聖書とヘビイチゴ 又は 今日の僕の憂鬱の完成
今日、久しぶりに駅まで歩くと、点々と聖書が破り捨てられて落ちているのであった。
――僕はふと、その一片を拾って、キリスト者たちがするように、そこに書かれた聖句を僕の今日の糧とすることも一興ではなかろうかとも思ったが、結局、僕の無神論的な愚劣な知性が――否――正直に言えば、読むことによって、呪縛される愚かしい僕の臆病な魂が――それを躊躇させた――そうしていたら――僕は「歯車」の主人公のように、今日の暗示された何ものかに感じて、もしかするとこれから人生を別な方向に進めていたかもしれない気もしないでもなかったが――しかし、拾ったそれが黙示録であったりすれば、きっと僕は、確かに、にやりと笑んで、それを今日の授業で高校生に言うぐらいな、不遜な男ではあるのであった――
いや、そんな、僕のエゴチズムはどうでもいい――
何より、その知れぬ聖句の書かれている一枚の白い紙のすぐそばには――吃驚するような真っ赤なヘビイチゴが一つ、あったのだった――
それが僕には鮮烈だったのだ――
へびいちご――
何とも言えぬこの懐かしい響き!
……小学校の頃、同じ道、畦道だった同じ道を歩いた記憶を思い出す……そうして、僕は歩きながら思う――イヴが――何より先にヘビイチゴを食べていたら……
……食べていたら……きっと彼女は、遥かに鮮烈でない、くすんだまずそうな知恵の実なんぞを、決して食べなかったに違いない……と……そうして僕は、退屈極まりない下劣な職場に向かう汽車に、乗ったのであった――
……へびいちご……Indian strawberry……ブッダもそれを見たのか……