目から鱗の蛇心清姫以下諸々
この度の見し外題、
「寿式三番叟」
「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこひのねたば)
古市油屋の段
奥庭十人斬りの段
「日高川入相花王」(ひだかがわいりあひざくら)
真那古庄司館の段
渡し場の段
「寿式三番叟」にて、文楽は稀に見る多種目大人数総合芸術体力勝負なるを知れり。感服仕り候――
「伊勢音頭恋寝刃」にて、文楽を現代の倫理観から鑑賞することの無効性を痛感せると同時に、現代のホラー・スプラッターの先取りなる一面をも見出せり。否、それは現代のホラー・スプラッターが至るを得ない健全なる清浄上質の代償効果による社会的カタルシスの効用を持ちたらんことを確信せり――十人斬り万歳!――
何時もながら蓑助の憎つくき万野(まんの)の神技に魅せられたるは言ふに及ばず――蓑助はやつぱり叩き上げぢや、土門の写真のあの永遠の少年(プエル・エテルヌス)の黒子が、今も彼の中には居るぢや、だから誰(たれ)も手が届かぬのぢやて――
「日高川入相花王」
一つ! 若い太夫はやはり老練の太夫とは月と鼈なり! そもそも声音(こわね)に拘るからだめぢや。声のいぶし銀は、技巧ではない。情を語るは、演技にあらず。「語り」は「語り」にして「演じる」にあらざるを知れ――
一つ! 紋寿清姫、凄絶なり! 想定線を引きて居たる我が愚かしさを反省すること頻りなり。「真那古庄司館の段」の冒頭から、思ひそめてき清姫の一矢宿命のベクトルが、その鬼なればこその神の美に至るなり。「渡し場の段」川面に反りし清姫と添ふる紋寿の美しきかな。それ、それこその「道行」なり――
一つ! ガブも凄絶なり! 想定線を引きて居たる我が愚かしさを反省すること頻りなり。決して、小手先のフィギアにあらず、情念・情念・情念の魂窮まんとすなり。欲を言ふならばもちつと舞台を暗く致いて漁師のガンドウにて面を照らすといふやうな手法は使へぬものならんか。体擲って入水致し、激しきうねりの蛇体となり、川渡り終へたる清姫の、元の頭に戻りて居たる、その柳の枝に見えし時、我は思はず、落涙して居たり――