいくらでも書けるかも知れない。が、格別上海なるものに大關係もなささうだから、これだけにして置かうと思ふ。唯事き加へて置きたいのは、里見さんが新傾向の俳人だつた事である。次手(ついで)に近什(きんぢふ)を一つ擧げると、
     炭をつぎつつ胎動のあるを語る

[やぶちゃん注:上陸翌日の3月31日は、治りきっていなかった感冒がまたぞろ悪化し、萬歳館で床に就いたままとなる。翌4月1日上海の里見病院に入院、乾性肋膜炎の診断を受ける。入院はおよそ3週間に及び、4月23日に退院した。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。
・「里見さんの病院」里見医院。岩波版新全集注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。芥川の病室は二階の細い通路に面したベランダつきの一室』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。芥川の渡中の出迎えにも出た大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間(後述)であった縁故での入院。
・「乾性の肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。
・「薄田氏」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治10(1877)年~昭和20(1945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正12(1923)年末には新聞社を休職している。
・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。
・「ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。……」ここにきわめて類似した文句が、退院した翌日の父芥川道章に宛てた書簡に現れる(旧全集書簡番号八八二)。発病と病名と今後も身体の具合が悪くなるようであれば、北京行きは見合わせて揚子江南岸のみ見物して帰朝するつもりであること、今日まで手紙を書かなかったのはかえって心配をかけることを憚ってのことであったことを告げ、
一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉やジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ、見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少なき小生の病氣のことを毎日のやうに掲載致し候爲井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」とひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口へ參るつもりに候 以上
として日付「四月二十四日」と「上海萬歳館内 芥川龍之介」の署名が入る(二伸があるが省略)。なお、「井川君」は後の注の「「滿鐵の井川氏」を参照。
・「四十起君」島津四十起(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和23(1948)年)。俳人・歌人。明治33(1900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が病床で開いた句会での芥川の作が岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。

街の敷石耗り春雨流るゝ

吾子が自由畫の目白うららか

星空暖かに屋根々々の傾き

春雨が暖かい支那人顏の汚れ

大正15(1926)年11月11日上海で刊行された島津四十起の句集『荒彫』に、表記の題で四十起の句六句と併せて「我鬼」の署名で掲載され、末尾には「一九二一年四月一六日」「(我鬼は芥川氏の俳号)」という注記がなされているとする(岩波版新全集後記)。「耗り」は「耗(すりへ)り」と読ませているものと思われる。
・「石黑政吉君」筑摩版脚注は「不詳」とし、岩波版注解では注さえ挙げていない。私は、これは「石黑定一」の誤りではないかと思う。石黒定一(明治29(1896)年~昭和61(1986)年)は当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物である。直前の友人「西村貞吉」の「さだきち」(という読みであるとすれば)と「石黑定一」の「さだかず」(という読みであるとすれば)、これらは音が混同し易い気がする。芥川の石黒定一への思いが半端なものでないことは、廬山からの5月22日附石黒定一宛書簡(旧全集書簡番号九〇二)に明白である。

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
     留別
   夏山に虹立ち消ゆる別れかな

更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には彼に捧げられた一節さえあるのである。

       人生
        ――石黑定一君に――
 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。
 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?
 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

       又

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。

       又

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

識者の御意見を伺いたいものである。
・「波多博君」筑摩版脚注・岩波版注解共に注を挙げていない。一つ気になるのは、岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引に現れる「波多野乾一」なる人物である。それによると『波多野乾一(1890-1963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)とある人物である。識者の御意見を乞う「上海ウォーカーライン」の陳祖恩氏の上海の新聞人であった「井手三郎」についての記載に、『1929年11月、年老いた井手は日本円五万円で《上海日報》を波多博に売り、故郷熊本に隠居した。《上海日報》は《上海日日新聞》《上海毎日新聞》と並び、上海3大日本語新聞としてその名を馳せた。』という文脈で登場する。井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年)は熊本出身の新聞人で、芥川の「江南游記」の「十三 蘇州城内(上)」にも登場する島田太堂(本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊、その後に『上海日報』を創刊した。この記載から、この当時は上海東方通信社の責任者(主筆や経営陣の一人)であった可能性が強いように思われる。ちなみに上海東方通信社は宗方小太郎(文久3・元治元(1864)年~大正13(1924)年):所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。)の創立になるもので、波多は彼の弟子で、敗戦間際には彼の伝記の執筆も計画していたことが神奈川大学外国語学部大里浩秋氏の論文「上海歴史研究所所蔵宗方小太郎資料について」により判明した。
・「滿鐵の井川氏」は、井川亮。当時、南満州鉄道株式会社に勤務していた、芥川の一高時代の無二の親友井川恭の兄である。この頃、上海に滞在していた。
・「ラ・モツト」Friedrich Heinrich Karl de la Motteフリードリヒ・ハインリヒ・カール・ド・ラ・モッテ(1777~1843)は、ドイツの初期ロマン主義詩人。現在は男爵名のFriedrich de la Motte Fouquéフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケーの末尾「フーケー」で呼ばれることが多い。始めは軍人であったが、後に作家に転身した。代表作『ウンディーネ』(1811)はよく知られる幻想の悲恋物語である。
・「テイツチエンズ」Eunice Tietjensユニス・テッチエンズ(1884~1944)はアメリカの女流詩人。1916年に渡中、漢詩に強い影響を受けたとされる。芥川龍之介の「パステルの龍」の中に以下の芥川による訳詩が所収する(岩波版旧全集から引用)。

     夕明り
      ――Eunice Tietjens――

 乾いた秋の木の葉の上に、雨がぱらぱら落ちるやうだ。美しい狐の娘さんたちが、小さな足音をさせて行くのは。

     洒落者
      ――同上――

 彼は緑の絹の服を着ながら、さもえらさうに歩いてゐる。彼の二枚の上着には、毛皮の縁がとつてある。彼の天鵞絨の靴の上には、褲子(くうづ)の裾を卷きつけた、意氣な蹠(くるぶし)が動いてゐる。ちらちらと愉快さうに。
 彼の爪は非常に長い。
 朱君は全然流行の鏡とも云ふべき姿である!
 その華奢な片手には、――これが最後の御定りだが、――竹の鳥籠がぶらついてゐる。その中には小さい茶色の鳥が、何時でも驚いたやうな顏をしてゐる。
 朱君は寛濶な微笑を浮べる。流行と優しい心、と、この二つを二つながら、滿足させた人の微笑である。鳥も外出が必要ではないか?

     作詩術
      ――同上――

 二人(ふたり)の宮人は彼の前に、石竹の花の色に似た、絹の屏風を開いてゐる。一人の嬪妃は跪きながら、彼の硯を守つてゐる。その時泥醉した李太白は、天上一片の月に寄せる、激越な詩を屏風に書いた。

「洒落者」の詩中の「褲子(くうづ)」は“kùz”でズボンのような下袴のこと。
・「ジャイルズ」Herbert Allen Giles(1845~1933)ハーバード・アレン・ジャイルズはイギリスの外交官・中国学者。平凡社「世界大百科事典」によれば『1880年(光緒6)以来、中国各地の領事を務めて93年に引退し、97年ケンブリッジ大学の中国語教授に招かれた。1932年に引退するまで、イギリス東洋学界の権威として数々の栄誉を受けた。学風は穏健で,中国人の思想や生活を深く理解しており、とくに中国詩文の翻訳にすぐれていた。《中英辞典》(1892)、《古今姓氏族譜》(1897)ほか、数百編の著書、論文がある。四男のライオネル・ジャイルズ Lionel Giles(1875‐1958)は大英博物館東洋部長となり、スタイン収集の敦煌漢文文献の整理に従事し、1957年その分類目録を出版した』(読点を変更した)とある。芥川が好きな「聊斎志異」の選訳もある。また、ウェード式ローマ字を“Wade-Giles”と英語で呼称するのは、彼が改良したからである。
・「カルモチン」催眠鎮静剤であるbromvalerylureaブロムワレリル尿素の武田薬品工業商品名(既に販売中止)。芥川の日記や文章に、また旧来の薬物自殺や心中事件にしばしば挙がってくる名であるが、致死性は低い。
・「王次囘」明代末の詩人。本名王彦泓(びんおう)。次回は字。「疑雨集」は彼の四巻からなる詩集。永井荷風は随筆「初硯」で彼を中国のボードレールと呼び、『感情の病的なる』「疑雨集」を「悪の華」に比肩するものとしている。
・「藥餌無徴怪夢頻」は「藥餌徴無くして怪夢頻り」で、「薬が全く効かず、怪しい夢ばかりを見る」の意。
・「龍華の桃の話」「龍華」“lónghuā”は龍華鎮という地名。現在の上海市中心区の西南部に位置する徐匯(じょわい)区にある。そこにある禅宗の龍華寺は上海地区でも最も古く、三国時代創建の1700年の歴史を持ち、規模の点でも最大。この寺は桃の花の名所でもある。
・「蒙古風」モンゴル及び中国東北部の黄土地帯で吹く春の季節風が、黄土の細かな砂塵を大量に巻き上げて、中国東方や日本にまで吹き寄せてくるものを言う。日本では春の季語である。
・「ドイヨヂカル」不詳。沃化カリウム(ドイツ語Jodkalium)のことか。カリウムと沃素の化合物で医薬品としてバセドウ氏病や、被爆時の甲状腺異常の抑止剤として用いられるが、果たして筑摩版脚注や岩波版新全集注解の言うような「ヨード化カリウム」(このような言い方はないと思う)という「強壮剤」として、それをこのように頻繁に肋膜炎の患者に打ってよいものかどうか、私は知らない。医師の御意見を乞いたい。
・「里見さんが新傾向の俳人だつた事」里見医院院長里見義彦は河東碧梧桐門下の俳人でもあった。
・「炭をつぎつつ胎動のあるを語る」について、新全集注解には『里見澄子「父の句碑」(「太白」三六五号)に「外地に住み、心細い若い夫婦がお互いにいたわり合って冬の或る日に語り合っている姿が忍ばれます。胎動とあるのは、義妹美代子さんのこと」と解釈されている』とある。この注のは、恐らく筑摩版脚注で「胎動」を『中国での民主化運動をさす』という、中国風に言えば載道的な解釈をしているのを意識して、敢えて言志的解釈を示したというべきか。医師という里見氏の職業柄から考えれば、私はやはり実際の胎児の胎動でなくては句にならない気がする。私はちなみにかつて若い頃は荻原井泉水の「層雲」に拠って自由律俳句を作っていた。]

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