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2009/05/03

無門關 二十四 離却語言

  二十四 離却語言

風穴和尚、因僧問、語默渉離微、如何通不犯。穴云、長憶江南三月裏、鷓鴣啼處百花香。

無門曰、風穴機如掣電得路便行。爭奈坐前人舌頭不斷。若向者裏見得親切、自有出身之路。且離却語言三昧、道將一句來。

頌曰

不露風骨句
未語先分付
進歩口喃喃
知君大罔措

淵藪野狐禪師書き下し文:

  二十四 離却語言(りきやくごげん)

 風穴和尚、因みに僧、問ふ、
「語默離微に渉るに、如何にせば通じて不犯なる。」
と。
 穴云く、
「長(とこしな)へに憶ふ 江南三月の裏(うち)
 鷓鴣(しやこ)啼く處  百花香んばし」
と。

 無門曰く、
「風穴、機、掣電(せいでん)のごとく、路(みち)を得て、便ち行く。爭-奈(いかん)せん、前人の舌頭を坐して不斷なることを。若し者裏(しやり)に向かひて見得して親切ならば、自(お)づから出身の路、有らん。且らく語言三昧を離却して、一句を道(い)ひ、將(も)ち來たれ。」
と。

 頌して曰く、

風骨の句を露さず
未だ語らざるに先ず分付(ぶんぷ)す
歩を進めて口喃喃(くちなんなん)
知んぬ君が大いに措(を)くこと罔(な)きを

淵藪野狐禪師訳:

  二十四 言葉を離れた言語(げんご)

 風穴延沼(ふううけつえんしょう)和尚が、ある時、機縁の中で、ある衒学的な僧に、
「僧肇(そうじょう)はその著『宝蔵論』の離微体浄品第二で『其れ入れるときは離、其れ出づるときは微』『謂ひつべし、本浄の体(てい)、離微なりと。入るに拠るが故に離と名づけ、用(ゆう)に約するが故に微と名づく。混じて一と為す』とありますが、これは、全一なる絶対的実存の本質であるところのものが『離』であり、その『離』が無限に働くところの多様な現象の様態なるものが『微』である、ということを述べております。さて、本来の清浄な真実(まこと)というものの存在は、この『離』と『微』とが渾然と一体になったものであるわけですが、しかし乍ら、ここに於いて、本来の清浄な真実について、『語ること』を以ってすれば、それは『微』に陥ることとなり、また、逆に、それを避けるために『沈黙すること』を以ってすれば、今度は『離』に陥ってしまうこととなります。では一体、どのようにしたら、そのような過ちを犯すことなくいられるのでしょうか?」
と問われた。
 すると、風穴和尚は、如何にも大仰に深呼吸すると、おもむろに詩を嘯かれた。
「何時の日も 懐かしく思い出すのは
 江南の春……春三月ともなると
 鷓鴣の『シン ブゥ デェ イェ グー グー! 行不得也哥哥(シン ブゥ デェ イェ グー グー)! シン ブゥ デェ イェ グー グー!(行かないで、兄さん!)』という鳴き声がし 百花咲き乱れ えも言われぬ芳しい香がただよう……」

 無門、商量して言う。
「雷神風穴(ふうけつ)、その働き、ピカッ! と一閃、行先へ、ズズン! と風穴(かざあな)、刳(く)り開けた。されど残念! 不二の風穴(ふうけつ)! 先人の『詩の一句』をも吹っ切ることで、真実(まこと)を示し得なかったとは!――さても、もし、この壺(こ)の穴の中にある、桃花咲き添う江南の、景色の天へとすんなりと、入(はい)れたならば、おのずから、見えもしようよ、出離するべき、お前の行くべき、その道が。さあさ、言葉を離れた処(とこ)で、そこのところを一言(ひとこと)に、一句ものして、持っといで。」

 次いで囃して言う。

……詩情なんか 示さない――
……歌う前から 僕は とっくに君に 僕の魂を 分けてあげたよ――
……だのに 君たちは 不潔な蠅のように 僕の心に群がって
 ……わんわんと 唸りたてている――
……ああっ! 心がただ一筋に打ち込める
 ……そんな時代は 再び来ないものか……

[淵藪野狐禪師注:西村注によれば、本則は『杜甫の詩を借りて語黙を越えた世界を示す。『無門關』の『西柏抄』に「長えに憶うは黙、鷓鴣啼くは語」という。『人天眼目』巻一の臨済四料揀の項に「如何なるか人境倶不奪。穴云く、常に憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く処百花香し」と見える。』とあるのだが、この『杜甫の詩』なるものが、私には見つからない。私が馬鹿なのか、インターネットがおかしいのか。検索をかけても詩聖杜甫の詩のはずなのに、全然、引っ掛かってこない。いろいろな「無門關」のサイトも調べてみたが、杜甫の詩とするばかりで、よく見ると、どの注にも詩題が示されていない。「長憶江南三月裏 鷓鴣啼處百花香」この幻の詩は、一体、何処(いずこ)? ご存知の方、御教授を乞う。もじっているのであろうが、かなり絞った単語の検索でも、相似形の詩は見つからないのだが……。如何にも気持ちが悪い。だから、私も「頌」の訳には、僕の好きな『先人』ランボーの『詩の一節』を『借りて』復讐してみた。不親切な多くの注釈者のように、敢えて私も、その詩の題は言わぬことにしておこう(しかし、余りに著名な詩だからすぐ分かっちゃうかな。でもこのエッチ大好きだった人の訳は訳じゃなくて翻案だよな、原詩と比べると全く別の詩だぜ)。なお、僧の台詞のくだくだしい訳は、この「離微」に附された詳細な西村注を参照にして、ぶくぶくに膨らましてメタボリックにデッチ上げたものである。原文は御覧の通り、この僧の台詞は、実際には簡潔明瞭で、衒学的というのも当らないかもしれない。とりあえず、この僧に対しては、ここで謝罪をしておく。
・「僧肇」(374~414)は東晋の僧。鳩摩羅什(くまらじゅう:(344~413)僧・仏典翻訳家。中央アジア出身、父はインド人。長安で訳経に従事し、その訳業は「法華経」「阿弥陀経」など35部300巻に及ぶ)の門下にあって、彼の仏典漢訳を助け、弟子中、理解第一と讃えられた。「宝蔵論」は彼の代表的著作である。
・「鷓鴣」はキジ目キジ科コモンシャコFrancolinus pintadeanusを指す。正式中文名は中華鷓鴣であるがが、単に鷓鴣“zhègū”(チョークー)と呼ばれる事が多い。別名、越雉(えっち)、懐南など。中国南部・東南アジア・インドに分布し、灌木林・低地に棲むが、食用家禽として飼育もされている。地上を走行するのは得意だが、飛行は苦手である(以上はウィキの「コモンシャコ」を参照した)。
・「ブゥ デェ イェ グー グー! 行不得也哥哥(シン ブゥ デェ イェ グー グー)! シン ブゥ デェ イェ グー グー!(行かないで、兄さん!)」“xíng bù dé yě gē gē ”。中国人はこの鷓鴣の鳴き声に、このような人語を聴き、如何にもの哀しいものを感じるという(ということは、この鷓鴣の鳴き声に限っては、中国人は日本人と同じように左脳で聴いているのかも知れない!)。「鳥類在唐詩中的文學運用」という中文ページに鷓鴣について『代表思郷愁緒:鷓鴣為南方特有的鳥類,故離郷背井的南人最怕聽到』とある。ただ、そのような雰囲気をこの詩自体が、この鷓鴣の鳴き声で出そうとしているかどうかは、定かではない。]

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